yes!~明日への便り~presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ

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第472話 己の後悔と向き合う
-【千葉県にまつわるレジェンド篇】芸術家 高村光太郎-

[2024.09.14]

Podcast 

「僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る
 ああ、自然よ
 父よ
 僕を一人立ちにさせた広大な父よ
 僕から目を離さないで守る事をせよ」
という有名な書き出しで知られる『道程(どうてい)』。
この詩を書いた、レジェンドがいます。
高村光太郎(たかむら・こうたろう)。
高村光雲(たかむら・こううん)という高名な彫刻家の長男として生まれた彼は、当然のことのように彫刻の道に進みますが、一方で、いつも父親の存在に悩みます。
どちらかというと分業制をとり、職人肌だった父に対抗するかのように、文学や絵画にのめりこみ、職人というより、芸術家として独り立ちしたいという欲求に駆られました。
絶えず、父とは違うアイデンティティを探す日々。
そうして辿り着いたのが、詩を書くという行為でした。
いかに人の魂を揺さぶる作品を創るか、ということに心を砕いた74年の生涯の中で、高村光太郎は、二度の大きな後悔を経験します。
ひとは、後悔をせずには生きられないのかもしれません。
そして、その後悔をどう心の中に収めるかが、その後の人生を左右するのでしょう。
光太郎の一つ目の後悔は、妻、智恵子を早くに亡くしてしまったこと。
千葉県の九十九里で、心と体を病んだ智恵子を懸命に看病しますが、その甲斐もなく、妻は、彼が56歳のとき、亡くなります。
「夫が僕のような芸術家ではなく、芸術を解する一般のひとだったり、あるいは全く無関係のひとだったりすれば、君は心を壊さずに済んだのかもしれない」と激しく自分を責めます。
もうひとつの後悔は、太平洋戦争に際して、戦意高揚のための戦争詩を多く書いてしまったこと。
戦後、彼はそんな自分を罰するかのように、7年もの間、岩手県花巻の山奥にひとり、引きこもります。
今なお彼の作品が私たちの心をうつのは、自らの後悔から目をそむけず、真正面から対峙した姿勢にあるのかもしれません。
戦前から戦後を生き抜いた芸術家・高村光太郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?


彫刻家で画家、詩人としても有名な高村光太郎は、1883年3月13日、東京下谷、現在の台東区東上野に生まれた。
父は、彫刻家の高村光雲。
光雲は、仏像を専門に作る仏師に弟子入りしたが、象牙彫刻が隆盛を極め、仕事がない。
当時、木彫りは衰退していたが、光雲はその木彫りを彫刻の世界に復活させた。
光太郎が生まれたばかりの頃は、家は貧しい長屋暮らし。
やがて父の木彫りが世に認められ、光太郎7歳のとき、父は東京美術学校、現在の東京芸大彫刻科の教授に昇格した。
その人事には、岡倉天心の推薦があったという。
長男だった光太郎には、父という壁が大きく立ちはだかった。
父は、考えること、学ぶことが嫌い。職人気質の親分肌。
多くの弟子たちに囲まれ、酒を飲むのが好きだった。
見栄をはり、他人にお金を用立てたり、仕事を世話することで気分を良くしていた。
光太郎は、幼い頃から体が弱く、大人しい。
4歳まで、人前でほとんど口がきけなかった。
父はどんどん出世していき、家で話す声も大きくなっていく。
父が、怖い。すごいとは思うが、自分とは違うひと。
父の跡を継ぐことを受け入れるしかなかったが、光太郎の中に少しずつ、父に対する違和感が膨らんでいった。

高村光太郎は、7歳か8歳の時、絶対的な存在の父から彫刻刀を3本もらった。
受け取るとき、体が震えた。もう後戻りできない。
自分は父の跡を継いで彫刻家になるしか、道はない。
そう己に言い聞かせる。
父は、伝統的な木彫りの技を事細かく、弟子たちに伝授していた。
それが彼の誇りであり、生きる意味だった。
光太郎は、15歳で東京美術学校の予科に無試験で合格。
この入学を機に、彼は変わっていく。
激しい知識欲が彼を突き動かす。
図書館に通い、むさぼるように、古今東西の本を読んだ。
英語学校に通い、ヴァイオリンを習い、ボディビルで体を鍛えた。
友人と激しく議論する。
世の中が違って見えた。
片時も本を放さず読書。
そんな息子を父は嫌悪した。
「職人に学問はいらん」と、声を荒げることもあった。
しかし、光太郎の向学心を止めることはできない。
やがて、彼は父の弟子たちにも勉強を教えるようになり、辞書を与え、その活用をすすめた。
「文章を書くときの、誤字、脱字、あて書きは、最も恥ずかしいものです。
辞書をひきましょう。辞書には全てが詰まっています。
正確な言葉を書けば、必ず、あなたは尊敬されます」
光太郎が、学問から学んだこと。
それは、常に自分と対話するという姿勢だった。
父はすごいひとだ。
でも、今日の反省や後悔を、その日の酒でごまかしてしまう。
そこに、光太郎が思い描く未来はなかった。

高村光太郎は、長沼智恵子(ながぬま・ちえこ)という女性に会ったとき、「このひとは、僕の理想のひとだ」と思った。
絵の心得があり、文学の話もできる。何より、笑顔が輝いて見えた。
30歳のとき、スケッチ旅行で訪れた、千葉県の犬吠埼。
たまたま、智恵子と一緒になった。
吹き付ける風の中、二人で絵を画いた。
同じ波や空を見て、違う絵を描く。それが新鮮でうれしかった。
智恵子には、ときどき嫉妬を覚えるくらいの才能があった。
先に売れたのは、光太郎のほうだった。
絵に彫刻、詩集の出版。忙しくなる。
やがて、智恵子の心が、壊れていく。
いっさいの仕事を断り、一緒に千葉県の九十九里浜に移り住んだが、智恵子は、先に逝ってしまう。
『智恵子抄』を書くことで、思い出を留める。
それは、針を飲むより苦しい作業だった。
全ての刃が、自分に向く。
それでも、光太郎は、智恵子の死から目をそむけなかった。

戦争に加担したつもりはない。
でも、結果的に、戦意高揚の詩を書いてしまった。
その断罪は、己でしなくてはならない。

『詩人』
いくら目隠をされても己は向く方へ向く。
いくら廻されても針は天極をさす。
高村光太郎



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