第462話 ひらめいた考えを大切にする
-【静岡にまつわるレジェンド篇】医師 吉岡彌生-
[2024.07.06]
Podcast
日本初の女医養成機関を設立した女性がいます。
吉岡彌生(よしおか・やよい)。
21歳のときに、内務省医術開業試験に合格し、日本で27人目の女性医師になった吉岡ですが、医学界の女性への門は完全に開かれたとは言い難い状況が続きました。
いち早く男女共学を打ち出し、女性医師育成に尽力してきた医学校、済生学舎も、学内に女性がいることで風紀が乱れると判断。
やがて、女医不要論がまかりとおり、門は閉じられてしまいます。
それに納得できなかった吉岡は、ここで周囲も驚く行動に出ます。
「誰もつくらないのであれば、私がつくるしかない!」
こうして、彼女は、東京女子医科大学の前身、東京女医学校を設立したのです。
出身地、静岡県掛川市には、彼女の記念館があります。
1998年11月に開館した「掛川市吉岡彌生記念館」は、吉岡の人生を3つのステージに分け、わかりやすく解説。
移築した生家も見ることができます。
他の記念館と違うのは、そこに看護や医学の展示があること。
からだの仕組みがわかるパネルや、医学に関する書籍が並び、子どもから大人まで、医学の世界に触れられるスペースになっています。
そこに、記念館設立の志が垣間見られ、あたかも館内に、郷土の偉人が立っているように感じられます。
かかげられた、彼女の座右の銘。
『至誠一貫(しせいいっかん)』。
自分の信じたこと、まわりのひとへの誠意、それを貫けば、必ず、ひとに伝わり、世の中を動かすことができる。
吉岡は、女性がまだ社会的な活躍を認められなかった時代に、誠意という武器だけを手にとり、果敢に挑戦を続けました。
彼女の行動力の原点は、ひらめき。
ひとは、せっかくの「ひらめき」を、リスクヘッジをするがあまり、自分で壊してしまいます。
吉岡は、人生のいくつかの分岐点で、いつも、その「ひらめき」を大切にしてきたのです。
近代日本の女性進出の立役者、吉岡彌生が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
日本で初めて女医専門の医学校、東京女医学校を設立した吉岡彌生は、1871年、明治4年、現在の静岡県掛川市に生まれた。
明治4年には、維新後の変革、廃藩置県が施行された。
吉岡は、のちに自伝に、これは生涯の幸先の良い兆しだったと書いている。
新しい日本が、ここからいよいよ始まるという機運。
明治3年に、横浜でフェリス女学院の歴史が始まり、明治4年には、のちに津田塾大学をつくる津田梅子が、アメリカ留学に出発している。
吉岡が生まれたのは、掛川の宿場から峠をいくつか越えた、寒村。
茶畑や桑畑に囲まれたのどかな村だった。
父は漢方医、鷲山養斎(わしやま・ようさい)。
「ひらめき」と行動力のひとだった。
代々医者の家系。
野心を抱いた父は、江戸に出て一旗揚げたいと家族に告げる。
妻はもちろん、親戚一同が反対。
養斎は、村で唯一の医者で、村人の信頼も厚く、ここにいれば尊敬も家計も安泰だった。
でも、彼の決意は変わらない。
江戸に出て高名な漢方医の書生になるが、ほどなくして江戸の騒乱に巻き込まれ、わずか1年で故郷に帰還。
しかし、妻は心労の果て肺を病み、わずか25歳でこの世を去ってしまう。
その後、庄屋の娘、みせと再婚。
明治4年の春。彌生が生まれる。
父は、前妻を亡くしたことを重く受け止め、家族を大切にした。
家族だけではなく、村人の心身を健やかに保つため、奔走。
吉岡は父の口ぐせを覚えている。
「いいか、彌生、みんなそろって元気なのが、なによりなんだ」
吉岡彌生は、幼い頃から正義感の強い子どもだった。
村に、安吉(やすきち)といういじめっ子がいた。
通学路で、女子ばかりが標的になる。
妹も、学校に行くのを泣いて嫌がった。
ある朝。学校に向かう山道で、ばったり安吉に出会う。
吉岡は、安吉に挑みかかった。
あっという間に安吉は負け、泣きながら家に帰ってしまう。
教室に、安吉の姿はない。
吉岡は気が気でなかった。
家のひとが怒鳴り込んでこないか。
男の子をやっつけるなんて、校長先生に叱られはしないか。
結局、何事もなく、翌日は平然と安吉が登校。
自分が間違ったことをしていない自覚はあったが、どこかで後ろめたい気持ちがあった。
それは、暴力でやり返したこと。
別の日。クラスの男子が、先生に訴えた。
「なんで、掃除当番を男子だけにやらせるんですか!
女子ばかりひいきにして、不公平です!」
そのころどういうわけか、掃除当番は男の子だけにさせていて、女の子にはさせていなかった。
そこで、男子たちは、ここぞとばかりに女子を迫害した。
またしても、吉岡は立ち上がる。
でも、今度は暴力を使わない。
ふと、ひらめき、ある歴史書から引用。手紙をしたためた。
不心得者が、高貴な女性にひどい行いを加えた事例をあげ、男子の女子への蛮行を文章で訴えた。
担任の先生が、それをじっと読む。
「女だてらに」と叱られるかもしれない、そんな思いが頭をよぎる。
でも先生は、クラスのみんなに、その手紙を読んできかせた。
うれしかった。
自分の思い付きが正しかったと認めてもらったように感じた。
以来、男子のいじめはなくなった。
言葉の強さ、自分の思いを文章にすることの意義が、体に沁みわたった。
吉岡彌生にとって、医者として働く父の姿が、何よりの勉強になった。
父は、江戸で西洋の医学も学んでいたが、科学的な医術にばかり頼るのを嫌った。
まず患者さんの顔をしっかり見る。
脈をみて、体に触れたときの直感を大切にした。
どんなに元気そうなひとでも、往診のあと、亡くなるケースもある。
常に自分の五感を研ぎ澄まし、ふと湧いてくる違和感に耳を傾けた。
往診に向かった家が貧しいとわかると、母に米を届けさせた。
村人が迷信のたぐいを信じないように、時々、家に招いて説法した。
自分の直感にこそ、真理が隠されていること、そして、誠心誠意、まわりのひとのために尽くすこと。
この二つを、父の背中が教えてくれた。
人生の局面で壁にぶつかったとき、吉岡は、父の生き様から学んだことで乗り切ることができた。
「一人の人間が自分の頭に閃いた考えを全責任を持って実行に移す生き方。それが私の一貫した方針です」
吉岡彌生
【ON AIR LIST】
◆DOCTOR (WORK IT OUT) / Pharrell Williams & Miley Cyrus
◆TEGAMI / Mei Semones (メイ・シモネス)
◆TRUE TO YOUR HEART / 98 Degrees feat. Stevie Wonder
★今回の撮影は、「掛川市吉岡彌生記念館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
利用案内など、詳しくは公式ホームページにてご確認ください。
掛川市吉岡彌生記念館 HP
吉岡彌生(よしおか・やよい)。
21歳のときに、内務省医術開業試験に合格し、日本で27人目の女性医師になった吉岡ですが、医学界の女性への門は完全に開かれたとは言い難い状況が続きました。
いち早く男女共学を打ち出し、女性医師育成に尽力してきた医学校、済生学舎も、学内に女性がいることで風紀が乱れると判断。
やがて、女医不要論がまかりとおり、門は閉じられてしまいます。
それに納得できなかった吉岡は、ここで周囲も驚く行動に出ます。
「誰もつくらないのであれば、私がつくるしかない!」
こうして、彼女は、東京女子医科大学の前身、東京女医学校を設立したのです。
出身地、静岡県掛川市には、彼女の記念館があります。
1998年11月に開館した「掛川市吉岡彌生記念館」は、吉岡の人生を3つのステージに分け、わかりやすく解説。
移築した生家も見ることができます。
他の記念館と違うのは、そこに看護や医学の展示があること。
からだの仕組みがわかるパネルや、医学に関する書籍が並び、子どもから大人まで、医学の世界に触れられるスペースになっています。
そこに、記念館設立の志が垣間見られ、あたかも館内に、郷土の偉人が立っているように感じられます。
かかげられた、彼女の座右の銘。
『至誠一貫(しせいいっかん)』。
自分の信じたこと、まわりのひとへの誠意、それを貫けば、必ず、ひとに伝わり、世の中を動かすことができる。
吉岡は、女性がまだ社会的な活躍を認められなかった時代に、誠意という武器だけを手にとり、果敢に挑戦を続けました。
彼女の行動力の原点は、ひらめき。
ひとは、せっかくの「ひらめき」を、リスクヘッジをするがあまり、自分で壊してしまいます。
吉岡は、人生のいくつかの分岐点で、いつも、その「ひらめき」を大切にしてきたのです。
近代日本の女性進出の立役者、吉岡彌生が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
日本で初めて女医専門の医学校、東京女医学校を設立した吉岡彌生は、1871年、明治4年、現在の静岡県掛川市に生まれた。
明治4年には、維新後の変革、廃藩置県が施行された。
吉岡は、のちに自伝に、これは生涯の幸先の良い兆しだったと書いている。
新しい日本が、ここからいよいよ始まるという機運。
明治3年に、横浜でフェリス女学院の歴史が始まり、明治4年には、のちに津田塾大学をつくる津田梅子が、アメリカ留学に出発している。
吉岡が生まれたのは、掛川の宿場から峠をいくつか越えた、寒村。
茶畑や桑畑に囲まれたのどかな村だった。
父は漢方医、鷲山養斎(わしやま・ようさい)。
「ひらめき」と行動力のひとだった。
代々医者の家系。
野心を抱いた父は、江戸に出て一旗揚げたいと家族に告げる。
妻はもちろん、親戚一同が反対。
養斎は、村で唯一の医者で、村人の信頼も厚く、ここにいれば尊敬も家計も安泰だった。
でも、彼の決意は変わらない。
江戸に出て高名な漢方医の書生になるが、ほどなくして江戸の騒乱に巻き込まれ、わずか1年で故郷に帰還。
しかし、妻は心労の果て肺を病み、わずか25歳でこの世を去ってしまう。
その後、庄屋の娘、みせと再婚。
明治4年の春。彌生が生まれる。
父は、前妻を亡くしたことを重く受け止め、家族を大切にした。
家族だけではなく、村人の心身を健やかに保つため、奔走。
吉岡は父の口ぐせを覚えている。
「いいか、彌生、みんなそろって元気なのが、なによりなんだ」
吉岡彌生は、幼い頃から正義感の強い子どもだった。
村に、安吉(やすきち)といういじめっ子がいた。
通学路で、女子ばかりが標的になる。
妹も、学校に行くのを泣いて嫌がった。
ある朝。学校に向かう山道で、ばったり安吉に出会う。
吉岡は、安吉に挑みかかった。
あっという間に安吉は負け、泣きながら家に帰ってしまう。
教室に、安吉の姿はない。
吉岡は気が気でなかった。
家のひとが怒鳴り込んでこないか。
男の子をやっつけるなんて、校長先生に叱られはしないか。
結局、何事もなく、翌日は平然と安吉が登校。
自分が間違ったことをしていない自覚はあったが、どこかで後ろめたい気持ちがあった。
それは、暴力でやり返したこと。
別の日。クラスの男子が、先生に訴えた。
「なんで、掃除当番を男子だけにやらせるんですか!
女子ばかりひいきにして、不公平です!」
そのころどういうわけか、掃除当番は男の子だけにさせていて、女の子にはさせていなかった。
そこで、男子たちは、ここぞとばかりに女子を迫害した。
またしても、吉岡は立ち上がる。
でも、今度は暴力を使わない。
ふと、ひらめき、ある歴史書から引用。手紙をしたためた。
不心得者が、高貴な女性にひどい行いを加えた事例をあげ、男子の女子への蛮行を文章で訴えた。
担任の先生が、それをじっと読む。
「女だてらに」と叱られるかもしれない、そんな思いが頭をよぎる。
でも先生は、クラスのみんなに、その手紙を読んできかせた。
うれしかった。
自分の思い付きが正しかったと認めてもらったように感じた。
以来、男子のいじめはなくなった。
言葉の強さ、自分の思いを文章にすることの意義が、体に沁みわたった。
吉岡彌生にとって、医者として働く父の姿が、何よりの勉強になった。
父は、江戸で西洋の医学も学んでいたが、科学的な医術にばかり頼るのを嫌った。
まず患者さんの顔をしっかり見る。
脈をみて、体に触れたときの直感を大切にした。
どんなに元気そうなひとでも、往診のあと、亡くなるケースもある。
常に自分の五感を研ぎ澄まし、ふと湧いてくる違和感に耳を傾けた。
往診に向かった家が貧しいとわかると、母に米を届けさせた。
村人が迷信のたぐいを信じないように、時々、家に招いて説法した。
自分の直感にこそ、真理が隠されていること、そして、誠心誠意、まわりのひとのために尽くすこと。
この二つを、父の背中が教えてくれた。
人生の局面で壁にぶつかったとき、吉岡は、父の生き様から学んだことで乗り切ることができた。
「一人の人間が自分の頭に閃いた考えを全責任を持って実行に移す生き方。それが私の一貫した方針です」
吉岡彌生
【ON AIR LIST】
◆DOCTOR (WORK IT OUT) / Pharrell Williams & Miley Cyrus
◆TEGAMI / Mei Semones (メイ・シモネス)
◆TRUE TO YOUR HEART / 98 Degrees feat. Stevie Wonder
★今回の撮影は、「掛川市吉岡彌生記念館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
利用案内など、詳しくは公式ホームページにてご確認ください。
掛川市吉岡彌生記念館 HP