第446話 優しい力で世界を変える
-【岩手にまつわるレジェンド篇】教育者 淵澤能恵-
[2024.03.16]
Podcast
女子教育に一生を捧げた、花巻出身のレジェンドがいます。
淵澤能恵(ふちざわ・のえ)。
東北の寒村に生まれた彼女は、養女に出され、さびしい幼少期を過ごします。
最初の転機は、明治12年、29歳のとき。
鉱山技師のパーセルに女中として仕えていましたが、パーセル一家の帰国に同行して、ロサンゼルスにおもむくことになったのです。
日本に帰ってからは、同志社大学で学び、その後、東洋英和、下関洗心女学校、福岡英和女学校など、日本各地で女子教育発展に尽くしました。
次の転機は、明治38年、55歳のとき。
海を渡り、韓国で女学校創立に邁進したのです。
平均寿命が今ほど高くなかった時代。
55歳の女性が韓国の地で新しい挑戦をするというのは、どれほどの覚悟と勇気が必要だったことでしょう。
淵澤は、見事やり抜きました。
日韓の橋渡しを成し遂げ、彼女が創設に関わった、首都ソウルの「淑明学園」の「淑明女子大学」は、世界に名立たる名門大学としてその名を馳せ、優秀な人材を輩出し続けています。
女性蔑視や人種差別が激しかった時代に、逆風をものともせず、立ち向かった淵澤能恵。
何が彼女を、そこまで駆り立てたのでしょうか。
晩年、彼女の印象を尋ねると、みな一様にこう言ったそうです。
「いつも、ニッコリ笑って、よく来たねえと抱きしめてくれました」
淵澤が目指したのは、優しい力。
暴力でも権力でもなく、優しさでひとや世界を変えていきたい。そんな願いが、今も全国、そして世界中に息づいているのです。岩手県が生んだ女子教育の聖母マリア、淵澤能恵が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
女子教育のレジェンド、淵澤能恵は、1850年5月8日、奥羽国関口村、現在の岩手県石鳥谷町に生まれた。
淵澤の本家は、盛岡藩 花巻城の城代。
能恵の家は、軽輩の家老だった。
身分は高くないが、父は学問のあるひとで、村人に漢学などを教えていた。
凶作が続き、農家たちは貧困にあえいでいた。
能恵が生まれた年、追い打ちをかけるような災厄がおとずれる。
村を襲った、大火事。
村のほとんどが焼け野原になった。
飢えや寒さに苦しむ農民は一揆を起す。
しかし、事態はいっこうに改善されなかった。
次女だった能恵は、養子に出されることになる。
まだ生後9か月だった。
「これは、決して間引きではない」
父は、自分をなんとか納得させようとしたが、我が子を手放すことに変りはない。
養子先は、慎重に選ぶ。
自分と同等の家老、濱田家にお願いした。
母は、濱田家の玄関先に、能恵をそっと置いて、その場を去った。
能恵は泣かずに、じっと天を見つめていた。
淵澤能恵は、養子に入った濱田家で大切に育てられた。
頭がよく、明るい能恵を、養父は可愛がる。
しかし、6歳のとき、養父が亡くなった。
失意の養母を必死に励まそうと、能恵は、さまざまな手伝いをした。
蚕が食べる桑の葉を摘みに行く。
炊事、掃除、草取り。
やれることはなんでもやった。
自分が養女であることは自覚している。
養父母は、ほんとうに大事にしてくれた。
彼女の中に『恩返し』という気持ちが芽生え、それは歳を重ねるごとに枝を広げ、葉を茂らせた。
養父は、3つの遺言を遺した。
学問を大事にすること、気持ちの温かい思いやりのある家にすること。
そして3番目に、妻にあて、こうしたためていた。
「どんなことがあっても、能恵は、手放してはいけない。
ひとりぼっちにしてはいけない。
私亡きあと、新しい縁組があるだろうが、必ず、能恵を連れていきなさい」
その遺言を養母から聞いて、能恵は泣き崩れた。
「どうして血のつながっていない私に、こんなに優しくしてくれるんだろう」
養母は夫の遺言を守り、実家に戻っても、再婚しても、能恵が嫁ぐ日まで、能恵を守り、彼女の学業を支援し、共に生きた。
淵澤能恵は、どんな境遇でも、学ぶことをやめなかった。
履物屋で奉公をしているときも、23歳で結婚してからも。
歳を重ねると、養父の言葉がようやく理解できるようになった。
床に臥せながら、養父は言った。
「能恵、いいかい、学問をするとね、人間は優しくなるんだ。
なぜかというと、いろんなことを知れば知るほど、自分が何も知らないことに気がつくんだよ。
だから謙虚になる。
そうして、他のひとも、生き物や自然も、自分より偉く感じるようになる。
だから、驕(おご)らない、いばらない。
全てのものに感謝できるようになる。
いいかい、優しいってことはね、この世でいちばん大切なことなんだよ」
能恵の結婚生活は長く続かず、岩手の釜石にいる兄のもとに身を寄せた。
釜石は日本一良質な鉱石が採掘されると評判で、製鉄業でにぎわっていた。
明治政府が招へいした外国人技師・パーセルは、お手伝いさんを探していた。
誰もが外国人の家で働くことを怖がったが、能恵は違った。
ちょうど外国語を学びたいと思っていた。
その向学心が、彼女を異国の地に運ぶことになる。
パーセルは、勉強熱心な能恵の背中を押してくれた。
淵澤能恵の座右の銘。
「憂きことの なおこの上に積もれかし 限りある身の力ためさん」
【ON AIR LIST】
◆道 / 宇多田ヒカル
◆SPRING SNOW / パク・チユン
◆明日に架ける橋 / ジェイコブ・コリアー feat. ジョン・レジェンド&トリー・ケリー
【参考文献】
『淵澤能恵の生涯 海を越えた明治の女性』村上淑子 著(原書房)
淵澤能恵(ふちざわ・のえ)。
東北の寒村に生まれた彼女は、養女に出され、さびしい幼少期を過ごします。
最初の転機は、明治12年、29歳のとき。
鉱山技師のパーセルに女中として仕えていましたが、パーセル一家の帰国に同行して、ロサンゼルスにおもむくことになったのです。
日本に帰ってからは、同志社大学で学び、その後、東洋英和、下関洗心女学校、福岡英和女学校など、日本各地で女子教育発展に尽くしました。
次の転機は、明治38年、55歳のとき。
海を渡り、韓国で女学校創立に邁進したのです。
平均寿命が今ほど高くなかった時代。
55歳の女性が韓国の地で新しい挑戦をするというのは、どれほどの覚悟と勇気が必要だったことでしょう。
淵澤は、見事やり抜きました。
日韓の橋渡しを成し遂げ、彼女が創設に関わった、首都ソウルの「淑明学園」の「淑明女子大学」は、世界に名立たる名門大学としてその名を馳せ、優秀な人材を輩出し続けています。
女性蔑視や人種差別が激しかった時代に、逆風をものともせず、立ち向かった淵澤能恵。
何が彼女を、そこまで駆り立てたのでしょうか。
晩年、彼女の印象を尋ねると、みな一様にこう言ったそうです。
「いつも、ニッコリ笑って、よく来たねえと抱きしめてくれました」
淵澤が目指したのは、優しい力。
暴力でも権力でもなく、優しさでひとや世界を変えていきたい。そんな願いが、今も全国、そして世界中に息づいているのです。岩手県が生んだ女子教育の聖母マリア、淵澤能恵が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
女子教育のレジェンド、淵澤能恵は、1850年5月8日、奥羽国関口村、現在の岩手県石鳥谷町に生まれた。
淵澤の本家は、盛岡藩 花巻城の城代。
能恵の家は、軽輩の家老だった。
身分は高くないが、父は学問のあるひとで、村人に漢学などを教えていた。
凶作が続き、農家たちは貧困にあえいでいた。
能恵が生まれた年、追い打ちをかけるような災厄がおとずれる。
村を襲った、大火事。
村のほとんどが焼け野原になった。
飢えや寒さに苦しむ農民は一揆を起す。
しかし、事態はいっこうに改善されなかった。
次女だった能恵は、養子に出されることになる。
まだ生後9か月だった。
「これは、決して間引きではない」
父は、自分をなんとか納得させようとしたが、我が子を手放すことに変りはない。
養子先は、慎重に選ぶ。
自分と同等の家老、濱田家にお願いした。
母は、濱田家の玄関先に、能恵をそっと置いて、その場を去った。
能恵は泣かずに、じっと天を見つめていた。
淵澤能恵は、養子に入った濱田家で大切に育てられた。
頭がよく、明るい能恵を、養父は可愛がる。
しかし、6歳のとき、養父が亡くなった。
失意の養母を必死に励まそうと、能恵は、さまざまな手伝いをした。
蚕が食べる桑の葉を摘みに行く。
炊事、掃除、草取り。
やれることはなんでもやった。
自分が養女であることは自覚している。
養父母は、ほんとうに大事にしてくれた。
彼女の中に『恩返し』という気持ちが芽生え、それは歳を重ねるごとに枝を広げ、葉を茂らせた。
養父は、3つの遺言を遺した。
学問を大事にすること、気持ちの温かい思いやりのある家にすること。
そして3番目に、妻にあて、こうしたためていた。
「どんなことがあっても、能恵は、手放してはいけない。
ひとりぼっちにしてはいけない。
私亡きあと、新しい縁組があるだろうが、必ず、能恵を連れていきなさい」
その遺言を養母から聞いて、能恵は泣き崩れた。
「どうして血のつながっていない私に、こんなに優しくしてくれるんだろう」
養母は夫の遺言を守り、実家に戻っても、再婚しても、能恵が嫁ぐ日まで、能恵を守り、彼女の学業を支援し、共に生きた。
淵澤能恵は、どんな境遇でも、学ぶことをやめなかった。
履物屋で奉公をしているときも、23歳で結婚してからも。
歳を重ねると、養父の言葉がようやく理解できるようになった。
床に臥せながら、養父は言った。
「能恵、いいかい、学問をするとね、人間は優しくなるんだ。
なぜかというと、いろんなことを知れば知るほど、自分が何も知らないことに気がつくんだよ。
だから謙虚になる。
そうして、他のひとも、生き物や自然も、自分より偉く感じるようになる。
だから、驕(おご)らない、いばらない。
全てのものに感謝できるようになる。
いいかい、優しいってことはね、この世でいちばん大切なことなんだよ」
能恵の結婚生活は長く続かず、岩手の釜石にいる兄のもとに身を寄せた。
釜石は日本一良質な鉱石が採掘されると評判で、製鉄業でにぎわっていた。
明治政府が招へいした外国人技師・パーセルは、お手伝いさんを探していた。
誰もが外国人の家で働くことを怖がったが、能恵は違った。
ちょうど外国語を学びたいと思っていた。
その向学心が、彼女を異国の地に運ぶことになる。
パーセルは、勉強熱心な能恵の背中を押してくれた。
淵澤能恵の座右の銘。
「憂きことの なおこの上に積もれかし 限りある身の力ためさん」
【ON AIR LIST】
◆道 / 宇多田ヒカル
◆SPRING SNOW / パク・チユン
◆明日に架ける橋 / ジェイコブ・コリアー feat. ジョン・レジェンド&トリー・ケリー
【参考文献】
『淵澤能恵の生涯 海を越えた明治の女性』村上淑子 著(原書房)