第445話 後の世を見据える
-【岩手にまつわるレジェンド篇】政治家 後藤新平-
[2024.03.09]
Podcast
関東大震災の帝都復興に尽力した、岩手県出身の政治家がいます。
後藤新平(ごとう・しんぺい)。
1923年9月1日に起きた関東大震災。後藤は66歳でした。
おりしも、第二次山本内閣の組閣の最中で、後藤は、内務大臣 兼 帝都復興院 総裁に任命されます。
首都東京、そして横浜を中心に多大な被害をもたらした、未曾有の地震と火災。
後藤は災害に強い、未来の帝都を実現するため、速やかに復興計画書を作成しました。
特に彼が重要視したのが、道路整備と緑地建設。
東京から放射線状に延びる道路と、環状線として機能する道。
南北軸を昭和通り、東西軸は靖国通り、環状線の基本には明治通りを配したのです。
環境の保全や避難所の役割も果たす緑地政策では、隅田公園、浜町公園などを建設。
現在の東京の基礎は、後藤が造ったといっても過言ではありません。
岩手県奥州市立後藤新平記念館のホームぺージでは、彼が演説した肉声を聴くことができます。
演説で力説しているのは「政治の倫理化」。
腐敗した政治を一掃し、日々、不安や不満を感じる国民のために、精一杯尽くそうとする、彼の倫理観が前面に押し出されています。
この記念館には、関東大震災当日と思われる直筆のメモ書きや、復興概念図が展示され、当時の切迫した空気感が、胸に迫ってきます。
後藤の名言にこんな言葉があります。
「よく聞け。金を残して死ぬ者は下、仕事を残して死ぬ者は中、人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」
後年、彼は、ひとを育てることに心を砕きました。
自分が一生のうちに培った、金、地位、知識や知恵、それらはお墓の中に持っていっても仕方がない。
ならば、後進に伝えよう、譲ろう。
それが後藤の提案であり、信念でした。
ひとの人生ははかない。
もし、それを有意義なものにできるとしたら、後の世のために、何が残せるかだと考えたのです。
感染症対策に功績を残した医師であり、復興の神様でもあった、唯一無二の政治家、後藤新平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
後藤新平は、1857年7月24日、仙台藩 水沢城下、現在の岩手県奥州市水沢に生まれた。
家は、江戸時代に水沢伊達家と呼ばれる留守氏に仕えた一門。
後藤は、幼い頃から漢学や蘭学に触れ、才気煥発な男の子だった。
遠縁に、幕末の蘭学者・高野長英(たかの・ちょうえい)がいた。
高野は異国船打払令に反対、開国を叫んだため、幕府から弾圧を受け、脱獄の上、自害した人物。
顔も高野に似ていた後藤少年は、「裏切り者!」と言われ、いじめを受けた。
なぜ、いじめを受けるのか、わからない。
家に石を投げ込まれ、泥道で突き飛ばされる。
ただ、彼は思った。
「自分が悪くないのなら、堂々としていればいい。こそこそしたり、へつらえば、自分に嘘をつくことになる」
しかし、さらに彼を追い込んだのは、後藤家が代々仙台藩に仕えたこと。
旧幕府軍についた仙台藩出身者は、賊軍と揶揄され、結局、後藤家は士族の地位を捨てた。
家の中は、終始、暗い空気に包まれていた。
不遇の少年期。
でも、後藤は必死に勉強した。
自分を強くするということ。
雪の下の植物は、密かに栄養を蓄え、雪解けを待つ。
後藤新平の運命を変える出会いが待っていた。
13歳で、胆沢県の県庁に通うことになる。
賊軍出身者と揶揄された後藤が、県庁で働けるとは誰も思っていなかった。
彼を登用したのは、肥後 熊本藩士の安場保和(やすば・やすかず)。
安場は、西郷隆盛にその実力を買われ、岩倉使節団の欧米視察に参加。
リベラルで先鋭的な感覚の持ち主だった。
後藤は、立派な県庁の会議室で、安場に問うた。
「なぜ、私を県の職員に?」
安場は答えた。
「それは、極めて簡単なことだよ、後藤君。君が優秀だからだ。
君が、今のわが県に、そして日本に、必要だからだ。
どこの出身かなんて関係ない。
私は君を育てたいんだ。
そう思わす何かが、君の中にある」
後藤は、うれしかった。
それまで、影の道を歩いているような気がしていた。
ようやく、日なたに出られた。
県庁の窓から見える緑。陽光を受けて、キラキラ輝いていた。
後藤新平は、安場のもとで必死に働いた。
役人の家の玄関番や掃除、雑用はなんでもやった。
空いた時間は、本を読んだ。古今東西の書物。
有難いことに、日本で手に入る最先端の出版物が、県庁にそろえられていた。
安場は後藤を可愛がり、何かにつけて彼を同行させた。
安場は言った。
「いいかい、ひとの命なんて、たかだかしれている。
でもね、君の人生を生かせる、たったひとつの方法があるんだ。
それはね、育てること。
後輩、後進のひとを大切に育むこと。
私たちが生きている道は、未来につながっているんだよ」
15歳のとき、安場と同じ肥後出身の荘村省三(しょうむら・しょうぞう)という役人のもとに、書生として弟子いりすることになる。
もちろん、安場の口利きだった。
青雲の志を胸に上京。
東京の街は、活気に満ちていた。
ワクワクする。
しかし…荘村は、後藤を「この賊軍め!」と事あるごとに罵倒した。
いかに安場が素晴らしいひとか、わかった。
結局、政治の世界は、何藩の出身かが大切だった。
希望の光は、消えた。
心を病み、ふるさとに帰る。
安場は、後藤にある提案をする。
「政治家ではなく、医者にならないか。君なら立派な医者になれる」
医師として感染症対策に奔走したのち、後藤にもう一度政治家になる時期がめぐってきた。
後藤はもう迷わなかった。
これまでの思いを全てぶつける。
そして、安場先生の言葉を思い出す。
「自分の人生は、未来へとつながっている」
【ON AIR LIST】
◆トーキョー・ドライブ / 土岐麻子
◆SAMURAI / THE SKA FLAMES
◆SMILE~晴れ渡る空のように~ / 桑田佳祐
★今回の撮影は、「後藤新平記念館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
開館時間など、詳しくは公式HPにてご確認ください。
後藤新平記念館 公式HP
後藤新平(ごとう・しんぺい)。
1923年9月1日に起きた関東大震災。後藤は66歳でした。
おりしも、第二次山本内閣の組閣の最中で、後藤は、内務大臣 兼 帝都復興院 総裁に任命されます。
首都東京、そして横浜を中心に多大な被害をもたらした、未曾有の地震と火災。
後藤は災害に強い、未来の帝都を実現するため、速やかに復興計画書を作成しました。
特に彼が重要視したのが、道路整備と緑地建設。
東京から放射線状に延びる道路と、環状線として機能する道。
南北軸を昭和通り、東西軸は靖国通り、環状線の基本には明治通りを配したのです。
環境の保全や避難所の役割も果たす緑地政策では、隅田公園、浜町公園などを建設。
現在の東京の基礎は、後藤が造ったといっても過言ではありません。
岩手県奥州市立後藤新平記念館のホームぺージでは、彼が演説した肉声を聴くことができます。
演説で力説しているのは「政治の倫理化」。
腐敗した政治を一掃し、日々、不安や不満を感じる国民のために、精一杯尽くそうとする、彼の倫理観が前面に押し出されています。
この記念館には、関東大震災当日と思われる直筆のメモ書きや、復興概念図が展示され、当時の切迫した空気感が、胸に迫ってきます。
後藤の名言にこんな言葉があります。
「よく聞け。金を残して死ぬ者は下、仕事を残して死ぬ者は中、人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」
後年、彼は、ひとを育てることに心を砕きました。
自分が一生のうちに培った、金、地位、知識や知恵、それらはお墓の中に持っていっても仕方がない。
ならば、後進に伝えよう、譲ろう。
それが後藤の提案であり、信念でした。
ひとの人生ははかない。
もし、それを有意義なものにできるとしたら、後の世のために、何が残せるかだと考えたのです。
感染症対策に功績を残した医師であり、復興の神様でもあった、唯一無二の政治家、後藤新平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
後藤新平は、1857年7月24日、仙台藩 水沢城下、現在の岩手県奥州市水沢に生まれた。
家は、江戸時代に水沢伊達家と呼ばれる留守氏に仕えた一門。
後藤は、幼い頃から漢学や蘭学に触れ、才気煥発な男の子だった。
遠縁に、幕末の蘭学者・高野長英(たかの・ちょうえい)がいた。
高野は異国船打払令に反対、開国を叫んだため、幕府から弾圧を受け、脱獄の上、自害した人物。
顔も高野に似ていた後藤少年は、「裏切り者!」と言われ、いじめを受けた。
なぜ、いじめを受けるのか、わからない。
家に石を投げ込まれ、泥道で突き飛ばされる。
ただ、彼は思った。
「自分が悪くないのなら、堂々としていればいい。こそこそしたり、へつらえば、自分に嘘をつくことになる」
しかし、さらに彼を追い込んだのは、後藤家が代々仙台藩に仕えたこと。
旧幕府軍についた仙台藩出身者は、賊軍と揶揄され、結局、後藤家は士族の地位を捨てた。
家の中は、終始、暗い空気に包まれていた。
不遇の少年期。
でも、後藤は必死に勉強した。
自分を強くするということ。
雪の下の植物は、密かに栄養を蓄え、雪解けを待つ。
後藤新平の運命を変える出会いが待っていた。
13歳で、胆沢県の県庁に通うことになる。
賊軍出身者と揶揄された後藤が、県庁で働けるとは誰も思っていなかった。
彼を登用したのは、肥後 熊本藩士の安場保和(やすば・やすかず)。
安場は、西郷隆盛にその実力を買われ、岩倉使節団の欧米視察に参加。
リベラルで先鋭的な感覚の持ち主だった。
後藤は、立派な県庁の会議室で、安場に問うた。
「なぜ、私を県の職員に?」
安場は答えた。
「それは、極めて簡単なことだよ、後藤君。君が優秀だからだ。
君が、今のわが県に、そして日本に、必要だからだ。
どこの出身かなんて関係ない。
私は君を育てたいんだ。
そう思わす何かが、君の中にある」
後藤は、うれしかった。
それまで、影の道を歩いているような気がしていた。
ようやく、日なたに出られた。
県庁の窓から見える緑。陽光を受けて、キラキラ輝いていた。
後藤新平は、安場のもとで必死に働いた。
役人の家の玄関番や掃除、雑用はなんでもやった。
空いた時間は、本を読んだ。古今東西の書物。
有難いことに、日本で手に入る最先端の出版物が、県庁にそろえられていた。
安場は後藤を可愛がり、何かにつけて彼を同行させた。
安場は言った。
「いいかい、ひとの命なんて、たかだかしれている。
でもね、君の人生を生かせる、たったひとつの方法があるんだ。
それはね、育てること。
後輩、後進のひとを大切に育むこと。
私たちが生きている道は、未来につながっているんだよ」
15歳のとき、安場と同じ肥後出身の荘村省三(しょうむら・しょうぞう)という役人のもとに、書生として弟子いりすることになる。
もちろん、安場の口利きだった。
青雲の志を胸に上京。
東京の街は、活気に満ちていた。
ワクワクする。
しかし…荘村は、後藤を「この賊軍め!」と事あるごとに罵倒した。
いかに安場が素晴らしいひとか、わかった。
結局、政治の世界は、何藩の出身かが大切だった。
希望の光は、消えた。
心を病み、ふるさとに帰る。
安場は、後藤にある提案をする。
「政治家ではなく、医者にならないか。君なら立派な医者になれる」
医師として感染症対策に奔走したのち、後藤にもう一度政治家になる時期がめぐってきた。
後藤はもう迷わなかった。
これまでの思いを全てぶつける。
そして、安場先生の言葉を思い出す。
「自分の人生は、未来へとつながっている」
【ON AIR LIST】
◆トーキョー・ドライブ / 土岐麻子
◆SAMURAI / THE SKA FLAMES
◆SMILE~晴れ渡る空のように~ / 桑田佳祐
★今回の撮影は、「後藤新平記念館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
開館時間など、詳しくは公式HPにてご確認ください。
後藤新平記念館 公式HP