第444話 理不尽に負けない
-【岩手にまつわるレジェンド篇】歌人 石川啄木-
[2024.03.02]
Podcast
岩手県に生まれた、望郷の歌人がいます。
石川啄木(いしかわ・たくぼく)。
わずか26年の生涯でしたが、彼が詠んだ歌は、今も多くのひとに読み継がれています。
歌集『一握の砂』『悲しき玩具』が発表されてから110年以上が経ちますが、彼の歌が今もなお、私たちの心を揺さぶるのは、なぜでしょうか。
はたらけど
はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり
ぢっと手を見る
この有名な歌が示すように、啄木は、従来の短歌にはない、ある2つの挑戦を行いました。
ひとつは、3行、分かち書き。
はたらけどで、改行。
はたらけど猶わが生活楽にならざりで、改行。
『一握の砂』『悲しき玩具』は、全ての歌が、3行で綴られているのです。
これは、1910年に発表された、土岐哀果(とき・あいか)のローマ字歌集『NAKIWARAI』に影響を受けたという説もありますが、3行に区切られることで、啄木の思い、息遣いが聴こえてきます。
もうひとつの試みが、従来の短歌が花鳥風月を題材にしたものばかりなのに対して、啄木は、日常の生活や、日々感じる哀しみや不満を歌にしたことです。
彼が、自由に歌を詠みたいと考えた背景には、彼を取り巻く、理不尽な境遇があります。
啄木は、『歌のいろ/\』で、こう記しました。
「私自身が現在に於(おい)て意のまゝに改め得るもの、改め得べきものは、僅(わずか)にこの机の上の置時計や硯箱やインキ壺の位置とそれから歌ぐらゐ(い)なものである」
生まれながらの虚弱体質。貧困。
故郷を追われ、挙句の果てには、せっかく勤めていた小学校や新聞社が火事で焼けてしまう。
何一つ、思い通りにいかない人生。
理不尽に対抗する手段が、歌でした。
歌を自由に詠むことは、彼にとって、唯一の抵抗だったのかもしれません。
孤高の天才歌人、石川啄木が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
石川啄木は、1886年2月20日、岩手県日戸村で生まれた。
父は寺の住職。学問にあかるく、和歌を詠んだ。
父も母も、病弱の啄木を溺愛。
どんなわがままも許した。
啄木が1歳のとき、一家は、渋民村に移り住む。
渋民村の宝徳寺の住職が亡くなり、父が後釜に座ることになった。
このとき、先代の住職の息子家族を追い出すような形になり、檀家衆から反感を買う。
父は、交通の便もよく、宿場町として栄えていた渋民村に住みたかった。
その欲が、やがて、一家が渋民村を去る一因になるとは、思いもしなかった。
幼い啄木は、体こそ弱かったが、学業は優秀、色白で見栄えも良く、近所で評判の子ども。
ますますわがままな性格が進んだ。
渋民村は、風光明媚。
北上川が流れ、遠く岩手山を臨む。
啄木少年の原風景は、まぎれもなく、そこで育まれた。
湖に、白い水鳥がたくさん羽を休めていた。
それを見た幼い啄木は思った。
「あんなにたくさんいるんだから、たった一羽くらい、一億年も生きる鳥がいるかもしれない」
石川啄木は、幼い頃から、不思議な子どもだった。
わがまま放題にふるまうが、心の中にもうひとりの自分がいて、そんな自分を笑っている。
後に彼は、こんな句を詠んだ。
「わが胸の底の底にて誰(た)ぞ一人(ひとり)物にかくれて潸々(さめざめ)と泣く」
自分の胸の奥底にいる、もうひとりの自分。
そいつは、片時も自分から目を離さない。
ダメなとき、うまくいったとき、そのどちらも冷静に見ていた。
渋民尋常小学校を首席で卒業すると、盛岡の高等小学校に入学。
叔父の家に寄宿した。
わずか10歳にして親元を離れるのは寂しかったが、「みちのくの平安京」と言われた盛岡で暮らすというワクワクが勝った。
一心不乱に勉学に励み、盛岡尋常中学校、現在の岩手県立盛岡第一高等学校に合格。
128人中10位の成績だった。
中学に入ると、文学に傾倒。
よく授業をさぼって、現在の岩手公園がある、盛岡城があった、不来方城址に行った。
草むらに寝転がって、本を読む。
至福の時間だった。この時間が永遠に続けばいい。
でも、もうひとりの自分は、容赦なく否定する。
「そんなのは、今だけだ。そのうち、理不尽という名の嵐がやってくる」
啄木は、こんな歌を詠んだ。
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五(じふご)の心
かにかくに渋民村(しぶたみむら)は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川
石川啄木はそう詠んだが、渋民村には哀しい思い出がつきまとった。
盛岡での中学時代、文学に夢中になるあまり、成績は下降線をたどり、期末試験で不正行為を働いた罰で、結局、自主退学。
恥ずかしくて、故郷・渋民村に帰れなかった。
逃げるように、上京。
敬愛する与謝野鉄幹を訪ねるが、歓待はされず、学校に通う金もなかった。
もうひとりの自分が予見したとおり、理不尽な嵐が、彼を襲う。
常に生活は貧しく、自らの才能の発露がわからない。
ほんとうは、小説が書きたい。でも、うまくいかない。
体は衰弱し、血を吐いた。
北海道に移っても、事態は悪くなるばかりだった。
歌を詠んだとき、ふっと心が軽くなった。
「そうか、僕には歌があった。歌で戦えばいいんだな。
このどうしようもない理不尽な世の中と、歌で戦えばいいんだな」
そうつぶやいたとき、もうひとりの自分がふっと微笑んだ。
「歌は私の悲しい玩具である」
石川啄木
【ON AIR LIST】
◆初恋 / 石川啄木(詩)、森山良子
◆白鳥 / サン=サーンス(作曲)、モーリス・ジャンドロン(チェロ)
◆ふるさとの / 石川啄木(詩)、平井康三郎(作曲)、鮫島有美子
◆故郷になってください / THE BOOM
石川啄木(いしかわ・たくぼく)。
わずか26年の生涯でしたが、彼が詠んだ歌は、今も多くのひとに読み継がれています。
歌集『一握の砂』『悲しき玩具』が発表されてから110年以上が経ちますが、彼の歌が今もなお、私たちの心を揺さぶるのは、なぜでしょうか。
はたらけど
はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり
ぢっと手を見る
この有名な歌が示すように、啄木は、従来の短歌にはない、ある2つの挑戦を行いました。
ひとつは、3行、分かち書き。
はたらけどで、改行。
はたらけど猶わが生活楽にならざりで、改行。
『一握の砂』『悲しき玩具』は、全ての歌が、3行で綴られているのです。
これは、1910年に発表された、土岐哀果(とき・あいか)のローマ字歌集『NAKIWARAI』に影響を受けたという説もありますが、3行に区切られることで、啄木の思い、息遣いが聴こえてきます。
もうひとつの試みが、従来の短歌が花鳥風月を題材にしたものばかりなのに対して、啄木は、日常の生活や、日々感じる哀しみや不満を歌にしたことです。
彼が、自由に歌を詠みたいと考えた背景には、彼を取り巻く、理不尽な境遇があります。
啄木は、『歌のいろ/\』で、こう記しました。
「私自身が現在に於(おい)て意のまゝに改め得るもの、改め得べきものは、僅(わずか)にこの机の上の置時計や硯箱やインキ壺の位置とそれから歌ぐらゐ(い)なものである」
生まれながらの虚弱体質。貧困。
故郷を追われ、挙句の果てには、せっかく勤めていた小学校や新聞社が火事で焼けてしまう。
何一つ、思い通りにいかない人生。
理不尽に対抗する手段が、歌でした。
歌を自由に詠むことは、彼にとって、唯一の抵抗だったのかもしれません。
孤高の天才歌人、石川啄木が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
石川啄木は、1886年2月20日、岩手県日戸村で生まれた。
父は寺の住職。学問にあかるく、和歌を詠んだ。
父も母も、病弱の啄木を溺愛。
どんなわがままも許した。
啄木が1歳のとき、一家は、渋民村に移り住む。
渋民村の宝徳寺の住職が亡くなり、父が後釜に座ることになった。
このとき、先代の住職の息子家族を追い出すような形になり、檀家衆から反感を買う。
父は、交通の便もよく、宿場町として栄えていた渋民村に住みたかった。
その欲が、やがて、一家が渋民村を去る一因になるとは、思いもしなかった。
幼い啄木は、体こそ弱かったが、学業は優秀、色白で見栄えも良く、近所で評判の子ども。
ますますわがままな性格が進んだ。
渋民村は、風光明媚。
北上川が流れ、遠く岩手山を臨む。
啄木少年の原風景は、まぎれもなく、そこで育まれた。
湖に、白い水鳥がたくさん羽を休めていた。
それを見た幼い啄木は思った。
「あんなにたくさんいるんだから、たった一羽くらい、一億年も生きる鳥がいるかもしれない」
石川啄木は、幼い頃から、不思議な子どもだった。
わがまま放題にふるまうが、心の中にもうひとりの自分がいて、そんな自分を笑っている。
後に彼は、こんな句を詠んだ。
「わが胸の底の底にて誰(た)ぞ一人(ひとり)物にかくれて潸々(さめざめ)と泣く」
自分の胸の奥底にいる、もうひとりの自分。
そいつは、片時も自分から目を離さない。
ダメなとき、うまくいったとき、そのどちらも冷静に見ていた。
渋民尋常小学校を首席で卒業すると、盛岡の高等小学校に入学。
叔父の家に寄宿した。
わずか10歳にして親元を離れるのは寂しかったが、「みちのくの平安京」と言われた盛岡で暮らすというワクワクが勝った。
一心不乱に勉学に励み、盛岡尋常中学校、現在の岩手県立盛岡第一高等学校に合格。
128人中10位の成績だった。
中学に入ると、文学に傾倒。
よく授業をさぼって、現在の岩手公園がある、盛岡城があった、不来方城址に行った。
草むらに寝転がって、本を読む。
至福の時間だった。この時間が永遠に続けばいい。
でも、もうひとりの自分は、容赦なく否定する。
「そんなのは、今だけだ。そのうち、理不尽という名の嵐がやってくる」
啄木は、こんな歌を詠んだ。
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五(じふご)の心
かにかくに渋民村(しぶたみむら)は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川
石川啄木はそう詠んだが、渋民村には哀しい思い出がつきまとった。
盛岡での中学時代、文学に夢中になるあまり、成績は下降線をたどり、期末試験で不正行為を働いた罰で、結局、自主退学。
恥ずかしくて、故郷・渋民村に帰れなかった。
逃げるように、上京。
敬愛する与謝野鉄幹を訪ねるが、歓待はされず、学校に通う金もなかった。
もうひとりの自分が予見したとおり、理不尽な嵐が、彼を襲う。
常に生活は貧しく、自らの才能の発露がわからない。
ほんとうは、小説が書きたい。でも、うまくいかない。
体は衰弱し、血を吐いた。
北海道に移っても、事態は悪くなるばかりだった。
歌を詠んだとき、ふっと心が軽くなった。
「そうか、僕には歌があった。歌で戦えばいいんだな。
このどうしようもない理不尽な世の中と、歌で戦えばいいんだな」
そうつぶやいたとき、もうひとりの自分がふっと微笑んだ。
「歌は私の悲しい玩具である」
石川啄木
【ON AIR LIST】
◆初恋 / 石川啄木(詩)、森山良子
◆白鳥 / サン=サーンス(作曲)、モーリス・ジャンドロン(チェロ)
◆ふるさとの / 石川啄木(詩)、平井康三郎(作曲)、鮫島有美子
◆故郷になってください / THE BOOM