第440話 心に物語を持つ
-【京都にまつわるレジェンド篇】紫式部-
[2024.02.03]
Podcast
生涯でただ一つの長編小説『源氏物語』を書いた、平安時代中期の歌人がいます。
紫式部(むらさきしきぶ)。
紫式部は、本名ではなく、父・藤原為時(ふじわらのためとき)が式部省の役人だったことに由来する、いわばペンネーム。
平安時代は、女性の名前が正確に記録されることはなく、当初は、藤原氏出身ということで「藤式部(とうのしきぶ)」と呼ばれていました。
それがどのような経緯で紫式部になったのかは、諸説あります。
生まれ育った京都の紫野からとった、という説、藤の花の色から、という説、そして『源氏物語』の紫の上からつけられた、という説など、さまざまです。
世界最古の長編小説と言われている、『源氏物語』。
その唯一無二の作品は、名立たる有名作家に訳されてきました。
「紫式部は私の12才の時からの恩師である」と語った与謝野晶子。
円地文子(えんち・ふみこ)は、現代語訳をするためだけに、専用のアパートを借り、5年半かけて完成させました。
瀬戸内寂聴もまた、『源氏物語』を訳するためにマンションを購入、人生を賭けて対峙したのです。
近年では、角田光代さんによる現代語訳も大きな話題となりました。
海外でも早くから翻訳が進み、1966年には、日本人として初めて、ユネスコの「偉人年祭表」に加えられました。
なぜ、それほどまでに人は『源氏物語』に魅せられるのでしょうか。
およそ500人もが登場する、全54帖の大長編では、天皇家に生まれた光源氏の恋愛模様を中心に、宮廷でのさまざまな出来事、権力闘争が描かれます。
性格の違う女性を描き分ける筆力はもちろん、光源氏の哀しさや、人生に対する深い洞察は、千年の時を越えて、私たちの心の湖に大きな石を投げるように、幾重もの波紋を呼び起すのです。
平安時代、文学作品を書けるのは、御后や子どもたちが暮らす後宮に勤める、女房と呼ばれた女性でした。
紫式部が、女房文学の頂点に立つことができた理由とは?
そして、人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
紫式部は、天元元年、978年に生まれたという説がある。本名は、不明。
父、藤原為時は、菅原道真の孫の書生として漢学を学んだ歌人。
今でいう文部科学省の役人、式部丞や蔵人を歴任したが、花山天皇の退位により、失脚。
およそ10年間、官職につくことができなかった。
一家の家計は、逼迫。
貧しさの中、紫式部は幼少期を過ごした。
当時は、女子に学問は必要ないとされ、どこに嫁がせるかだけが一族の関心事だった。
職のない為時は、長男に漢学を教える。
しかし、長男はいっこうに興味を示さない。
父が教えるその横で、家事に精を出す、紫式部。
ある日、父は驚愕する。
教えてもいない漢詩をそらんじる、我が娘。
紫式部は、漢詩や和歌を好み、独学で学んでいた。
「ああ、そなたが男の子であったら」と父は嘆いた。
傍らで微笑む、優しい母。
しかし、最愛の母は、若くしてこの世を去ってしまう。
さらに同じ部屋で暮らした姉までも、命を失くす。
そのときの哀しさ、理不尽さ、非情さを、紫式部は、生涯忘れなかった。
そして彼女は、空想の世界に逃げることで、不条理な世界から、我が心を守った。
紫式部は、幼い頃から、自分の心の中にある「矛盾」に気がついた。
明るく積極的で好奇心旺盛、何事にも物怖じしない性格を自覚する一方、繊細過ぎて壊れそうな心、人の顔色ばかりうかがい、世間体を気にして思うように振る舞えない自分を持て余していた。
常に一方の自分が、もう一方につっこみを入れる。
「世の中は、思うようにしかならない。とにかく前へ前へ突き進むしかない」
「いいえ、人生は予期しないことの連続。足元の小さな石につまずかないこと、目立たず、嫌われず、それこそが大事なのです」
彼女は、手紙を好んだ。
手紙を書くことで、気持ちが整理され、心の安定を得ることができた。
そして手紙と共に、歌を詠んだ。
昔からの友だちに、久しぶりに会ったが、相手がすっかり変わってしまったことに驚き、早々に別れてしまったことを哀しみ、こんな歌にした。
『めぐりあひて 見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな』
百人一首で有名なこの句の意味は、「久しぶりでようやく会えたけれど、あなたかどうなのかわからないままに、お帰りになってしまい、夜中の月が雲に隠れるように、心残りな思いがしました」。
繊細な心は傷つきやすく、でもそこにこそ、物語を創る芽がそなわっていた。
紫式部が結婚をしたのは、20代後半と言われている。
当時の法令では、男性は15歳から、女性は13歳から結婚できると定められていた。
彼女の婚期が遅れたのは、一説によれば、父・為時の職のない時代が長かったためとされている。
平安時代、男性は婿として女性の実家に入るのが通例だった。
一家の主が無職の家には誰も入りたがらない。
紫式部の結婚相手は、二十以上歳が離れた藤原宣孝。
宣孝の一方的な熱愛から始まったが、お互い、歌を詠みあううちに、親しくなる。
子どもも生まれ、幸せの絶頂にあった最中、最愛の夫が病でこの世を去る。
結婚3年目のことだった。
再び、絶望と失意の日々。
苦しかった。
生きることをやめようとさえ思う。
でも、不思議なことに気がついた。
哀しい思いを日記や歌にしたためると、少しだけ、心が軽くなる。
物語にして客観視すると、さらに気持ちが楽になった。
こうして紫式部は、物語を心に置くことで、繊細な自分を立て直すことができた。
彼女は、のちに綴った。
「この世は、ままならない。
ならばそれに対抗すべく、好きな世界を心に描けばいい。
自分の心だけは、誰にも侵されない自分だけの王国なのだから」
【ON AIR LIST】
◆光る君へ メインテーマ Amethyst / 冬野ユミ(作曲)、反田恭平(ピアノ)
◆ことば / スザンヌ・ヴェガ
◆夕顔 ~源氏物語より~ / 川井郁子(ヴァイオリン)
◆大空を通ふ幻 / 紫式部(歌詞)、吉永小百合(歌)
紫式部(むらさきしきぶ)。
紫式部は、本名ではなく、父・藤原為時(ふじわらのためとき)が式部省の役人だったことに由来する、いわばペンネーム。
平安時代は、女性の名前が正確に記録されることはなく、当初は、藤原氏出身ということで「藤式部(とうのしきぶ)」と呼ばれていました。
それがどのような経緯で紫式部になったのかは、諸説あります。
生まれ育った京都の紫野からとった、という説、藤の花の色から、という説、そして『源氏物語』の紫の上からつけられた、という説など、さまざまです。
世界最古の長編小説と言われている、『源氏物語』。
その唯一無二の作品は、名立たる有名作家に訳されてきました。
「紫式部は私の12才の時からの恩師である」と語った与謝野晶子。
円地文子(えんち・ふみこ)は、現代語訳をするためだけに、専用のアパートを借り、5年半かけて完成させました。
瀬戸内寂聴もまた、『源氏物語』を訳するためにマンションを購入、人生を賭けて対峙したのです。
近年では、角田光代さんによる現代語訳も大きな話題となりました。
海外でも早くから翻訳が進み、1966年には、日本人として初めて、ユネスコの「偉人年祭表」に加えられました。
なぜ、それほどまでに人は『源氏物語』に魅せられるのでしょうか。
およそ500人もが登場する、全54帖の大長編では、天皇家に生まれた光源氏の恋愛模様を中心に、宮廷でのさまざまな出来事、権力闘争が描かれます。
性格の違う女性を描き分ける筆力はもちろん、光源氏の哀しさや、人生に対する深い洞察は、千年の時を越えて、私たちの心の湖に大きな石を投げるように、幾重もの波紋を呼び起すのです。
平安時代、文学作品を書けるのは、御后や子どもたちが暮らす後宮に勤める、女房と呼ばれた女性でした。
紫式部が、女房文学の頂点に立つことができた理由とは?
そして、人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
紫式部は、天元元年、978年に生まれたという説がある。本名は、不明。
父、藤原為時は、菅原道真の孫の書生として漢学を学んだ歌人。
今でいう文部科学省の役人、式部丞や蔵人を歴任したが、花山天皇の退位により、失脚。
およそ10年間、官職につくことができなかった。
一家の家計は、逼迫。
貧しさの中、紫式部は幼少期を過ごした。
当時は、女子に学問は必要ないとされ、どこに嫁がせるかだけが一族の関心事だった。
職のない為時は、長男に漢学を教える。
しかし、長男はいっこうに興味を示さない。
父が教えるその横で、家事に精を出す、紫式部。
ある日、父は驚愕する。
教えてもいない漢詩をそらんじる、我が娘。
紫式部は、漢詩や和歌を好み、独学で学んでいた。
「ああ、そなたが男の子であったら」と父は嘆いた。
傍らで微笑む、優しい母。
しかし、最愛の母は、若くしてこの世を去ってしまう。
さらに同じ部屋で暮らした姉までも、命を失くす。
そのときの哀しさ、理不尽さ、非情さを、紫式部は、生涯忘れなかった。
そして彼女は、空想の世界に逃げることで、不条理な世界から、我が心を守った。
紫式部は、幼い頃から、自分の心の中にある「矛盾」に気がついた。
明るく積極的で好奇心旺盛、何事にも物怖じしない性格を自覚する一方、繊細過ぎて壊れそうな心、人の顔色ばかりうかがい、世間体を気にして思うように振る舞えない自分を持て余していた。
常に一方の自分が、もう一方につっこみを入れる。
「世の中は、思うようにしかならない。とにかく前へ前へ突き進むしかない」
「いいえ、人生は予期しないことの連続。足元の小さな石につまずかないこと、目立たず、嫌われず、それこそが大事なのです」
彼女は、手紙を好んだ。
手紙を書くことで、気持ちが整理され、心の安定を得ることができた。
そして手紙と共に、歌を詠んだ。
昔からの友だちに、久しぶりに会ったが、相手がすっかり変わってしまったことに驚き、早々に別れてしまったことを哀しみ、こんな歌にした。
『めぐりあひて 見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな』
百人一首で有名なこの句の意味は、「久しぶりでようやく会えたけれど、あなたかどうなのかわからないままに、お帰りになってしまい、夜中の月が雲に隠れるように、心残りな思いがしました」。
繊細な心は傷つきやすく、でもそこにこそ、物語を創る芽がそなわっていた。
紫式部が結婚をしたのは、20代後半と言われている。
当時の法令では、男性は15歳から、女性は13歳から結婚できると定められていた。
彼女の婚期が遅れたのは、一説によれば、父・為時の職のない時代が長かったためとされている。
平安時代、男性は婿として女性の実家に入るのが通例だった。
一家の主が無職の家には誰も入りたがらない。
紫式部の結婚相手は、二十以上歳が離れた藤原宣孝。
宣孝の一方的な熱愛から始まったが、お互い、歌を詠みあううちに、親しくなる。
子どもも生まれ、幸せの絶頂にあった最中、最愛の夫が病でこの世を去る。
結婚3年目のことだった。
再び、絶望と失意の日々。
苦しかった。
生きることをやめようとさえ思う。
でも、不思議なことに気がついた。
哀しい思いを日記や歌にしたためると、少しだけ、心が軽くなる。
物語にして客観視すると、さらに気持ちが楽になった。
こうして紫式部は、物語を心に置くことで、繊細な自分を立て直すことができた。
彼女は、のちに綴った。
「この世は、ままならない。
ならばそれに対抗すべく、好きな世界を心に描けばいい。
自分の心だけは、誰にも侵されない自分だけの王国なのだから」
【ON AIR LIST】
◆光る君へ メインテーマ Amethyst / 冬野ユミ(作曲)、反田恭平(ピアノ)
◆ことば / スザンヌ・ヴェガ
◆夕顔 ~源氏物語より~ / 川井郁子(ヴァイオリン)
◆大空を通ふ幻 / 紫式部(歌詞)、吉永小百合(歌)