第437話 枠をはみだす
-【長野にまつわるレジェンド篇】越路吹雪-
[2024.01.13]
Podcast
昭和の音楽界を華やかに彩った「シャンソンの女王」がいます。
越路吹雪(こしじ・ふぶき)。
現在、NHKの朝の連続テレビ小説のモデルと言われる、「ブギの女王」・笠置シヅ子(かさぎ・しずこ)の、10歳年下。
宝塚音楽歌劇学校に入れなかった笠置とは違い、越路は、長野県飯山高等女学校在学中に、宝塚に合格。
男役トップスターとして、戦中、戦後を駆け抜けました。
しかし、入団当初、そのふるまいは、破天荒で規格外。
同期だった、美貌の月丘夢路、才能の乙羽信子に対抗するかのように、喫煙、飲酒に、門限破り。
ついたあだ名は「不良少女」だったのです。
トップに登り詰める欲もなく、ただ淡々と日々を過ごしていた越路。
ただ、ダンスだけは大好きで、レッスン場で人知れず練習していたと言われています。
背が高い彼女は男役として舞台に立ちますが、最初は目立つ存在ではありませんでした。
転機は、19歳のときの舞台『航空母艦』。
水兵役の彼女が甲板で浪花節『清水次郎長』をうなるシーン。
美しいハイトーンではなく、いきなり渋い浪花節。
客席はどよめきから拍手に、やがて大喝采に変ったのです。
越路の存在を世間に知らしめるワンシーン。
実は、この舞台のために、彼女は浪曲師・広沢虎造のレコードを擦り切れるまで聞き込んでいたのです。
他の人と比べると、足りないものばかりが目に入る。
そんなとき、彼女がとった行動は、「枠をはみだす」ということでした。
真正面からぶつかっていてはかなわないのであれば、自分は自分のやりかたで、努力し、学んでいく。
そうして彼女は、トップスターへの階段を上って行ったのです。
『愛の讃歌』で知られる唯一無二のエンターテイナー、越路吹雪が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
越路吹雪は、1924年2月18日、東京・麹町に生まれた。
家の都合で、新潟、長野と移り住む。
幼い頃から勉強が大嫌い。
学校は、サボってばかりいた。
ただ、唯一、夢中になったのが、歌だった。
ラジオから音楽が流れると、口ずさむ。
曲に合わせて、踊り出す。
そんな我が娘を見て、父は思った。
「この子はきっと、フツウの人生を歩ませたら、努力をしなくなる。興味を持っていることしか、一生懸命やらないから」
父は、越路に、宝塚をすすめた。
好きな歌やダンスに没頭できる場所。
13歳で合格。女学校は中退した。
入団のときの成績は、93人中、73位。
優等生ではない。
むしろ、落ちこぼれ。
いつも「そんなこと私には関係ない」という、淡々とした仮面をかぶった。
もし必死にやって認められなかったら、どうなるか。
怖い。
だから、「不良少女」を装っていた。
でも、舞台の世界は、想像以上に厳しかった。
華やかな光を浴びるその陰で、トップスターたちは、研鑽を積み、我慢し、耐え、己を律し続けていた。
越路は、その光と影の世界に、やがて自ら飛び込んでいく。
若き越路吹雪は、婦人雑誌の正月号の企画で、同い年の女優、高峰秀子と対談した。
宝塚トップスターと映画の大人気女優、お互い、それぞれの分野で飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
なごやかに対談が終わり、越路が会場を後にしようと廊下を歩いていたら、高峰とすれ違う。
高峰は、越路にこう言った。
「越路さんは、宝塚からハミ出している人だと思うの。
もっと広い大きな場所に出て歌ったらどうですか?」
実は、内心では思っていた。
女性だけの世界から飛び出したい。東京で勝負してみたい。
常々、考えていた。
自分は芸術家にはなれないが、一流の芸人になりたい。
歌とダンス、お芝居で最高のエンターテインメントを提供する。
泣いて笑って感動してほしい。
ただ…不安だった。
どんなに褒められても、自信を持てなかった。
それを見透かされないように、さらに仮面をかぶった。
26歳のとき、初めての国産ミュージカル、第1回帝劇コミック・オペラ『モルガンお雪』に主演。
大成功をおさめて、ようやく彼女は羽ばたくことを決める。
しかし不安は増幅し、やがて彼女の心をむしばんでいくことになる。
宝塚を飛び出した越路吹雪を公私共に支えたのが、宝塚時代からの親友、作詞家で翻訳家の岩谷時子だった。
越路は、岩谷が訳したシャンソンの詞に魅了された。
そして、語るような歌。
哀愁のこもったメロディ。
もっともっとシャンソンを知りたい。
人気絶頂の最中、越路は、フランス・パリに行った。
そこで彼女は運命的な歌手に出逢う。
エディット・ピアフ。
越路は、パリでの思いを日記に書いた。
「ピアフを二度聞く。語ることなし。私は悲しい。
夜、ひとりで泣く。悲しい、淋しい、私には何もない、何もない。
私は負けた。泣く、初めてパリで」
越路は、ピアフからシャンソンの真髄を教えてもらう。
歌い方、視線、手の動き、間の取り方、ドレス、化粧、動きの全てがお手本になった。
全てを吸収し、そして、はみだす。
ピアフのコピーではない。
枠からはみだすことで、越路吹雪にしか歌えない『愛の讃歌』が完成した。
でも、不安は彼女にいつまでもつきまとい、酒と煙草と睡眠薬が手放せなくなる。
舞台の袖で不安に震える彼女の背中に、マネージャーは指で書いた。
『虎』。
そして耳元でつぶやく。
「あなたは、虎。お客様は、猫なのよ」
伝説の歌姫は、枠からはみだすことで、己の不安と闘い続け、56年の生涯を歌に捧げた。
【ON AIR LIST】
◆ラストダンスは私に / 越路吹雪
◆サン・トワ・マミー / 越路吹雪
◆巴里祭 / パリ・アコーディオン・カルテット
◆Non, Je Ne Regrette Rien / Edith Piaf
◆愛の讃歌 / 越路吹雪
【参考文献】
『夢の中に君がいる』越路吹雪/岩谷時子(講談社刊)
『コーちゃんと真夜中のブランデー』高峰秀子(河出書房新社刊)
越路吹雪(こしじ・ふぶき)。
現在、NHKの朝の連続テレビ小説のモデルと言われる、「ブギの女王」・笠置シヅ子(かさぎ・しずこ)の、10歳年下。
宝塚音楽歌劇学校に入れなかった笠置とは違い、越路は、長野県飯山高等女学校在学中に、宝塚に合格。
男役トップスターとして、戦中、戦後を駆け抜けました。
しかし、入団当初、そのふるまいは、破天荒で規格外。
同期だった、美貌の月丘夢路、才能の乙羽信子に対抗するかのように、喫煙、飲酒に、門限破り。
ついたあだ名は「不良少女」だったのです。
トップに登り詰める欲もなく、ただ淡々と日々を過ごしていた越路。
ただ、ダンスだけは大好きで、レッスン場で人知れず練習していたと言われています。
背が高い彼女は男役として舞台に立ちますが、最初は目立つ存在ではありませんでした。
転機は、19歳のときの舞台『航空母艦』。
水兵役の彼女が甲板で浪花節『清水次郎長』をうなるシーン。
美しいハイトーンではなく、いきなり渋い浪花節。
客席はどよめきから拍手に、やがて大喝采に変ったのです。
越路の存在を世間に知らしめるワンシーン。
実は、この舞台のために、彼女は浪曲師・広沢虎造のレコードを擦り切れるまで聞き込んでいたのです。
他の人と比べると、足りないものばかりが目に入る。
そんなとき、彼女がとった行動は、「枠をはみだす」ということでした。
真正面からぶつかっていてはかなわないのであれば、自分は自分のやりかたで、努力し、学んでいく。
そうして彼女は、トップスターへの階段を上って行ったのです。
『愛の讃歌』で知られる唯一無二のエンターテイナー、越路吹雪が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
越路吹雪は、1924年2月18日、東京・麹町に生まれた。
家の都合で、新潟、長野と移り住む。
幼い頃から勉強が大嫌い。
学校は、サボってばかりいた。
ただ、唯一、夢中になったのが、歌だった。
ラジオから音楽が流れると、口ずさむ。
曲に合わせて、踊り出す。
そんな我が娘を見て、父は思った。
「この子はきっと、フツウの人生を歩ませたら、努力をしなくなる。興味を持っていることしか、一生懸命やらないから」
父は、越路に、宝塚をすすめた。
好きな歌やダンスに没頭できる場所。
13歳で合格。女学校は中退した。
入団のときの成績は、93人中、73位。
優等生ではない。
むしろ、落ちこぼれ。
いつも「そんなこと私には関係ない」という、淡々とした仮面をかぶった。
もし必死にやって認められなかったら、どうなるか。
怖い。
だから、「不良少女」を装っていた。
でも、舞台の世界は、想像以上に厳しかった。
華やかな光を浴びるその陰で、トップスターたちは、研鑽を積み、我慢し、耐え、己を律し続けていた。
越路は、その光と影の世界に、やがて自ら飛び込んでいく。
若き越路吹雪は、婦人雑誌の正月号の企画で、同い年の女優、高峰秀子と対談した。
宝塚トップスターと映画の大人気女優、お互い、それぞれの分野で飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
なごやかに対談が終わり、越路が会場を後にしようと廊下を歩いていたら、高峰とすれ違う。
高峰は、越路にこう言った。
「越路さんは、宝塚からハミ出している人だと思うの。
もっと広い大きな場所に出て歌ったらどうですか?」
実は、内心では思っていた。
女性だけの世界から飛び出したい。東京で勝負してみたい。
常々、考えていた。
自分は芸術家にはなれないが、一流の芸人になりたい。
歌とダンス、お芝居で最高のエンターテインメントを提供する。
泣いて笑って感動してほしい。
ただ…不安だった。
どんなに褒められても、自信を持てなかった。
それを見透かされないように、さらに仮面をかぶった。
26歳のとき、初めての国産ミュージカル、第1回帝劇コミック・オペラ『モルガンお雪』に主演。
大成功をおさめて、ようやく彼女は羽ばたくことを決める。
しかし不安は増幅し、やがて彼女の心をむしばんでいくことになる。
宝塚を飛び出した越路吹雪を公私共に支えたのが、宝塚時代からの親友、作詞家で翻訳家の岩谷時子だった。
越路は、岩谷が訳したシャンソンの詞に魅了された。
そして、語るような歌。
哀愁のこもったメロディ。
もっともっとシャンソンを知りたい。
人気絶頂の最中、越路は、フランス・パリに行った。
そこで彼女は運命的な歌手に出逢う。
エディット・ピアフ。
越路は、パリでの思いを日記に書いた。
「ピアフを二度聞く。語ることなし。私は悲しい。
夜、ひとりで泣く。悲しい、淋しい、私には何もない、何もない。
私は負けた。泣く、初めてパリで」
越路は、ピアフからシャンソンの真髄を教えてもらう。
歌い方、視線、手の動き、間の取り方、ドレス、化粧、動きの全てがお手本になった。
全てを吸収し、そして、はみだす。
ピアフのコピーではない。
枠からはみだすことで、越路吹雪にしか歌えない『愛の讃歌』が完成した。
でも、不安は彼女にいつまでもつきまとい、酒と煙草と睡眠薬が手放せなくなる。
舞台の袖で不安に震える彼女の背中に、マネージャーは指で書いた。
『虎』。
そして耳元でつぶやく。
「あなたは、虎。お客様は、猫なのよ」
伝説の歌姫は、枠からはみだすことで、己の不安と闘い続け、56年の生涯を歌に捧げた。
【ON AIR LIST】
◆ラストダンスは私に / 越路吹雪
◆サン・トワ・マミー / 越路吹雪
◆巴里祭 / パリ・アコーディオン・カルテット
◆Non, Je Ne Regrette Rien / Edith Piaf
◆愛の讃歌 / 越路吹雪
【参考文献】
『夢の中に君がいる』越路吹雪/岩谷時子(講談社刊)
『コーちゃんと真夜中のブランデー』高峰秀子(河出書房新社刊)