第435話 自分を否定して、新しい自分に出会う
-【音楽家のレジェンド篇】ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン-
[2023.12.30]
Podcast
©Lana Rastro/Alamy/amanaimages
年末の風物詩、通称『第九』を作曲した、音楽家のレジェンドがいます。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
交響曲第9番がウィーンで初演されたとき、ベートーヴェンは54歳で、このとき彼の耳は、ほとんど聴こえなかったと言われています。
初演のときに曲が終わっても気づかず、隣の女性が客席を振り向かせたとき、聴衆が立ち上がり、激しく拍手をしている姿を見て、初めてこの曲の成功を確信しました。
第九は、新しい試みに満ちています。
70分にも及ぶ演奏時間の長さは、当時、破格でした。
のちに、CDの最長録音時間がおよそ74分に設定されたのは、この第九を一枚に収めるためだったという説があります。
これまで使われていなかった打楽器、シンバルやトライアングルなどの導入、さらに最も世間を驚かせたのは、第4楽章の合唱です。
4人の独唱と混声合唱団が歌うのは、ドイツの詩人、シラーの『歓喜に寄せて』。
しかし、歌いはじめのフレーズは、ベートーヴェンが自ら作詞したものなのです。
「おお、友よ!この音色ではない!
そうではなくて、我々をもっと心地よい世界に導く、喜びにあふれた音色に、心をゆだねよう!」
そうではない、という否定から入る歌詞。
実は、第4楽章の合唱に入る前にも、ベートーヴェンは、第1楽章から第3楽章までの全ての主題を否定します。
自らが奏でた調べを全否定してからの、歓喜の歌。
最後にして集大成の、ベートーヴェン、交響曲第9番がなぜ全世界のひとに愛され続けるのか。
そこには、これまでの自分を否定し、さらなる高みを目指す戦いの軌跡があったのです。
56歳でこの世を去った音楽界の至宝、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが、初めてシラーの詩『歓喜に寄せて』に出会ったのは、22歳のときだった。
まだ交響曲をひとつも書いていない。
作曲だけではなく、できればピアニストとして大成したいと考えていた。
それまでの人生は、かなり厳しいものだった。
17歳で母が亡くなる。
そのショックで父はアルコール依存症になり、一家を支えるのは、長男であるベートーヴェンの責務。
宮廷楽師としてオルガン奏者を務め、他にも音楽家庭教師でお金を稼いだ。
それでも、家は貧しく、暗いトンネルがいつまで続くかわからなかった。
そんな彼に、一筋の明かりが見えた。
憧れの音楽家、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが、ベートーヴェンの才能を知り、こう言ったのだ。
「キミは、神様からギフトをもらったようだ。ウィーンに来なさい。私が面倒みよう」
苦悩から、ようやく抜け出せそうに思えたときに読んだ、シラーの詩。喜びの歌。
沁みた。
いつか、これを壮大な交響曲にできないかと思う。
しかし、22歳のベートーヴェンには、さらに乗り越えなくてはならない過酷な試練が待ち受けていた。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ハイドンの指導のもと、着実に作曲の力をつけていった。
ピアニストとしても聴衆を沸かせたが、20代半ばから、ある変化に悩むようになる。
耳が、聴こえない。
鍵盤を叩いても、音がやってこない。
理不尽で残酷な仕打ちに、のたうち回る。
「神様は、私にギフトをくださった、それなのに、私から最も大事な耳を奪おうとしている…」
まだ、32歳だった。
彼は、ハイリゲンシュタットという場所に引きこもり、自らの人生に絶望し、弟に遺書を書いた。
「おお!神様。神の摂理よ。どうか、どうかお願いです。
もう一度、喜びを私に見せてください。
私の心から喜びが消えて、どれくらい経ったでしょう。
いつになったら、自然と人間の神聖なる世界において、喜びを見出すことができるのでしょうか。
二度とない?そうですか、二度とないのですね…」
彼の人生から、「喜び」という二文字が消えた。
©Lana Rastro/Alamy/amanaimages
ベートーヴェンを絶望の淵から救ったのは、やはり、音楽だった。
ピアノに耳を押し当て、その振動で音を感じる。
ピアニストになる夢は、諦めた。
耳はどんどん悪くなり、ほとんど聴こえない。
でも、自分にはやるべき使命がある。
そう信じて、作曲を続けた。
シラーの詩のことは、忘れ去っていた。
『歓喜に寄せて』という詩は、彼にはまぶしすぎた。
遺書を書いてから10年後の、1812年。
ベートーヴェンは、交響曲第8番を書き終え、いよいよ第9番にとりかかろうとしていた。
でも、書けない。うまく進まない。
目も悪くなり、胃や腸も悲鳴をあげている。
病は彼を容赦なく蝕んでいった。
そんなとき、うれしい知らせが舞い込む。
ロンドンのフィルハーモニー協会から、作曲の依頼が来た。
全世界に自分の曲を知ってもらうチャンス。
いよいよ、交響曲第9番を書くときがきた。
第4楽章に合唱をつけたいという構想はずっと頭の中にある。
以前の創作ノートに、詩を見つけた。
シラーの『歓喜に寄せて』。
今ならできる。今なら書ける。
遺書をしたためてから、20年の月日が経っていた。
20年の苦しみ、悩み、怒りを、全て否定し、その上に喜びを寄せる。
こうして、彼は、それまでの常識を全て壊す大作を完成させた。
「神がもしも、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、私は運命に立ち向かう」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
©Lana Rastro/Alamy/amanaimages
【ON AIR LIST】
◆交響曲第9番ニ短調 第四楽章より / ベートーヴェン(作曲)
リッツィ大岩千穂(ソプラノ)、坂本朱(メゾ・ソプラノ)、吉田浩之(テノール)、福島明也(バリトン)、新日本フィルハーモニー交響楽団、佐渡裕(指揮)