第391話 驚き、不思議がる心を忘れない
-【島根篇】絵本作家 安野光雅-
[2023.02.25]
Podcast
島根県津和野町出身の、世界的に有名な絵本作家がいます。
安野光雅(あんの・みつまさ)。
42歳のときに、『ふしぎなえ』でデビュー。
この絵本は、不思議な魅力に包まれています。
描かれた階段をあがると上の階へ、またあがると、なぜか元の階に戻ってしまう。
迷路に入っていくと、いつのまにか天地が逆さまになり、蛇口から流れ出した水は、川となってまた水道に循環していきます。
以来、人々を驚かせたり、不思議な気持ちにさせる画風で、絵本の世界に新しい風を起こしました。
ブルックリン美術館賞、ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞、国際アンデルセン賞など、世界的にも高い評価を受け、いまなお、多くの読者に愛されています。
彼が生まれ育ったふるさと、津和野は、山々に囲まれた美しい町です。
そこに、「安野光雅美術館」があります。
漆喰の白壁と赤い石見瓦の、まるで酒蔵のような外観。
ロビーでは、数字の魔法に出会える『魔方陣』というタイルの壁画が出迎えてくれます。
彼の作品の展示だけではなく、昭和初期の学校の教室を再現したコーナーやプラネタリウムなど、懐かしさと温もりを感じられる空間が拡がっています。
来館者ノートは、手書きの文字で埋め尽くされ、中には、親子三代にわたって、彼の絵本に触れた思い出を書きしるす人もいます。
安野は、常々、言っていたそうです。
「小学校時代の勉強が一生を左右する」
幼少期に、何に驚き、何を不思議がるか。
そこに想像力が宿り、そのチカラは大人になってからも、崖っぷちから自分を救ってくれる原動力になると、彼は信じていました。
誰も気づかなかったことを、自分は気づいた。
そんな子どもの頃の体験が、安野の創作の原点だったのです。
淡い色調にこだわり、常に少年の心を失わなかった賢人・安野光雅が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
絵本作家のレジェンド・安野光雅は、1926年3月20日、島根県津和野町に生まれた。
父は、宿屋をやっていた。
江戸時代の旅籠を思わせる、古い木造の家。
父は風呂をわかすため、山に柴刈りに行き、川で魚を釣った。
3月生まれは、4月生まれの子どもと1年ほどの開きがあり、体も小さく、幼い。
運動会ではいつもビリだった。
学校に行くのが嫌だった。
母が饅頭を買ってくれるので、仕方なく通う。
小学2年生のとき、隣の席が、つえ子という名前の女子になった。
つえ子は、父子家庭。
父は鉱山の事故で失明し、琵琶法師になって近隣の家々を祈祷して回っていた。
つえ子は、色が変わるほど洗った服に、おさげ髪の、よく笑う女の子だった。
弁当を持ってこない日は、ひとり校庭にいた。
安野は、彼女に何もしてやれない。
ただ、毎日、おどけて笑わせた。
つえ子が笑うと、うれしかった。
つえ子が父親と杖でつながり、歩くのを見かけた。
何かをしたい、でも、やっぱり何もできなかった。
絵本作家として大成し、ふるさとでテレビ番組の収録があったとき、「会いたい人がいれば探してみます」と言われ、つえ子のことを話す。
60年ぶりの再会。
つえ子は農家に嫁ぎ、4人の息子さんを大学に進学させた。
幸せそうに笑って、彼女は言った。
「いま、心配といえば、畑を荒らすイノシシのことだけです」
安野は、校庭でひとり寂しく時間をつぶしていたつえ子のことを思い出した。
つえ子には、貧しさを越える「誇り」があった。
絵本作家・安野光雅は、幼いころから絵を画くのが好きだったが、父に絵描きになりたいとは言えなかった。
父のすすめる通り、工業高校に入り、福岡の炭鉱に就職した。
最年少の発破係。
いつも危険が隣り合わせだった。
寝泊まりしていた寮には、毎日、召集令状が届く。
どんどん若者が減っていった。
やがて、19歳の時、安野にも「赤紙」が来た。
従わないという選択はない。
山口県の柳井に送られる。
陸軍船舶兵。
ここでも最年少だった。
上官にしごかれる。叩かれる。いじめられる。
食べるものはなく、1日、梅干し1個。
シャベルの泥を泣きながら落としていると、目の前をカエルがぴょんと飛んだ。
「ああ、カエルになりたい」と思う。
思えば、早生まれもいわば学校での最年少だったが、ビリで弱かったがために、たくさんの発見があった。
世界にうまくなじめないので、驚きが多い。
戦地で思い出すのは、うまくいかなくて恥をかいたことや、失敗したこと、弱いものへの共感だった。
戦争が終わったとき、赴任先の村人が言ってくれたひとことが忘れられない。
「もう終わったんだよ、あんたも自分の村に帰っていいんだよ」
安野光雅は、山口県徳山市で、小学校の教員になった。
当時の生徒は、安野の印象をこう語る。
「先生は、弱い生徒をいたわった。
勉強のできない子、運動会でビリになる子、病気の子、遠足に行けない子…。
右手を怪我した子が左手で書いた字を、うまいねえとほめた」
安野の優しい絵のタッチや、あたたかい画風は、弱さから来ているのかもしれない。
弱くて、うまく生きられないから、たくさんの発見がある。
運動会でビリだから、前を走るひとたちの背中が見える。
多くのことに気づくひとの目線は低く、決して上から見下したりはしない。
安野光雅は、弱いひとを声高に励ましたりしない。
驚かせ、不思議がらせて、笑わせる。
隣席のつえ子にそうしたように。
【ON AIR LIST】
MAGIC MOMENTS / Perry Como
YOUR SMILING FACE / James Taylor
無伴奏チェロ組曲第1番ト長調 第1楽章 / J.S.バッハ(作曲)、パブロ・カザルス(チェロ)
魔法のコトバ / スピッツ
★今回の撮影は、「島根県津和野町立 安野光雅美術館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
営業時間など、詳しくは公式HPにてご確認ください。
島根県津和野町立 安野光雅美術館 HP
安野光雅(あんの・みつまさ)。
42歳のときに、『ふしぎなえ』でデビュー。
この絵本は、不思議な魅力に包まれています。
描かれた階段をあがると上の階へ、またあがると、なぜか元の階に戻ってしまう。
迷路に入っていくと、いつのまにか天地が逆さまになり、蛇口から流れ出した水は、川となってまた水道に循環していきます。
以来、人々を驚かせたり、不思議な気持ちにさせる画風で、絵本の世界に新しい風を起こしました。
ブルックリン美術館賞、ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞、国際アンデルセン賞など、世界的にも高い評価を受け、いまなお、多くの読者に愛されています。
彼が生まれ育ったふるさと、津和野は、山々に囲まれた美しい町です。
そこに、「安野光雅美術館」があります。
漆喰の白壁と赤い石見瓦の、まるで酒蔵のような外観。
ロビーでは、数字の魔法に出会える『魔方陣』というタイルの壁画が出迎えてくれます。
彼の作品の展示だけではなく、昭和初期の学校の教室を再現したコーナーやプラネタリウムなど、懐かしさと温もりを感じられる空間が拡がっています。
来館者ノートは、手書きの文字で埋め尽くされ、中には、親子三代にわたって、彼の絵本に触れた思い出を書きしるす人もいます。
安野は、常々、言っていたそうです。
「小学校時代の勉強が一生を左右する」
幼少期に、何に驚き、何を不思議がるか。
そこに想像力が宿り、そのチカラは大人になってからも、崖っぷちから自分を救ってくれる原動力になると、彼は信じていました。
誰も気づかなかったことを、自分は気づいた。
そんな子どもの頃の体験が、安野の創作の原点だったのです。
淡い色調にこだわり、常に少年の心を失わなかった賢人・安野光雅が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
絵本作家のレジェンド・安野光雅は、1926年3月20日、島根県津和野町に生まれた。
父は、宿屋をやっていた。
江戸時代の旅籠を思わせる、古い木造の家。
父は風呂をわかすため、山に柴刈りに行き、川で魚を釣った。
3月生まれは、4月生まれの子どもと1年ほどの開きがあり、体も小さく、幼い。
運動会ではいつもビリだった。
学校に行くのが嫌だった。
母が饅頭を買ってくれるので、仕方なく通う。
小学2年生のとき、隣の席が、つえ子という名前の女子になった。
つえ子は、父子家庭。
父は鉱山の事故で失明し、琵琶法師になって近隣の家々を祈祷して回っていた。
つえ子は、色が変わるほど洗った服に、おさげ髪の、よく笑う女の子だった。
弁当を持ってこない日は、ひとり校庭にいた。
安野は、彼女に何もしてやれない。
ただ、毎日、おどけて笑わせた。
つえ子が笑うと、うれしかった。
つえ子が父親と杖でつながり、歩くのを見かけた。
何かをしたい、でも、やっぱり何もできなかった。
絵本作家として大成し、ふるさとでテレビ番組の収録があったとき、「会いたい人がいれば探してみます」と言われ、つえ子のことを話す。
60年ぶりの再会。
つえ子は農家に嫁ぎ、4人の息子さんを大学に進学させた。
幸せそうに笑って、彼女は言った。
「いま、心配といえば、畑を荒らすイノシシのことだけです」
安野は、校庭でひとり寂しく時間をつぶしていたつえ子のことを思い出した。
つえ子には、貧しさを越える「誇り」があった。
絵本作家・安野光雅は、幼いころから絵を画くのが好きだったが、父に絵描きになりたいとは言えなかった。
父のすすめる通り、工業高校に入り、福岡の炭鉱に就職した。
最年少の発破係。
いつも危険が隣り合わせだった。
寝泊まりしていた寮には、毎日、召集令状が届く。
どんどん若者が減っていった。
やがて、19歳の時、安野にも「赤紙」が来た。
従わないという選択はない。
山口県の柳井に送られる。
陸軍船舶兵。
ここでも最年少だった。
上官にしごかれる。叩かれる。いじめられる。
食べるものはなく、1日、梅干し1個。
シャベルの泥を泣きながら落としていると、目の前をカエルがぴょんと飛んだ。
「ああ、カエルになりたい」と思う。
思えば、早生まれもいわば学校での最年少だったが、ビリで弱かったがために、たくさんの発見があった。
世界にうまくなじめないので、驚きが多い。
戦地で思い出すのは、うまくいかなくて恥をかいたことや、失敗したこと、弱いものへの共感だった。
戦争が終わったとき、赴任先の村人が言ってくれたひとことが忘れられない。
「もう終わったんだよ、あんたも自分の村に帰っていいんだよ」
安野光雅は、山口県徳山市で、小学校の教員になった。
当時の生徒は、安野の印象をこう語る。
「先生は、弱い生徒をいたわった。
勉強のできない子、運動会でビリになる子、病気の子、遠足に行けない子…。
右手を怪我した子が左手で書いた字を、うまいねえとほめた」
安野の優しい絵のタッチや、あたたかい画風は、弱さから来ているのかもしれない。
弱くて、うまく生きられないから、たくさんの発見がある。
運動会でビリだから、前を走るひとたちの背中が見える。
多くのことに気づくひとの目線は低く、決して上から見下したりはしない。
安野光雅は、弱いひとを声高に励ましたりしない。
驚かせ、不思議がらせて、笑わせる。
隣席のつえ子にそうしたように。
【ON AIR LIST】
MAGIC MOMENTS / Perry Como
YOUR SMILING FACE / James Taylor
無伴奏チェロ組曲第1番ト長調 第1楽章 / J.S.バッハ(作曲)、パブロ・カザルス(チェロ)
魔法のコトバ / スピッツ
★今回の撮影は、「島根県津和野町立 安野光雅美術館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
営業時間など、詳しくは公式HPにてご確認ください。
島根県津和野町立 安野光雅美術館 HP