第421話 しっかりした眼差しで自分を見る
-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】アントン・チェーホフ-
[2023.09.23]
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©Alamy/amanaimages
世界的に最も偉大な劇作家のひとりであり、短編小説の名手としても知られる、ロシアの文豪がいます。
アントン・チェーホフ。
『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』など、毎年、必ずどこかで彼の演目が上演され、多くの観客を魅了し続けています。
当時のロシア文壇では長編小説が主流でしたが、チェーホフは、巧妙に計算された短編小説で革命を起こしました。
戯曲にも通底している彼の作品の特徴は、「何かが起こっても、何も起こらない」。
大きな事件や派手なクライマックスはなく、ただ淡々と日常が切り取られ、情けない人やうまく生きることができない人間を過度な感情を削ぎ取り、描いていくのです。
彼の小説は、海外の作家にも大きな影響を与え、日本の小説家もチェーホフの作品に触発されました。
井伏鱒二、志賀直哉、そして太宰治の『斜陽』は、チェーホフの『桜の園』に着想を得たのではないかと言われています。
影響を受けた作家のひとり、井上ひさしは、チェーホフの演劇的な革命として、次の3つを挙げています。
主人公という概念を変えたこと、テーマを排除したこと、物語の構成を変えたこと。
チェーホフは、24歳で感染した結核に苦しみながら、医者として多くの患者を時に無料で診断、治療し、その一方で戯曲や小説を書き続けます。
わずか44年の生涯を、一秒足りとも無駄にしないように、走りぬけました。
『ワーニャ伯父さん』に登場する医者・アーストロフに、こんなセリフがあります。
「朝から晩まで、一日中、立ちっぱなし。
休む暇なんてないよ。
夜は夜で、いつ何時、患者から連絡があるかと、毛布にくるまってビクビクしているんだ。
私はね、この10年、たったの一日だってのんびり過ごした日はないんだ」
チェーホフは、なぜそこまで自分を追い詰め続けたのでしょうか。生涯、自分を冷静に見つめることをやめなかった賢人、アントン・チェーホフが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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アントン・チェーホフは、1860年、ロシア帝国、タガンローグに生まれた。
父方の祖父は、農奴だった。
農奴とは、中世ヨーロッパの封建社会のもと、領主から土地を与えられて従属する農民のこと。
祖父は、桁違いの勤勉家で倹約家。
自ら勉学に励み、お金を貯めた。
その貯金を領主に渡し、家族は晴れて自由の身となった。
祖父は、自身の成功体験を背景に、子どもたちに厳しく言った。
「ちゃんと努力してないやつほど、社会が悪い、親が悪い、先生が悪いと、周りのせいにする。
自分の立っている場所くらい、自分でなんとかしろ!」
厳格な祖父に育てられたチェーホフの父は、輪をかけて子どもにきつくあたった。
チェーホフは、のちに回想している。
「私の祖父は、領主になぐられ、叩かれ、父はその祖父に殴られ、私は父に叩かれた。
私たち子どもは、いったいどんな性癖を受け継ぐというのだろう。私には、子ども時代がなかった」
いつも父に怯える毎日。
父の足音が近づくだけで、涙がこぼれそうになった。
母は助けてくれなかった。
そんな中、どうすれば叩かれないか、どんなふうに対処すれば、怒りを買わずに済むか、考えるようになる。
父に愛情がないわけではない。
ただ、決して高くない身分の自分たちが生きていくことの大変さを、身に沁みて知っていただけだった。
父は小さな食料雑貨店をやっていたが、凍えそうなほど寒い店内が、幼いチェーホフの勉強部屋だった。
ペン先をインク瓶に入れると、コツンと音がする。
インクが凍っていた。
アントン・チェーホフの父に、残念ながら商人の才覚はなかった。
彼が営む食料雑貨店は、赤字続き。
経営は逼迫し、子どもたちの授業料も払えない状態だった。
チェーホフの二人の兄は、厳しすぎる父から逃れるため、モスクワに職を求めて旅立つ。
やがて、店は破産。
当面の借金を肩代わりしてくれた男がいたが、実は狡猾に、家屋いっさいを自分のものにしてしまう。
父はひとり列車に飛び乗り、モスクワに逃げた。
母と幼い妹たちも、すぐに後を追う。
チェーホフだけが、新しい家主のもと、タガンローグに残った。
家主の子どもに勉強を教えることを条件に、中学校に通わせてもらう。
肩身が狭い。
孤独と、居心地の悪さ。
それでも彼は、誰かを恨んだり、我が身を憐れんだりしなかった。
自分さえちゃんとしていれば、いつかきっと挽回のときがやってくる。そう信じて。
16歳のアントン・チェーホフは、自分で生活費を稼ぐしかなかった。
家主の子どもだけでは足りない。
街中の子どもたちの家庭教師を買って出た。
それでも貧しかった。
靴はボロボロになり、学校ではいつも机の下に隠していた。
コートは擦り切れ、冷たい風が容赦なく体を凍らせる。
あるとき、自分よりもっと貧しいクラスメートがいることに気づく。
ユダヤ人のイサーク。
彼も家庭教師をしていたが、食べることもままならない状況だった。
ふらふらのイサークを心配して、遠くの生徒の家には、代わりに自分が行ってあげた。
「チェーホフくん、ありがとう。
でも、どうしてそんなに優しくしてくれるんだい?
ボクなんかのために」
イサークが尋ねると、チェーホフは表情を変えずに言った。
「そんなのは、簡単なことさ。
君よりまだ僕のほうがましだからだ。
それだけだよ」
そしてこう付け加えた。
「ボクなんか、っていう言い方、やめたほうがいい。
自分で自分のことを貶めるなんて、間違ってる。
ただでさえ、みんなよってたかって貶めにかかるんだ。
せめて、自分だけは、自分を守ってあげよう。ね、イサーク」
その後チェーホフは、お金を稼ぐためにユーモア小説を書いて、投稿を繰り返した。
彼は喜劇を書いた。ひとを笑わせる話を書いた。
それが彼の救いでもあった。
やがて市の奨学金を得て、モスクワ大学医学部に入る。
医者になるための勉強をしながら、小説を書き続けた。
書くことで、いつも「自分」を取り戻す。
自分だけは、決して「自分」を見捨てない。
そんな決意が、彼を駆り立てた。
「自らそうであると信じるもの…それが自分自身である」
アントン・チェーホフ
【ON AIR LIST】
Leave A Tender Moment Alone(夜空のモーメント) / Billy Joel
悲しい歌 作品40-2 / チャイコフスキー(作曲)、スヴャトラフ・リヒテル(ピアノ)
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