第420話 NOと言い続ける
-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】大岡昇平-
[2023.09.16]
Podcast
『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』という作品群で、近代日本の戦争文学の在り方を一変させた、レジェンドがいます。
大岡昇平(おおおか・しょうへい)。
特に、1952年に発刊した『野火』は、極限状態での人間のあり方を説いた戦記小説の金字塔として、世界各国で翻訳され、いまなお読み継がれている名作です。
大岡自身、戦地を体験しました。
召集されたのは、35歳という兵士としてはかなりの高齢。
サラリーマン生活を送っていた頃のことでした。
1944年3月、終戦までおよそ1年5か月。
日本は、じりじりと追い詰められ、各地で消耗戦を余儀なくされていました。
7月、大岡はフィリピンに送られ、ミンドロ島のサンホセという場所で暗号の解読係の命を受けました。
しかしその3か月後、大日本帝国海軍連合艦隊は、レイテ沖海戦で撃沈。
ミンドロ島にいる陸軍兵士たちは、支援のないまま、取り残されてしまったのです。
翌1945年、マラリアに犯された大岡は、ひとり密林をさまよいます。
このときの孤独、想像を絶する飢え、恐怖体験が、『野火』に結実したのです。
手りゅう弾を使って自害をはかりますが、失敗。
銃で命を断とうとしますが、これも未遂に終わり、意識を失ったところをアメリカ兵に捕らえられました。
捕虜収容所で、終戦。
捕虜時代の体験をもとに、『俘虜記』を書きました。
なぜ、彼は書いたのでしょうか。
それは、戦地で亡くなっていった戦友への鎮魂、贖罪、そして、言葉で残さないかぎり、人間はまた戦争という同じ過ちを繰り返すのではないかという危機感だったのかもしれません。
彼は、言葉の力を信じていました。
発言することの重要性も、ことあるごとに提示しました。
あるインタビューでは、こんな言葉を残しています。
「NOと言い続けるのが文学者の役割である」
常に忖度を嫌い、己の思いを隠さなかった賢人、大岡昇平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
戦争文学の傑作『野火』の作者、大岡昇平は、1909年3月6日、東京市牛込区に生まれた。
父は和歌山の大地主。
大岡越前の遠縁との説もある。
上京した父は、日本橋で株式仲買店の外交員として働いていた。
大岡が幼い頃から、無数に転居を繰り返す。
父の羽振りがよければ豪遊の渦に巻き込まれ、仕事がうまくいかないときは、沈黙の湖に漂う。
そんな浮き沈みの激しい家庭環境の中、大岡は、本が好きな大人しい少年だった。
『猿飛佐助』や『真田幸村』の講談を速記して文章化した「立川文庫」が大好きで、自分でも創作した。
10歳のとき、従弟の大岡洋吉が言った。
「なあ、昇平くん、君が書いた文章、とっても面白いと僕は思う。
特にこの童謡。いいと思うよ。
どうだろう、ひとつ、投稿してみないか?」
そうして渡された雑誌『赤い鳥』。
「赤リボン」という作品を投稿すると、入選した。
選者の北原白秋は言った。
「これは、実に音楽的で面白い」
作家・大岡昇平は、10歳のときの初入選の喜びが忘れられず、さまざまな雑誌に投稿を繰り返す。
言葉を発することの喜びと、大変さ。
原因不明の熱を出して、入院する。
合格間違いなしと思われていた、府立一中、現在の都立日比谷高校の受験に失敗。周囲を落胆させる。
青山学院中等部に入学。
ここで大岡は、キリスト教に触れ、大きく影響を受けた。
一時は牧師になろうとまで思う。
ドイツ文学やフランス文学の扉を開いたのもこの頃だった。
人生は不思議な「縁」に導かれる。
目指していた道が断たれ、ひどく落ち込んでも、それが本来の道への「いざない」だということがある。
16歳のとき、成城第二中学校に編入。
のちに成城高校に昇格すると聞いてのことだった。
この頃、父はイチバン羽振りがよかった。
仲買人として独立。
現在の渋谷区松濤に一軒家を購入した。
18歳になると、軍事演習が激化。
大岡も実弾射撃を習う。
軍事教練は苦手だったが、参謀本部作成の地図を読み解くのが好きだった。
あれこれ妄想して、敵からの侵入を防ぐ方法を考える。
ただ、それが単なるゲームの延長にしか過ぎなかったことを、のちに思い知ることになる。
21歳のとき、母が亡くなり、株価暴落で父の会社が倒産。
時代と共に、厳しい試練の波が押し寄せてきた。
戦争文学のレジェンド、大岡昇平は、京都帝国大学を卒業して、新聞社に就職するが、3年で退社。
翻訳係として入った会社も、やがて3年で退社。
次の会社は長続きするかと家族が安心したときに、召集令状が来た。
大岡の、ミンドロ島や、レイテ島での過酷な体験は、想像をはるかに超えるものに違いない。
ただ、彼は、冷静に記憶しようと試みた。
あるいは、常に分析的でありたいと、願った。
彼は、幼い頃から、株価に一喜一憂する父を見ていた。
引っ越しを繰り返すたびに、変化する環境に耐えてきた。
冷静に、分析的に。
マラリアと飢えに苦しみながら、朦朧と密林をさまよっていた時、若いアメリカ兵に遭遇した。
向こうもひとり。
相手は気づいていない。
自然と体が動き、銃の安全装置をはずす。
でも、撃たなかった。
なぜ、あのとき、撃たなかったか。
自制できたのは、己の36年の歴史のおかげだと、彼は結論づけた。
戦争から帰り、彼は猛然と筆をとった。
書いて、書いて、書きまくる。
そして、相手が誰であろうと、自分が違うと思ったら、真正面からNOと言った。
NOを言えない先に、戦争があることを知っていたから。
NOを言えないまま、死んでいった仲間がいたから。
「戦争というものはいつでも、なかなかきそうな気はしないんですよね。
人間は心情的には常に平和的なんだから。
しかし国家は心情で動いているのではない。
戦争が起きた時にはもう間に合わないわけだ。
権力はいつも忍び足でやってくるのです」
大岡昇平
【ON AIR LIST】
Relay~杜の詩 / サザンオールスターズ
トロイメライ / シューマン(作曲)、鈴木大介(ギター)
WAR & PEACE / 坂本龍一
明日なき世界 / RCサクセション
大岡昇平(おおおか・しょうへい)。
特に、1952年に発刊した『野火』は、極限状態での人間のあり方を説いた戦記小説の金字塔として、世界各国で翻訳され、いまなお読み継がれている名作です。
大岡自身、戦地を体験しました。
召集されたのは、35歳という兵士としてはかなりの高齢。
サラリーマン生活を送っていた頃のことでした。
1944年3月、終戦までおよそ1年5か月。
日本は、じりじりと追い詰められ、各地で消耗戦を余儀なくされていました。
7月、大岡はフィリピンに送られ、ミンドロ島のサンホセという場所で暗号の解読係の命を受けました。
しかしその3か月後、大日本帝国海軍連合艦隊は、レイテ沖海戦で撃沈。
ミンドロ島にいる陸軍兵士たちは、支援のないまま、取り残されてしまったのです。
翌1945年、マラリアに犯された大岡は、ひとり密林をさまよいます。
このときの孤独、想像を絶する飢え、恐怖体験が、『野火』に結実したのです。
手りゅう弾を使って自害をはかりますが、失敗。
銃で命を断とうとしますが、これも未遂に終わり、意識を失ったところをアメリカ兵に捕らえられました。
捕虜収容所で、終戦。
捕虜時代の体験をもとに、『俘虜記』を書きました。
なぜ、彼は書いたのでしょうか。
それは、戦地で亡くなっていった戦友への鎮魂、贖罪、そして、言葉で残さないかぎり、人間はまた戦争という同じ過ちを繰り返すのではないかという危機感だったのかもしれません。
彼は、言葉の力を信じていました。
発言することの重要性も、ことあるごとに提示しました。
あるインタビューでは、こんな言葉を残しています。
「NOと言い続けるのが文学者の役割である」
常に忖度を嫌い、己の思いを隠さなかった賢人、大岡昇平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
戦争文学の傑作『野火』の作者、大岡昇平は、1909年3月6日、東京市牛込区に生まれた。
父は和歌山の大地主。
大岡越前の遠縁との説もある。
上京した父は、日本橋で株式仲買店の外交員として働いていた。
大岡が幼い頃から、無数に転居を繰り返す。
父の羽振りがよければ豪遊の渦に巻き込まれ、仕事がうまくいかないときは、沈黙の湖に漂う。
そんな浮き沈みの激しい家庭環境の中、大岡は、本が好きな大人しい少年だった。
『猿飛佐助』や『真田幸村』の講談を速記して文章化した「立川文庫」が大好きで、自分でも創作した。
10歳のとき、従弟の大岡洋吉が言った。
「なあ、昇平くん、君が書いた文章、とっても面白いと僕は思う。
特にこの童謡。いいと思うよ。
どうだろう、ひとつ、投稿してみないか?」
そうして渡された雑誌『赤い鳥』。
「赤リボン」という作品を投稿すると、入選した。
選者の北原白秋は言った。
「これは、実に音楽的で面白い」
作家・大岡昇平は、10歳のときの初入選の喜びが忘れられず、さまざまな雑誌に投稿を繰り返す。
言葉を発することの喜びと、大変さ。
原因不明の熱を出して、入院する。
合格間違いなしと思われていた、府立一中、現在の都立日比谷高校の受験に失敗。周囲を落胆させる。
青山学院中等部に入学。
ここで大岡は、キリスト教に触れ、大きく影響を受けた。
一時は牧師になろうとまで思う。
ドイツ文学やフランス文学の扉を開いたのもこの頃だった。
人生は不思議な「縁」に導かれる。
目指していた道が断たれ、ひどく落ち込んでも、それが本来の道への「いざない」だということがある。
16歳のとき、成城第二中学校に編入。
のちに成城高校に昇格すると聞いてのことだった。
この頃、父はイチバン羽振りがよかった。
仲買人として独立。
現在の渋谷区松濤に一軒家を購入した。
18歳になると、軍事演習が激化。
大岡も実弾射撃を習う。
軍事教練は苦手だったが、参謀本部作成の地図を読み解くのが好きだった。
あれこれ妄想して、敵からの侵入を防ぐ方法を考える。
ただ、それが単なるゲームの延長にしか過ぎなかったことを、のちに思い知ることになる。
21歳のとき、母が亡くなり、株価暴落で父の会社が倒産。
時代と共に、厳しい試練の波が押し寄せてきた。
戦争文学のレジェンド、大岡昇平は、京都帝国大学を卒業して、新聞社に就職するが、3年で退社。
翻訳係として入った会社も、やがて3年で退社。
次の会社は長続きするかと家族が安心したときに、召集令状が来た。
大岡の、ミンドロ島や、レイテ島での過酷な体験は、想像をはるかに超えるものに違いない。
ただ、彼は、冷静に記憶しようと試みた。
あるいは、常に分析的でありたいと、願った。
彼は、幼い頃から、株価に一喜一憂する父を見ていた。
引っ越しを繰り返すたびに、変化する環境に耐えてきた。
冷静に、分析的に。
マラリアと飢えに苦しみながら、朦朧と密林をさまよっていた時、若いアメリカ兵に遭遇した。
向こうもひとり。
相手は気づいていない。
自然と体が動き、銃の安全装置をはずす。
でも、撃たなかった。
なぜ、あのとき、撃たなかったか。
自制できたのは、己の36年の歴史のおかげだと、彼は結論づけた。
戦争から帰り、彼は猛然と筆をとった。
書いて、書いて、書きまくる。
そして、相手が誰であろうと、自分が違うと思ったら、真正面からNOと言った。
NOを言えない先に、戦争があることを知っていたから。
NOを言えないまま、死んでいった仲間がいたから。
「戦争というものはいつでも、なかなかきそうな気はしないんですよね。
人間は心情的には常に平和的なんだから。
しかし国家は心情で動いているのではない。
戦争が起きた時にはもう間に合わないわけだ。
権力はいつも忍び足でやってくるのです」
大岡昇平
【ON AIR LIST】
Relay~杜の詩 / サザンオールスターズ
トロイメライ / シューマン(作曲)、鈴木大介(ギター)
WAR & PEACE / 坂本龍一
明日なき世界 / RCサクセション