第392話 弱くて、いい
-【福島篇】イラストレーター 長沢節-
[2023.03.04]
Podcast
福島県会津若松市出身の、日本のファッション・イラストレーターのレジェンドがいます。
長沢節(ながさわ・せつ)。
彼は、戦後の日本ファッション界に、突然現れた風雲児。
繊細でナイーブなファッションイラストは先鋭的で、画家で編集者の中原淳一(なかはら・じゅんいち)の目にとまり、これまでなかった、ファッション・イラストレーターというジャンルを確立します。
1967年には、男性もスカートを!と提案した「モノ・セックス・モード・ショウ」というイベントを企画。
男女が性差なく、同じスカートで観衆の前に立ちました。
このショーは、マスコミにも大きく取り上げられ、賛辞がおくられた一方、多くの誹謗中傷も巻き起こり、長沢は渦中の人になりました。
「観客は初めのうちだけ、果たしてどっちが美しいか?見比べて見ていますが、やがて男女の違いを全く意識しなくなってしまうだろうという私の計算だったのです。
1人1人のパーソナリティこそが何よりも優先して尊重されなければならないのだと私は絶叫したのでした」
2017年4月、東京都文京区の弥生美術館で、「生誕100年 長沢 節 展 ~デッサンの名手、セツ・モードセミナーのカリスマ校長~」が開催されました。
全国から訪れる、多くのファン、そして教え子たち。
彼の学校は、惜しまれながら閉校しましたが、彼の功績は次世代に確実に引き継がれています。
長沢が、大切にしたもののひとつに「弱さ」があります。
戦中、戦後、まだ男性に強さや頼もしさを求めていた時代にあって、彼は、弱さこそ優しさであり、弱さこそ愛おしさの原点であると主張したのです。
「あのひとは、弱いから素敵」
「あのひとは、弱いからキレイ」
「あのひとは、弱いからセクシー」
そこにファッションの真髄があると言い続けました。
学校では、デッサンを重視。
何枚も何枚も画くことを生徒に伝えました。
「まぐれは、必然。
ただ、その確率をあげなくてはいけない。
そのためには、まず、ひたすら画くこと。近道はない」
82歳で、不慮の事故で亡くなる寸前まで、生徒たちに交じって1日6時間絵を画き続けたレジェンド・長沢節が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
ファッション・イラストレーターの創始者・長沢節は、1917年5月12日、福島県会津若松市に生まれた。
比較的裕福な農家のひとりっ子。大切に育てられる。
冬の寒い夜。
母が顔やひび割れた手に塗ってくれるクリームの匂いが好きだった。
クリームが入った白い小さな瓶が、まるで魔法の壺に見えたと、エッセイ集『弱いから、好き。』に書いている。
幼い頃から、ひとに喜んでもらうのが好きだった。
小学校で、同級生にモノをあげると喜んでもらえることを知り、家にあるものを持ち出した。
みんな、うれしそうに笑顔になる。うれしかった。
親に叱られても、モノをあげ続ける。
でも、ひとりだけ、喜ばない生徒がいた。
造り酒屋の大金持ちの息子。
彼は、色白でひ弱な感じ。クールに見えた。
やがて、長沢は、彼に憧れるようになる。
モノに頼らない、しばられない品格。
2人は、友だちになった。
しかし、中学に入って間もなく、友人は、肺結核でこの世を去った。
1か月、泣き暮れる。
この世を冷静に見据える彼の弱さが、心に刻まれた。
セツ・モードセミナーの校長だった長沢節は、幼い頃から絵を画くのが好きだった。
チラシの裏、あまった紙、何にでも画いた。
小学校で運命的な出会いがある。
画家の渡部菊二(わたなべ・きくじ)が、絵画制作のかたわら、生徒に絵を教えていた。
渡部は、日本の水彩画の発展に貢献した、会津若松が誇る芸術家。
わずか40年の生涯で、水彩画特有の名作を数多く画いた。
彼は、長沢少年の画く絵に注目する。
驚いたのは、デッサン力。
風景を見つめ、それを画用紙に定着させるテクニックに非凡なものを見た。
長沢は、渡部が画く絵はもちろん、そのスタイリッシュなたたずまいに憧れる。
やはり、渡部の中に「弱さ」を見ていた。
彼が画く絵は、見るひとをねじ伏せるような迫力はない。
ただ、繊細で、優しく、見るひとを包み込むあたたかさがあった。
長沢は、言った。
「ボク、渡部先生のような画家になりたいです」
渡部は、静かに笑みを浮かべ、こう返した。
「たくさん画きなさい。ひとの何倍も何十倍も画きなさい。
うまいやつなんて、どこにでもいる。
でもね、うまくても努力するひとは、なかなかいないんだ」
長沢節は、優秀な成績で地元の進学校、会津中学に入学。
学校の校風は、バンカラ。
質実剛健をモットーとし、男は、強くたくましくなければならないという空気にあふれていた。
苦手だった。
強いことが、そんなにいいことだと思えない。
戦争の影が色濃くなってくると、より強さは強調された。
軍事教練の時間が苦痛で仕方ない。
真面目にできない。
やりたくない。
そんな態度を教師にとがめられ、追求された。
そのせいで、官立校、東京美術学校への受験資格を失う。
落胆したが、やりたくもない軍事教練をやるより、ましだと思う。
東京に上京。
お茶の水にある、文化学院に入った。
自由な校風がうれしい。
のびのびと絵を画き、そこで、ファッションという世界を知った。
弱くて細い体でも、とがめられない。
戦争が終わりかけていた頃、仲間を募り、池袋で共同生活。
「池袋モンパルナス」と命名し、ジャズやハワイアンを流して絵を画いた。
彼が画く水彩画にいち早く注目したのが、画家であり、女性を応援する雑誌の編集者だった、中原淳一だった。
中原は、長沢のイラストに感動し、女性誌『新女苑』に推薦。
イラストやエッセイを掲載できるようになった。
長沢が書いた小説は、三島由紀夫の目にもとまる。
戦時中は、やせこけた絵に、軍部から禁止命令が出たが、画き続けた。
「弱いことがいけないことだなんて、そんな世の中はおかしい。
弱いから、優しい。
強いなんてことは、何の自慢にもならない」
長沢節は、自らの身をもって「弱さ」を守り続けた。
【ON AIR LIST】
チェンジズ / デヴィッド・ボウイ
ピアノ組曲『草かげの小径にて』より 飛んでいった木の葉 / ヤナーチェク(作曲)、イヴァン・モラベック(ピアノ)
セント・ルイス・ブルース / シッピー・ウォレス・ウィズ・アルバート・アモンズ・アンド・ヒズ・リズム・キングス
弱い僕だから / 忌野清志郎
長沢節(ながさわ・せつ)。
彼は、戦後の日本ファッション界に、突然現れた風雲児。
繊細でナイーブなファッションイラストは先鋭的で、画家で編集者の中原淳一(なかはら・じゅんいち)の目にとまり、これまでなかった、ファッション・イラストレーターというジャンルを確立します。
1967年には、男性もスカートを!と提案した「モノ・セックス・モード・ショウ」というイベントを企画。
男女が性差なく、同じスカートで観衆の前に立ちました。
このショーは、マスコミにも大きく取り上げられ、賛辞がおくられた一方、多くの誹謗中傷も巻き起こり、長沢は渦中の人になりました。
「観客は初めのうちだけ、果たしてどっちが美しいか?見比べて見ていますが、やがて男女の違いを全く意識しなくなってしまうだろうという私の計算だったのです。
1人1人のパーソナリティこそが何よりも優先して尊重されなければならないのだと私は絶叫したのでした」
2017年4月、東京都文京区の弥生美術館で、「生誕100年 長沢 節 展 ~デッサンの名手、セツ・モードセミナーのカリスマ校長~」が開催されました。
全国から訪れる、多くのファン、そして教え子たち。
彼の学校は、惜しまれながら閉校しましたが、彼の功績は次世代に確実に引き継がれています。
長沢が、大切にしたもののひとつに「弱さ」があります。
戦中、戦後、まだ男性に強さや頼もしさを求めていた時代にあって、彼は、弱さこそ優しさであり、弱さこそ愛おしさの原点であると主張したのです。
「あのひとは、弱いから素敵」
「あのひとは、弱いからキレイ」
「あのひとは、弱いからセクシー」
そこにファッションの真髄があると言い続けました。
学校では、デッサンを重視。
何枚も何枚も画くことを生徒に伝えました。
「まぐれは、必然。
ただ、その確率をあげなくてはいけない。
そのためには、まず、ひたすら画くこと。近道はない」
82歳で、不慮の事故で亡くなる寸前まで、生徒たちに交じって1日6時間絵を画き続けたレジェンド・長沢節が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
ファッション・イラストレーターの創始者・長沢節は、1917年5月12日、福島県会津若松市に生まれた。
比較的裕福な農家のひとりっ子。大切に育てられる。
冬の寒い夜。
母が顔やひび割れた手に塗ってくれるクリームの匂いが好きだった。
クリームが入った白い小さな瓶が、まるで魔法の壺に見えたと、エッセイ集『弱いから、好き。』に書いている。
幼い頃から、ひとに喜んでもらうのが好きだった。
小学校で、同級生にモノをあげると喜んでもらえることを知り、家にあるものを持ち出した。
みんな、うれしそうに笑顔になる。うれしかった。
親に叱られても、モノをあげ続ける。
でも、ひとりだけ、喜ばない生徒がいた。
造り酒屋の大金持ちの息子。
彼は、色白でひ弱な感じ。クールに見えた。
やがて、長沢は、彼に憧れるようになる。
モノに頼らない、しばられない品格。
2人は、友だちになった。
しかし、中学に入って間もなく、友人は、肺結核でこの世を去った。
1か月、泣き暮れる。
この世を冷静に見据える彼の弱さが、心に刻まれた。
セツ・モードセミナーの校長だった長沢節は、幼い頃から絵を画くのが好きだった。
チラシの裏、あまった紙、何にでも画いた。
小学校で運命的な出会いがある。
画家の渡部菊二(わたなべ・きくじ)が、絵画制作のかたわら、生徒に絵を教えていた。
渡部は、日本の水彩画の発展に貢献した、会津若松が誇る芸術家。
わずか40年の生涯で、水彩画特有の名作を数多く画いた。
彼は、長沢少年の画く絵に注目する。
驚いたのは、デッサン力。
風景を見つめ、それを画用紙に定着させるテクニックに非凡なものを見た。
長沢は、渡部が画く絵はもちろん、そのスタイリッシュなたたずまいに憧れる。
やはり、渡部の中に「弱さ」を見ていた。
彼が画く絵は、見るひとをねじ伏せるような迫力はない。
ただ、繊細で、優しく、見るひとを包み込むあたたかさがあった。
長沢は、言った。
「ボク、渡部先生のような画家になりたいです」
渡部は、静かに笑みを浮かべ、こう返した。
「たくさん画きなさい。ひとの何倍も何十倍も画きなさい。
うまいやつなんて、どこにでもいる。
でもね、うまくても努力するひとは、なかなかいないんだ」
長沢節は、優秀な成績で地元の進学校、会津中学に入学。
学校の校風は、バンカラ。
質実剛健をモットーとし、男は、強くたくましくなければならないという空気にあふれていた。
苦手だった。
強いことが、そんなにいいことだと思えない。
戦争の影が色濃くなってくると、より強さは強調された。
軍事教練の時間が苦痛で仕方ない。
真面目にできない。
やりたくない。
そんな態度を教師にとがめられ、追求された。
そのせいで、官立校、東京美術学校への受験資格を失う。
落胆したが、やりたくもない軍事教練をやるより、ましだと思う。
東京に上京。
お茶の水にある、文化学院に入った。
自由な校風がうれしい。
のびのびと絵を画き、そこで、ファッションという世界を知った。
弱くて細い体でも、とがめられない。
戦争が終わりかけていた頃、仲間を募り、池袋で共同生活。
「池袋モンパルナス」と命名し、ジャズやハワイアンを流して絵を画いた。
彼が画く水彩画にいち早く注目したのが、画家であり、女性を応援する雑誌の編集者だった、中原淳一だった。
中原は、長沢のイラストに感動し、女性誌『新女苑』に推薦。
イラストやエッセイを掲載できるようになった。
長沢が書いた小説は、三島由紀夫の目にもとまる。
戦時中は、やせこけた絵に、軍部から禁止命令が出たが、画き続けた。
「弱いことがいけないことだなんて、そんな世の中はおかしい。
弱いから、優しい。
強いなんてことは、何の自慢にもならない」
長沢節は、自らの身をもって「弱さ」を守り続けた。
【ON AIR LIST】
チェンジズ / デヴィッド・ボウイ
ピアノ組曲『草かげの小径にて』より 飛んでいった木の葉 / ヤナーチェク(作曲)、イヴァン・モラベック(ピアノ)
セント・ルイス・ブルース / シッピー・ウォレス・ウィズ・アルバート・アモンズ・アンド・ヒズ・リズム・キングス
弱い僕だから / 忌野清志郎