第418話 今を切に生きる
-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】瀬戸内寂聴-
[2023.09.02]
Podcast
波乱の人生の果て、51歳で出家。
常に「愛すること」の大切さを説いた規格外の作家がいます。
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)。
2021年11月9日、99歳で亡くなった寂聴の作品は、今もなお読み継がれ、彼女のストレートに響く言葉は、多くのひとを救っています。
今年6月、幻冬舎から出版された一冊の本が、話題になっているのをご存知でしょうか。
延江浩(のぶえ・ひろし)著・『J』。
85歳の作家で尼僧の「J」と、37歳のビジネスマンとの恋愛を描いた衝撃作です。
「J」のモデルが瀬戸内寂聴であることは、明白。
フィクションの体をとっていますが、まるでそこに寂聴がいるかのように息遣いまでも再現された小説は、延江浩の端正な筆致と膨大な取材量に裏打ちされて、私たちの心に、これまで味わったことのない感動を与えます。
この小説は、人間の業を肯定し、愛に生きた「J」を描くと共に、作家・瀬戸内寂聴の人生をリアルな湿度と痛切で辿っているのです。
寂聴は、大正11年生まれ。
大学在学中に結婚。娘を出産しますが、夫の教え子と恋に落ち、夫と幼い娘を捨て、家を出ます。
その後、小説家としてデビュー。
41歳のとき、自身の体験をもとに女性の愛と性を描いた『夏の終り』で、女流文学賞を受賞して、作家としての地位を不動のものにします。
ベストセラー作家として、これからというとき、彼女は突然、出家を発表。
しかし、その後も旺盛な創作欲は変わらず、生涯で書いた作品は400点を超えます。
寂聴を表するとき、多くのひとが口にするのは、笑顔です。
仏教の言葉「和顔施(わがんせ)」を、そのまま具現化したような笑い顔。
相手に笑顔を施すことがひとつの徳になる。
笑えば自分も元気になる。
ただ、その笑顔の下に、どれほどの苦しみや後悔が隠されていたか、うかがい知ることはできません。
ただ、彼女は晩年、言い続けました。
「人生の意味とは、愛すること。そして愛するとは、ゆるすこと」
己の欲や業に真っすぐ向き合ったレジェンド、瀬戸内寂聴が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
瀬戸内寂聴は、1922年5月15日、徳島市に生まれた。
父は、仏壇店を営んでいた。
幼い頃は、病弱で、本を読むのが好きだった。
小学校の同級生、チーちゃんと仲良くなる。
チーちゃんのお母さんは、芸者十人衆のひとり。美人だった。
当時、徳島市の繁華街には花街があり、200人ほどの芸者がいた。
チーちゃんのお母さんの部屋は二階にあり、二人でよく忍び込んだ。
自分の家にはない、蠱惑的な雰囲気。
鏡台の引き出しにあった「あぶな絵」を、頭をつき合わせて見た。
背徳的で淫靡な匂い。ドキドキした。
小学2年生の夏、寂聴は、お琴の稽古先で「あぶな絵」と同じものを目の当たりにしてしまう。
庭にある離れ。
そこに大人の男女がいた。
幼くして花街の空気を嗅いだこと、そして、この離れでの体験は、後の作家人生に大きな影響を与えたのかもしれない。
5歳上の姉は、文学少女で、いくつもの雑誌や単行本を買った。
それを寂聴も片っ端から読んでいく。
小学3年生のときには、両親がとっている雑誌も読破していた。
菊池寛や久米正雄の小説にも触れる。
「接吻」「抱擁」などという活字に、何かを感じていた。
家の真向かいには薬局があり、その主から外国の本も借りた。
外国の本の装丁は美しかった。
表紙はなめし皮か、ビロードの赤や緑。
指で触れると不思議な戦慄が走る。
本を抱えて外に出ると、圧倒的な夕陽が町を包んでいた。
露地も空も、胸をしめつけられるほど、真っ赤だった。
瀬戸内寂聴は、夫の赴任先、中国で終戦を迎えた。
夫と1歳の娘を抱え、日本に引き揚げる。
徳島は一面、焼け野原だった。
懐かしい露地も学校も、跡形もなく消えていた。
最愛の母が、防空壕で亡くなったことを知らされる。
空襲を受け、防空壕から逃げ出さず、あえて壕の中で焼け死んだ、母。
ショックだった。
それを知らなかったことを悔いる。
夢枕でもいいから、母に来てほしかった。
母は、明治フェミニズムの洗礼を受けていて、ことあるごとに寂聴や姉に言った。
「女でも勉強しなければ…
男だけが勉強する時代は、ふるいんだよ。
女も男に負けない人間なんだよ。
これからは、しっかり勉強しなければ!」
寂聴は、作家活動の合間をぬって、戦争反対を唱え続けた。
彼女は車いすで集会に出かけ、涙ながらに訴える。
「戦争に、いい戦争なんて、絶対ありません!!」
そして、寂聴は女性を書いた。
女流作家の先駆け、田村俊子(たむら・としこ)、婦人解放運動家、伊藤野枝(いとう・のえ)、女性ジャーナリストの先駆者、管野須賀子(かんの・すがこ)。
戦争反対と、女性の躍進。
その二つを人生の命題にした寂聴の心の奥底には、大好きだった、母がいる。
瀬戸内寂聴は、若い人とも積極的に講話の時間を持った。
彼女は言う。
「人生は、一回きり。とにかく、やりたいことをやってください。
情熱がたくさんあるうちに、好きだと思うことを全部やってください。
ひとは、必ず死にます。それだけは、平等。
短くてもいい、濃い人生をおくってください」
過去をくよくよしない。未来にもくよくよしない。
今を切に生きること。
それが、濃い人生をおくる秘訣だと、彼女は言いたかったのかもしれない。
そして、今を切に生きるために必要なのは、愛すること。
愛されるより、愛すること。
「生きるということは、死ぬ日まで自分の可能性をあきらめず、与えられた才能や日々の仕事に努力しつづけることです」
瀬戸内寂聴
【ON AIR LIST】
SMILE / Tony Bennett
晩夏 (ひとりの季節) / 荒井由実
いのちの記憶 / 二階堂和美
【参考文献】
『J』延江浩(幻冬舎)
『老いも病も受け入れよう』瀬戸内寂聴(新潮社)
『日本の美徳』瀬戸内寂聴・ドナルド・キーン(中公新書ラクレ)
『その日まで』瀬戸内寂聴(講談社)
『わが性と生』瀬戸内寂聴・瀬戸内晴美(新潮社)
常に「愛すること」の大切さを説いた規格外の作家がいます。
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)。
2021年11月9日、99歳で亡くなった寂聴の作品は、今もなお読み継がれ、彼女のストレートに響く言葉は、多くのひとを救っています。
今年6月、幻冬舎から出版された一冊の本が、話題になっているのをご存知でしょうか。
延江浩(のぶえ・ひろし)著・『J』。
85歳の作家で尼僧の「J」と、37歳のビジネスマンとの恋愛を描いた衝撃作です。
「J」のモデルが瀬戸内寂聴であることは、明白。
フィクションの体をとっていますが、まるでそこに寂聴がいるかのように息遣いまでも再現された小説は、延江浩の端正な筆致と膨大な取材量に裏打ちされて、私たちの心に、これまで味わったことのない感動を与えます。
この小説は、人間の業を肯定し、愛に生きた「J」を描くと共に、作家・瀬戸内寂聴の人生をリアルな湿度と痛切で辿っているのです。
寂聴は、大正11年生まれ。
大学在学中に結婚。娘を出産しますが、夫の教え子と恋に落ち、夫と幼い娘を捨て、家を出ます。
その後、小説家としてデビュー。
41歳のとき、自身の体験をもとに女性の愛と性を描いた『夏の終り』で、女流文学賞を受賞して、作家としての地位を不動のものにします。
ベストセラー作家として、これからというとき、彼女は突然、出家を発表。
しかし、その後も旺盛な創作欲は変わらず、生涯で書いた作品は400点を超えます。
寂聴を表するとき、多くのひとが口にするのは、笑顔です。
仏教の言葉「和顔施(わがんせ)」を、そのまま具現化したような笑い顔。
相手に笑顔を施すことがひとつの徳になる。
笑えば自分も元気になる。
ただ、その笑顔の下に、どれほどの苦しみや後悔が隠されていたか、うかがい知ることはできません。
ただ、彼女は晩年、言い続けました。
「人生の意味とは、愛すること。そして愛するとは、ゆるすこと」
己の欲や業に真っすぐ向き合ったレジェンド、瀬戸内寂聴が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
瀬戸内寂聴は、1922年5月15日、徳島市に生まれた。
父は、仏壇店を営んでいた。
幼い頃は、病弱で、本を読むのが好きだった。
小学校の同級生、チーちゃんと仲良くなる。
チーちゃんのお母さんは、芸者十人衆のひとり。美人だった。
当時、徳島市の繁華街には花街があり、200人ほどの芸者がいた。
チーちゃんのお母さんの部屋は二階にあり、二人でよく忍び込んだ。
自分の家にはない、蠱惑的な雰囲気。
鏡台の引き出しにあった「あぶな絵」を、頭をつき合わせて見た。
背徳的で淫靡な匂い。ドキドキした。
小学2年生の夏、寂聴は、お琴の稽古先で「あぶな絵」と同じものを目の当たりにしてしまう。
庭にある離れ。
そこに大人の男女がいた。
幼くして花街の空気を嗅いだこと、そして、この離れでの体験は、後の作家人生に大きな影響を与えたのかもしれない。
5歳上の姉は、文学少女で、いくつもの雑誌や単行本を買った。
それを寂聴も片っ端から読んでいく。
小学3年生のときには、両親がとっている雑誌も読破していた。
菊池寛や久米正雄の小説にも触れる。
「接吻」「抱擁」などという活字に、何かを感じていた。
家の真向かいには薬局があり、その主から外国の本も借りた。
外国の本の装丁は美しかった。
表紙はなめし皮か、ビロードの赤や緑。
指で触れると不思議な戦慄が走る。
本を抱えて外に出ると、圧倒的な夕陽が町を包んでいた。
露地も空も、胸をしめつけられるほど、真っ赤だった。
瀬戸内寂聴は、夫の赴任先、中国で終戦を迎えた。
夫と1歳の娘を抱え、日本に引き揚げる。
徳島は一面、焼け野原だった。
懐かしい露地も学校も、跡形もなく消えていた。
最愛の母が、防空壕で亡くなったことを知らされる。
空襲を受け、防空壕から逃げ出さず、あえて壕の中で焼け死んだ、母。
ショックだった。
それを知らなかったことを悔いる。
夢枕でもいいから、母に来てほしかった。
母は、明治フェミニズムの洗礼を受けていて、ことあるごとに寂聴や姉に言った。
「女でも勉強しなければ…
男だけが勉強する時代は、ふるいんだよ。
女も男に負けない人間なんだよ。
これからは、しっかり勉強しなければ!」
寂聴は、作家活動の合間をぬって、戦争反対を唱え続けた。
彼女は車いすで集会に出かけ、涙ながらに訴える。
「戦争に、いい戦争なんて、絶対ありません!!」
そして、寂聴は女性を書いた。
女流作家の先駆け、田村俊子(たむら・としこ)、婦人解放運動家、伊藤野枝(いとう・のえ)、女性ジャーナリストの先駆者、管野須賀子(かんの・すがこ)。
戦争反対と、女性の躍進。
その二つを人生の命題にした寂聴の心の奥底には、大好きだった、母がいる。
瀬戸内寂聴は、若い人とも積極的に講話の時間を持った。
彼女は言う。
「人生は、一回きり。とにかく、やりたいことをやってください。
情熱がたくさんあるうちに、好きだと思うことを全部やってください。
ひとは、必ず死にます。それだけは、平等。
短くてもいい、濃い人生をおくってください」
過去をくよくよしない。未来にもくよくよしない。
今を切に生きること。
それが、濃い人生をおくる秘訣だと、彼女は言いたかったのかもしれない。
そして、今を切に生きるために必要なのは、愛すること。
愛されるより、愛すること。
「生きるということは、死ぬ日まで自分の可能性をあきらめず、与えられた才能や日々の仕事に努力しつづけることです」
瀬戸内寂聴
【ON AIR LIST】
SMILE / Tony Bennett
晩夏 (ひとりの季節) / 荒井由実
いのちの記憶 / 二階堂和美
【参考文献】
『J』延江浩(幻冬舎)
『老いも病も受け入れよう』瀬戸内寂聴(新潮社)
『日本の美徳』瀬戸内寂聴・ドナルド・キーン(中公新書ラクレ)
『その日まで』瀬戸内寂聴(講談社)
『わが性と生』瀬戸内寂聴・瀬戸内晴美(新潮社)