第417話 自分と未来は変えられる
-【医学の発展に貢献したレジェンド篇】野口英世-
[2023.08.26]
Podcast
ノーベル賞に3度、候補として名を挙げられたレジェンドがいます。
千円札の肖像でおなじみの、野口英世(のぐち・ひでよ)。
1歳のときに、囲炉裏に落ちて左手を大やけど。
そのハンデキャップと家の貧しさを跳ね除け、ロックフェラー医学研究所で細菌学の進歩に貢献した賢人は、親孝行の代表として、たびたび教科書でまつりあげられていますが、実際、どんなひとだったのでしょうか。
彼の功績は、主に、梅毒菌の培養に成功したこと、さらに、アフリカで猛威をふるっていた黄熱病の病原体を特定したことが挙げられます。
そのどれもが気の遠くなるような地道な研究の成果でしたが、細菌とウイルスの違いがあやふやだったこと、のちの実験で彼の実証が覆ったことなどから、ノーベル賞を逃したと言われています。
また、野口自身、決して品行方正な人物ではなかったようです。
お金があればあるだけ、お酒に使ってしまう。
ひとの同情や情けにすがり、借金三昧。
留学の機会を得て、支度金をもらったにもかかわらず、送別会を自ら開き、そこで大盤振る舞い。
支度金全てを使い果たしてしまうのです。
さらに異常なまでの負けず嫌い。
野口と将棋をさせば、彼が勝つまで帰してもらえなかったと言われています。
本名は英世ではなかったのですが、自分と近い名前の主人公が出てくる小説を知り、その主人公の末路が不幸なことを気にやんで、名前を変えてしまったのです。
繊細で、臆病。
そんな人間味あふれる野口ですが、研究に関してだけは、心血を注ぎました。
ナポレオンが3時間しか寝ないというのなら、自分も3時間睡眠で頑張ろうと決意。
寝食はほとんど、研究室だったと言います。
なぜ彼は、そこまで頑張ることができたのでしょうか?
研究中に自ら黄熱病を発症。
51歳の若さでこの世を去った偉人・野口英世が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
野口英世は、1876年11月9日、現在の福島県猪苗代町で生まれた。
猪苗代町には「野口英世記念館」があり、生家をはじめ、野口博士の遺品や、足跡を知ることができる資料が数多く展示されている。
1歳で左手に大やけどを負った野口は、母から言われた。
「そんな手では、農作業はできねえ。
だから、おめえさんは、学業を頑張らねばなんねえ。
母さんは、なんとか、おめえさんを学校にいかしてやるから、心配しなくていい」
言葉どおり、母は、昼夜を問わず働いた。
少しのお金も無駄にせず、息子の進学のための費用にした。
母は、息子のやけどの責任を感じていた。
もし、あのとき、自分がそばにいれば。
あの子をひとりにしなければ。
野口は、学校でいじめられたが、成績がよくなるにつれ、みんな何も言わなくなった。
ついに、クラスでトップだった生徒を抜いて一番になったとき、彼のまわりに寄ってくる同級生まで現れた。
でも、野口は気を許したりしなかった。
のちに彼は、こんな言葉を残している。
「家が貧しくても、体が不自由でも、決して失望してはいけない。
人の一生の幸も災いも、自分から作るもの。
周りの人間も、周りの状況も、自分から作り出した影と知るべきである」
野口英世は、16歳のとき、作文を書いた。
自らの不自由な左手のこと。
「どんな苦難があっても頑張っていこうと思う」
その作文が、学校内で話題になる。
先生も生徒も同情して、左手を治すための募金活動に発展。
会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師、渡部鼎(わたなべ・かなえ)先生なら治せるのではないかと盛り上がる。
渡部医師執刀のもと、手術がおこなわれる。
完全とは言えないが、左手の指が動くようになった。
野口は、感動した。
「医者ってすごい、医学は、ひとの人生を変えるチカラを持っている」
彼は渡部に、書生として住み込みで働きながら、医学を学ばせてくれないかと志願。
毎日しつこく通う野口に、渡部も根負けした。
それから、およそ3年半。
野口は、渡部から医学を学んだ。
細菌学を知ったのも、このときだった。
野口は、どこかで思っていた。
「左手のハンデを背負ったことで、かえって、道が開けていくんじゃないか」
野口英世は、渡部医師から、血脇守之助(ちわき・もりのすけ)を紹介してもらう。
血脇は、東京歯科大学の創設者のひとり。
野口の6歳上の血脇は、早くも医学界のサラブレッドとして名をはせていた。
野口は、血脇に可愛がられるための、あらゆる方策を実践した。
やがて、医師免許を取得するため、上京。
その資金は血脇が用意したが、野口は、放蕩のかぎりをつくし、わずか2か月で使い切ってしまう。
下宿を追い払われても、野口は、さまざまな知人に借金を申し込み、なんとか医学を続けることができた。
血脇も決して野口を見捨てず、生涯、パトロンとして彼を応援し続けた。
なぜなら、実生活ではだらしない野口も、医学に関しては誰も真似できない努力家だったから。
たとえ、ノーベル賞をとれずとも、彼の功績はゆるぎない。
南米ペルー、エクアドル、メキシコ。
野口の名前がついた研究所や学校が今も残されている。
彼は、決して過去を振り返らない。
たえず、前だけを見つめ続けた。
「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。
なぜなら人生で変えることができるのは、自分と未来だけだからだ」
野口英世
【ON AIR LIST】
I GOT YOU (I FEEL GOOD) / James Brown
YELLOW FEVER / Lee "Scratch" Perry & Adrian Sherwood
FIND MY WAY / Paul McCartney & Beck
覚 醒 / スガ シカオ
★今回の撮影は、「野口英世記念館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
営業時間など、詳しくは公式HPにてご確認ください。
野口英世記念館 HP
千円札の肖像でおなじみの、野口英世(のぐち・ひでよ)。
1歳のときに、囲炉裏に落ちて左手を大やけど。
そのハンデキャップと家の貧しさを跳ね除け、ロックフェラー医学研究所で細菌学の進歩に貢献した賢人は、親孝行の代表として、たびたび教科書でまつりあげられていますが、実際、どんなひとだったのでしょうか。
彼の功績は、主に、梅毒菌の培養に成功したこと、さらに、アフリカで猛威をふるっていた黄熱病の病原体を特定したことが挙げられます。
そのどれもが気の遠くなるような地道な研究の成果でしたが、細菌とウイルスの違いがあやふやだったこと、のちの実験で彼の実証が覆ったことなどから、ノーベル賞を逃したと言われています。
また、野口自身、決して品行方正な人物ではなかったようです。
お金があればあるだけ、お酒に使ってしまう。
ひとの同情や情けにすがり、借金三昧。
留学の機会を得て、支度金をもらったにもかかわらず、送別会を自ら開き、そこで大盤振る舞い。
支度金全てを使い果たしてしまうのです。
さらに異常なまでの負けず嫌い。
野口と将棋をさせば、彼が勝つまで帰してもらえなかったと言われています。
本名は英世ではなかったのですが、自分と近い名前の主人公が出てくる小説を知り、その主人公の末路が不幸なことを気にやんで、名前を変えてしまったのです。
繊細で、臆病。
そんな人間味あふれる野口ですが、研究に関してだけは、心血を注ぎました。
ナポレオンが3時間しか寝ないというのなら、自分も3時間睡眠で頑張ろうと決意。
寝食はほとんど、研究室だったと言います。
なぜ彼は、そこまで頑張ることができたのでしょうか?
研究中に自ら黄熱病を発症。
51歳の若さでこの世を去った偉人・野口英世が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
野口英世は、1876年11月9日、現在の福島県猪苗代町で生まれた。
猪苗代町には「野口英世記念館」があり、生家をはじめ、野口博士の遺品や、足跡を知ることができる資料が数多く展示されている。
1歳で左手に大やけどを負った野口は、母から言われた。
「そんな手では、農作業はできねえ。
だから、おめえさんは、学業を頑張らねばなんねえ。
母さんは、なんとか、おめえさんを学校にいかしてやるから、心配しなくていい」
言葉どおり、母は、昼夜を問わず働いた。
少しのお金も無駄にせず、息子の進学のための費用にした。
母は、息子のやけどの責任を感じていた。
もし、あのとき、自分がそばにいれば。
あの子をひとりにしなければ。
野口は、学校でいじめられたが、成績がよくなるにつれ、みんな何も言わなくなった。
ついに、クラスでトップだった生徒を抜いて一番になったとき、彼のまわりに寄ってくる同級生まで現れた。
でも、野口は気を許したりしなかった。
のちに彼は、こんな言葉を残している。
「家が貧しくても、体が不自由でも、決して失望してはいけない。
人の一生の幸も災いも、自分から作るもの。
周りの人間も、周りの状況も、自分から作り出した影と知るべきである」
野口英世は、16歳のとき、作文を書いた。
自らの不自由な左手のこと。
「どんな苦難があっても頑張っていこうと思う」
その作文が、学校内で話題になる。
先生も生徒も同情して、左手を治すための募金活動に発展。
会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師、渡部鼎(わたなべ・かなえ)先生なら治せるのではないかと盛り上がる。
渡部医師執刀のもと、手術がおこなわれる。
完全とは言えないが、左手の指が動くようになった。
野口は、感動した。
「医者ってすごい、医学は、ひとの人生を変えるチカラを持っている」
彼は渡部に、書生として住み込みで働きながら、医学を学ばせてくれないかと志願。
毎日しつこく通う野口に、渡部も根負けした。
それから、およそ3年半。
野口は、渡部から医学を学んだ。
細菌学を知ったのも、このときだった。
野口は、どこかで思っていた。
「左手のハンデを背負ったことで、かえって、道が開けていくんじゃないか」
野口英世は、渡部医師から、血脇守之助(ちわき・もりのすけ)を紹介してもらう。
血脇は、東京歯科大学の創設者のひとり。
野口の6歳上の血脇は、早くも医学界のサラブレッドとして名をはせていた。
野口は、血脇に可愛がられるための、あらゆる方策を実践した。
やがて、医師免許を取得するため、上京。
その資金は血脇が用意したが、野口は、放蕩のかぎりをつくし、わずか2か月で使い切ってしまう。
下宿を追い払われても、野口は、さまざまな知人に借金を申し込み、なんとか医学を続けることができた。
血脇も決して野口を見捨てず、生涯、パトロンとして彼を応援し続けた。
なぜなら、実生活ではだらしない野口も、医学に関しては誰も真似できない努力家だったから。
たとえ、ノーベル賞をとれずとも、彼の功績はゆるぎない。
南米ペルー、エクアドル、メキシコ。
野口の名前がついた研究所や学校が今も残されている。
彼は、決して過去を振り返らない。
たえず、前だけを見つめ続けた。
「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。
なぜなら人生で変えることができるのは、自分と未来だけだからだ」
野口英世
【ON AIR LIST】
I GOT YOU (I FEEL GOOD) / James Brown
YELLOW FEVER / Lee "Scratch" Perry & Adrian Sherwood
FIND MY WAY / Paul McCartney & Beck
覚 醒 / スガ シカオ
★今回の撮影は、「野口英世記念館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
営業時間など、詳しくは公式HPにてご確認ください。
野口英世記念館 HP