第398話 苦悩を突き抜け、歓喜に至る
-【音楽家のレジェンド篇】ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン-
[2023.04.15]
Podcast
4年ぶりに、世界最大級のクラシック音楽祭が、日本に帰ってきます。
「ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2023」。
5月4日から3日間行われるこのイベントのテーマは、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
交響曲やピアノ協奏曲はもちろん、ベートーヴェンへのオマージュ作品も演奏される予定です。
ベートーヴェンの楽曲に流れるヒューマニズムこそ、今の時代にあらためて享受すべきなのかもしれません。
56年の生涯は、貧困と病に翻弄される、苦悩の連続でした。
特に、20代後半から彼を絶望の淵に陥れたのは、難聴。
耳が聴こえなくなっていったのです。
ピアニストとして、作曲家として、音が聴こえないということは、どれほどの苦難でしょうか。
ベートーヴェンは、医者から治る見込みがないことを告げられ、最高難聴者となった28歳のとき、遺書をしたためます。
それでも、孤児救済のための慈善演奏会を休むことなく、会場に姿を見せました。
晩年は、ピアノに耳をぴったりつけて、振動を感じることで、作曲を続けたと言います。
ハンディキャップがあったからこそ、広い音域と豊かな響きを求めたベートーヴェンは、西洋音楽史を語る上で、エポック・メイキングな存在。
ハイドン、モーツァルトというウィーン古典派の二大巨匠の強い影響を受けながらも、宮廷のものだったクラシック音楽を民衆のものにしたのです。
彼は、言いました。
「神がもし、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、私は運命に立ち向かう。苦悩を突き抜ければ、歓喜に至る」
古典派音楽の集大成を成し遂げ、ロマン派音楽の先駆者になり、のちの音楽家たちに多大な影響を与えた音楽の神様、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、1770年、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれた。
父は宮廷楽団のテノール歌手、母は宮廷料理人の娘だった。
楽団長だった祖父は、ベートーヴェンが3歳のときに亡くなる。
音楽的な環境は、整っていた。
父の手ほどきで、ピアノを習う。
父には、野心があった。
「この子を、第二のモーツァルトにしよう」
6歳ですでに非凡な才能でまわりを驚かせた。
ただ、父は無類の酒好き。
酒を飲むと人格が変わり、ベートーヴェンに手をあげることもあった。
スパルタ教育は、度を越していく。
部屋に軟禁。ピアノの傍から離れることを許してもらえなかった。
父は、我が子を「神童」と思わせるため、年齢を詐称。
初めての公開演奏会は、8歳のときだったが、ポスターには6歳と書いた。
ベートーヴェンは、ときにピアノを弾くのが嫌になったが、父の下で生きて行くには、音楽家になる運命を受け入れるしかなかった。
10歳のときには、教会のオルガニストになる。
そうして11歳のとき、生涯を決定づけるピアノ教師に出会う。
クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ。
ネーフェは、オルガニストで作曲家。
ベートーヴェンの才能を見出し、英才教育をほどこした。
祖父の遺産を食いつぶしてしまった父の代わりに、ベートーヴェンの音楽教育の資金援助もいとわなかった。
尊敬できる音楽の師を得たベートーヴェンは、さらに飛躍の大海に飛び込んだ。
ネーフェは、ベートーヴェンが第二のモーツァルトになれる器を持っていることを神聖ローマ帝国の選帝侯に進言。
「若き才能には、旅が必要です。どうか、ウィーンに派遣し、音楽の泉を、思う存分、堪能させる機会をお与えください」とアピールした。
この願いが叶ったのは、ベートーヴェンが16歳の時。
初めてのウィーン。心が躍る。
当時のウィーンには、世界中から優れた音楽家が集まっていた。
所説あるが、このとき、ベートーヴェンは憧れのモーツァルトに会ったと言われている。
モーツァルトは、このとき30歳。
亡くなるおよそ5年前だった。
モーツァルトの邸宅を訪れたベートーヴェンは、与えられた主題でピアノを即興演奏する。
演奏が終わるとモーツァルトは、しばらく黙り、静かに扉を開け、隣の部屋にいた友人たちに、大きな声で言った。
「みなさん、彼のことをよく覚えておくがいい!
そのうち彼は、世間をあっと言わす存在になるでしょう!」
ウィーンを訪れたことは、ベートーヴェンの音楽的な成長に大きな意味を持った。
驚きや焦りより、むしろ、自信を持つ。
「僕がやってきたこと、やっていることは、決して間違っていなかった」
もっとウィーンに留まりたかったが、ボンから電報が届く。
「母、危篤…」
看病の甲斐もなく、母は他界。
落胆した父はさらに酒におぼれ、一家の稼ぎ手をベートーヴェンひとりが担うことになった。
父に言われるがまま、過酷なレッスンを受けたピアノ。
今度はそのピアノが、稼ぐ力になる。
ベートーヴェンは、宮廷第二オルガニストとして働き、さらにボンの名門貴族・ブロイニング家の子どもたちにピアノを教える職を得た。
ブロイニング家の夫人は、ベートーヴェンを公私に渡り、励ます。
ラテン語や文学、絵画などを教え、ともすれば生活のために、くじけそうになる心を優しく癒した。
「あなたには、神様からのギフトがあるのです。それを大切に守りなさい」
ブロイニング家のサロンにウィーンからやってきた、ヴァルトシュタイン伯爵は、大の音楽愛好家。
ブロイニング家でベートーヴェンの演奏を聴いて、そのとてつもない才能に驚いた。
この出会いが、やがてハイドンの弟子になるという幸運につながる。
苦悩に立ち向かい、毎日懸命に生きていれば、必ず、誰か支援者が現れてくれる。
そんな思いが、若きベートーヴェンの心に刻まれていった。
「人間はまじめに生きている限り、必ず不幸や苦しみが降りかかってくるものなのです。
でも、それを自分の運命として受け止め、辛抱強く我慢し、さらに積極的に力強くその運命と戦えば、いつかは必ず勝利するものである」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
【ON AIR LIST】
交響曲第9番ニ短調 op.125<合唱> / ベートーヴェン(作曲)、サイトウ・キネン・オーケストラ、小澤征爾(指揮)
<魔笛>の主題による7つの変奏曲変ホ長調 WoO46 / ベートーヴェン(作曲)、アンドラーシュ・シフ(ピアノ)、ミクローシュ・ペレーニ(チェロ)
ピアノ協奏曲第3番ハ短調 op.37 第一楽章 / ベートーヴェン(作曲)、横山幸雄(ピアノ)、ジャパン・チェンバー・オーケストラ
ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 op.53 「ワルトシュタイン」 / ベートーヴェン(作曲)、ダニエル・バレンボイム(ピアノ)
「ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2023」。
5月4日から3日間行われるこのイベントのテーマは、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
交響曲やピアノ協奏曲はもちろん、ベートーヴェンへのオマージュ作品も演奏される予定です。
ベートーヴェンの楽曲に流れるヒューマニズムこそ、今の時代にあらためて享受すべきなのかもしれません。
56年の生涯は、貧困と病に翻弄される、苦悩の連続でした。
特に、20代後半から彼を絶望の淵に陥れたのは、難聴。
耳が聴こえなくなっていったのです。
ピアニストとして、作曲家として、音が聴こえないということは、どれほどの苦難でしょうか。
ベートーヴェンは、医者から治る見込みがないことを告げられ、最高難聴者となった28歳のとき、遺書をしたためます。
それでも、孤児救済のための慈善演奏会を休むことなく、会場に姿を見せました。
晩年は、ピアノに耳をぴったりつけて、振動を感じることで、作曲を続けたと言います。
ハンディキャップがあったからこそ、広い音域と豊かな響きを求めたベートーヴェンは、西洋音楽史を語る上で、エポック・メイキングな存在。
ハイドン、モーツァルトというウィーン古典派の二大巨匠の強い影響を受けながらも、宮廷のものだったクラシック音楽を民衆のものにしたのです。
彼は、言いました。
「神がもし、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、私は運命に立ち向かう。苦悩を突き抜ければ、歓喜に至る」
古典派音楽の集大成を成し遂げ、ロマン派音楽の先駆者になり、のちの音楽家たちに多大な影響を与えた音楽の神様、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、1770年、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれた。
父は宮廷楽団のテノール歌手、母は宮廷料理人の娘だった。
楽団長だった祖父は、ベートーヴェンが3歳のときに亡くなる。
音楽的な環境は、整っていた。
父の手ほどきで、ピアノを習う。
父には、野心があった。
「この子を、第二のモーツァルトにしよう」
6歳ですでに非凡な才能でまわりを驚かせた。
ただ、父は無類の酒好き。
酒を飲むと人格が変わり、ベートーヴェンに手をあげることもあった。
スパルタ教育は、度を越していく。
部屋に軟禁。ピアノの傍から離れることを許してもらえなかった。
父は、我が子を「神童」と思わせるため、年齢を詐称。
初めての公開演奏会は、8歳のときだったが、ポスターには6歳と書いた。
ベートーヴェンは、ときにピアノを弾くのが嫌になったが、父の下で生きて行くには、音楽家になる運命を受け入れるしかなかった。
10歳のときには、教会のオルガニストになる。
そうして11歳のとき、生涯を決定づけるピアノ教師に出会う。
クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ。
ネーフェは、オルガニストで作曲家。
ベートーヴェンの才能を見出し、英才教育をほどこした。
祖父の遺産を食いつぶしてしまった父の代わりに、ベートーヴェンの音楽教育の資金援助もいとわなかった。
尊敬できる音楽の師を得たベートーヴェンは、さらに飛躍の大海に飛び込んだ。
ネーフェは、ベートーヴェンが第二のモーツァルトになれる器を持っていることを神聖ローマ帝国の選帝侯に進言。
「若き才能には、旅が必要です。どうか、ウィーンに派遣し、音楽の泉を、思う存分、堪能させる機会をお与えください」とアピールした。
この願いが叶ったのは、ベートーヴェンが16歳の時。
初めてのウィーン。心が躍る。
当時のウィーンには、世界中から優れた音楽家が集まっていた。
所説あるが、このとき、ベートーヴェンは憧れのモーツァルトに会ったと言われている。
モーツァルトは、このとき30歳。
亡くなるおよそ5年前だった。
モーツァルトの邸宅を訪れたベートーヴェンは、与えられた主題でピアノを即興演奏する。
演奏が終わるとモーツァルトは、しばらく黙り、静かに扉を開け、隣の部屋にいた友人たちに、大きな声で言った。
「みなさん、彼のことをよく覚えておくがいい!
そのうち彼は、世間をあっと言わす存在になるでしょう!」
ウィーンを訪れたことは、ベートーヴェンの音楽的な成長に大きな意味を持った。
驚きや焦りより、むしろ、自信を持つ。
「僕がやってきたこと、やっていることは、決して間違っていなかった」
もっとウィーンに留まりたかったが、ボンから電報が届く。
「母、危篤…」
看病の甲斐もなく、母は他界。
落胆した父はさらに酒におぼれ、一家の稼ぎ手をベートーヴェンひとりが担うことになった。
父に言われるがまま、過酷なレッスンを受けたピアノ。
今度はそのピアノが、稼ぐ力になる。
ベートーヴェンは、宮廷第二オルガニストとして働き、さらにボンの名門貴族・ブロイニング家の子どもたちにピアノを教える職を得た。
ブロイニング家の夫人は、ベートーヴェンを公私に渡り、励ます。
ラテン語や文学、絵画などを教え、ともすれば生活のために、くじけそうになる心を優しく癒した。
「あなたには、神様からのギフトがあるのです。それを大切に守りなさい」
ブロイニング家のサロンにウィーンからやってきた、ヴァルトシュタイン伯爵は、大の音楽愛好家。
ブロイニング家でベートーヴェンの演奏を聴いて、そのとてつもない才能に驚いた。
この出会いが、やがてハイドンの弟子になるという幸運につながる。
苦悩に立ち向かい、毎日懸命に生きていれば、必ず、誰か支援者が現れてくれる。
そんな思いが、若きベートーヴェンの心に刻まれていった。
「人間はまじめに生きている限り、必ず不幸や苦しみが降りかかってくるものなのです。
でも、それを自分の運命として受け止め、辛抱強く我慢し、さらに積極的に力強くその運命と戦えば、いつかは必ず勝利するものである」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
【ON AIR LIST】
交響曲第9番ニ短調 op.125<合唱> / ベートーヴェン(作曲)、サイトウ・キネン・オーケストラ、小澤征爾(指揮)
<魔笛>の主題による7つの変奏曲変ホ長調 WoO46 / ベートーヴェン(作曲)、アンドラーシュ・シフ(ピアノ)、ミクローシュ・ペレーニ(チェロ)
ピアノ協奏曲第3番ハ短調 op.37 第一楽章 / ベートーヴェン(作曲)、横山幸雄(ピアノ)、ジャパン・チェンバー・オーケストラ
ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 op.53 「ワルトシュタイン」 / ベートーヴェン(作曲)、ダニエル・バレンボイム(ピアノ)