yes!~明日への便り~presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ

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ストーリー

第413話 負けない心を持つ
-【医学の発展に貢献したレジェンド篇】マリー・キュリー-

[2023.07.29]

Podcast 

放射能の研究とラジウムの発見で、2度のノーベル賞を受賞した女性がいます。
マリー・スクウォドフスカ・キュリー。
通称・キュリー夫人。
なぜ、後世のひとが、彼女を「キュリー夫人」と呼ぶようになったのか。それには、二つの理由が考えられます。
ひとつは、マリー自身、昔の同級生への結婚報告の手紙で、「次に会う時は、キュリー夫人になっています」と書いたことから。
もうひとつは、マリー亡きあと、娘のエーヴが書いた、マリーの伝記のタイトルが『キュリー夫人』だったから。
ともすれば夫に隷属し、献身的に夫を支える妻、というイメージを与えかねない名前ですが、彼女ほど、対等な夫婦関係を構築し、女性の人権を主張し、闘った科学者はいません。
彼女の功績には、多くの「初」「初めての」という言葉がついてまわります。
裏を返せば、それまで、いかに女性の活躍する場が奪われてきたか、という証でもあるのです。

最初のノーベル物理学賞は、同じく科学者だった夫・ピエールと二人に贈られたものでしたが、二度目のノーベル化学賞は、夫亡きあと、マリーだけに贈られた賞でした。
当時彼女が所属していたフランス科学アカデミーは、古い体質が幅を利かせ、何かにつけ、女性蔑視的な風潮が色濃くありました。
マリーが有名になればなるほど、彼女への誹謗中傷が連日、マスコミで報じられたのです。
年下の研究員との不倫報道、彼女がユダヤ人であるというデマ、マリーの夫は不倫を知って自ら命を絶ったというフェイクニュース。
それでも彼女は毅然と立ち向かい、パリ大学の教授として、後進の指導にあたりました。
さらに彼女の強さは第一次世界大戦勃発で証明されました。
ドイツ軍の空襲を受けた、パリ。
放射線を扱える彼女は、X線が照射できる車に乗り込み、危険な戦地に向かったのです。
体のどこに銃弾があるかを認識できれば助かる命は多い。
ひとりでも多くのひとの命を救うために研究を続けて来た彼女の行動は、いっさいブレることはありませんでした。
なぜ、ここまで彼女は強くなったのか。
そこには、幼い頃受けた、屈辱と温情の二つがあったのです。

世界中の子どもたちに、科学への夢を与えたレジェンド、マリー・キュリーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?


キュリー夫人こと、マリー・キュリーは、1867年11月7日、ポーランド、ワルシャワに生まれた。
父も母も下級貴族の出身。
父は大学で物理と数学を教え、母は小さな学校の校長を務めていた。
マリーは、五人兄弟の末っ子。
裕福な暮らしと、甘えが許される環境。
しかしそれは、マリーが6歳の時、崩壊する。
当時のポーランドは、帝政ロシアの影響下にあった。
ポーランド語を話すことは禁じられ、ロシア語を強いられた。
しかし、父は密かにポーランド語で授業。
それを仲間に密告され、住居と仕事を奪われる。
狭いアパートに引っ越し、塾の先生を始めるが、母は結核になり、貧しさは日を追うごとに深刻な状態になった。
マリーの小学校にも時々、抜き打ちでロシアの軍人がやってきた。
ポーランド語の授業をしていた先生は、すぐに別の授業を装う。
軍人から詰問を受けるのは、いつもマリーの役目だった。
彼女は誰よりも頭が良く、ロシアの歴史を暗記していた。
軍人は、ロシアの歴史に関するいじわるな質問をする。
マリーは、全てノーミスで答えた。
軍人たちが満足して帰ると、彼女は泣いた。
先生に泣いて訴えた。
「先生、自分たちの言葉を勉強するのが、どうしてダメなんですか?
自分たちの国のことを学ぶのが、どうしていけないんですか?
なぜ、私たちは、自分の言葉を話しちゃダメなんですか?
答えてください、答えてください…」

マリー・キュリーの母が亡くなったのは、マリーが10歳のときだった。
父は意気消沈。すっかり年老いてしまう。
マリーも、それまで頑張ってきた勉学への熱意も冷め、うつ状態に陥る。
その苦しみを救ってくれたのは、近所の食堂のおばさんと兄弟たちだった。
「あんたは、優秀なんだから、勉強を続けなさい。
お母さんはね、あんたがきっと将来素晴らしい仕事をするって言ってたんだから。
自慢の娘だったんだよ、マリー」
おばさんのそんなひとことで、マリーは生きる希望を持つ。
おばさんもまた、ポーランド人だった。
マリーは、ロシアの軍人の監視をくぐりぬけ、ポーランドの勉強もしていた。
彼女の夢は、ポーランドという国の発展のために役立つ人間になることだった。
14歳になり、官立の女学校に進み、さらなる進学を望んだが、当時、ロシアに支配されていたポーランドでは、女性の大学への入学は許されていなかった。
そんな中、マリーの姉、ブローニャが、パリの大学で医学を学ぶため、貯金をしていることを知る。
フランスには、女性が入学できる大学があった。
マリーは、今までたくさん勉強を教えてくれた姉に、こんな提案をした。
「私、住み込みで家庭教師をする。そうしてお金をお姉さんに送る。
パリの大学に行って!
そして、もしいつか、お姉さんがお医者さんになったら、私をパリに呼んでください」


キュリー夫人こと、マリー・キュリーは、18歳の頃、ポーランドの田舎で住み込みの家庭教師をした。
初めて親兄弟と離れる。さみしかった。
雇い主のゾラフスキーさんは、裕福な農家。
やってきた少女のような女性に驚いたが、一家で手厚く迎えてくれた。
マリーは、自然豊かな村にさえ押し寄せるロシアの恐怖を感じる。
ポーランド語の勉強は禁止。
子どものうちからロシア語で話すことを強いられていた。
ゾラフスキーさんは、嘆き、泣いた。
「わたしらが、いったい何をしたと言うんですか。
私は、子どもにポーランドの言葉で話しかけたい…」
マリーは密かに、近所の子どもたちを集め、ポーランド語の授業を始めた。
ロシアの軍人に見つかったら命の保証はない。
それでも彼女はやり続ける。
家庭教師で稼いだお金は、ほとんど姉に仕送りした。
おかげで姉は、パリで医者になることができた。
やがて、姉のブローニャから手紙が届く。
「マリー、パリに来なさい。ソルボンヌ大学で学びなさい」
そうして、マリーは、科学者への第一歩を踏み出した。


「確かに私は、ノーベル賞を二つ、いただきました。
なぜ私がそのような栄誉を受けることができたか。
おそらく、それは、ただ一点のみ。
負けない心を持っていたからです。
そしてそれは、屈辱と無縁ではありませんでした」
マリー・スクウォドフスカ・キュリー


【ON AIR LIST】
コペルニクス / バーシア
メヌエット / パデレフスキー(作曲)、寺田悦子(ピアノ)
かわいい若者 作品74-8 / ショパン(作曲)、エリー・アーメリング(ソプラノ)
マズルカ第41番 嬰ハ短調 作品63-3 / ショパン(作曲)、横山幸雄(ピアノ)
ザ・マン / テイラー・スウィフト

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