第410話 ひとの真似をしない
-【医学の発展に貢献したレジェンド篇】高峰譲吉-
[2023.07.08]
Podcast
アドレナリンを発見し、タカジアスターゼを開発した、近代バイオテクノロジーの先駆者がいます。
高峰譲吉(たかみね・じょうきち)。
アドレナリンは、体の機能を調節するホルモンの一種。
心臓の動きを活発にするなど、臓器の働きを調整する役割があります。
また止血作用があるため、現在も外科手術の際には、世界中で使用されています。
高峰は、このアドレナリンを結晶の形で取り出すことに成功。
のちのホルモン研究の礎となる画期的な発見でした。
タカジアスターゼは、酵素の分解作用を利用した消化を助ける薬。
消化不良を解消してくれる効果は話題を呼び、世界に広まりました。
高峰は、アメリカで「サムライ化学者」と呼ばれた独創的な研究者という一面と、もうひとつ、スタートアップの先駆者、起業家の先駆けとしても知られています。
彼は雑誌『実業之日本』に書きました。
「いかにして発明国民となるべきか」
高峰は、真似、模倣、コピーを嫌いました。
模倣ではなく、発明を産業に応用しなければ、欧米列強にかなわない。
そもそも、日本人の「発明力」は素晴らしい、それを使わずして欧米の真似ばかりしていては、いつまで経っても日本は勝てない。
そう訴えたのです。
渋沢栄一の協力を得て設立した化学肥料の会社も、鉱石を使えば効率よく肥料が作れることを、彼自身が発見して、大ヒットを産み出しました。
会社の跡地、東京都江東区の釜屋堀公園には、「化学肥料が生まれた場所」として、石碑が建っています。
ひとがやらないことをやってみる、この精神なくして、進歩も発展もないことを、自分の人生を通して証明してみせました。
彼が歩んだ道は、決して平たんではなく、挫折や苦労の連続でした。
なぜ彼は、発明という名の剣を一度も手放さず、戦い抜くことができたのでしょうか。
日本の近代化学を推し進めた賢人・高峰譲吉が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
アドレナリンを発見した化学者・高峰譲吉は、ペリー来航の翌年1854年、越中国高岡、現在の富山県高岡市に生まれた。
母は、造り酒屋の娘。
父は、若くして京都で医学や化学を学んだ漢方医だった。
ほどなくして、父は金沢医学校に招かれ、加賀藩の城下に入る。
父はオランダ語を話すこともできた国際人。
藩の医術御用方に挙げられ、やがて武士の身分を得る。
さらに化学の知識を見込まれ、火薬の原料である硝酸カリウムの精製をまかされる。
住まいは、どんどん金沢城に近くなっていく。
譲吉は幼いながらに、父が出世していくのがわかった。
譲吉4歳のとき、金沢を大地震が襲った。
追い打ちをかけるように、雨が多く、大凶作。
農民たちは、餓死寸前の窮地に追い込まれる。
卯辰山に駆けつけた大勢の農民たちが、城に向かって泣き叫ぶ。
「このままじゃあ、みんな、飢え死にだ! 米をくれ! 米をくれ!」
その声は、ひと晩じゅう続いた。
父は、譲吉に言った。
「いいか、よく聞きなさい、あの叫び声を。
私は、あのひとたち皆に食べ物を与えることはできない。
でも、病のひとを、ひとりひとり治すことはできる。
医学を学びなさい。
それも、漢方でも蘭方でもなく、西洋の医術を学びなさい」
そう言って、父は、地球儀を回した。
「このちっぽけな日本だけで、物事を考えてはいけないのです」
「近代化学のパイオニア」、高峰譲吉は、幼い頃から、ビーカーやフラスコなどの実験道具に囲まれて育つ。
父は、医者でありながら、化学に興味を持つ研究者でもあった。
毎晩、実験を行い、うまくいくと、譲吉を部屋に呼んだ。
部屋の中は、薬品や、焦げたような匂いで満ちていた。
「化学っていうのはなあ、ひとの役に立つのです。
こうして薬を作れば、命を救うことだってできます。
新しいものを産み出すのは、骨が折れますが、大切なことです」
白衣の父が、誇らしかった。
「いちばん、残念なのは」
そこで父は、言葉を切った。
「誰かの人生を、なぞることです。
譲吉、おまえはこの世にたったひとりなのだから、おまえだけの人生をつくっていけばいい。わかりましたか?」
藩校である明倫堂は、来るべく新しい時代を見越して、藩内の優秀な子どもに、広く世界を見せる教育を推進していた。
譲吉は、最年少の12歳ながら選ばれる。
加賀藩の未来を背負い、長崎に留学した。
しかし…能登半島の七尾港を出た帆船は、暴風雨に遭遇。座礁してしまった…。
1865年の春、能登半島を出た船は、玄界灘で暴風雨に遭遇。
帆船は、激しく揺れ、船内に海水があふれる。
最年少の譲吉は、もう助からないと思った。
金沢を出たことを後悔した。
留学で欧米の技術や言語、文化を学び、やがて日本という国を変えて見せるという意気込みは、消えていた。
父や母に会いたかった。
このまま海に沈むのなら、自分はいったい何のために生まれてきたのか。
座礁した船。海に投げ出された乗組員たち。
苦しかった。怖かった。
でも、偶然、一隻の軍艦が近くを通る。
助かった。
そのときの体験は、強く、譲吉の心に残った。
何かを始めようとしたら、必ずリスクがともなう。
ひとと違う生き方を望めば、当然のように、茨の道が待っている。
それでも、新しい扉を開けたい。
ひとの真似、模倣をして生きるより、自分だけの道を切り開く。
譲吉は、その後、どんな苦難にあっても、自らの行いを後悔することはなかった。
「これまでも何かを成し遂げようとして
簡単に成功したことは一度としてありません。
Try, Try Again! 何度でも挑戦しよう!」
高峰 譲吉
【ON AIR LIST】
アドレナリン / 奥田民生
BLUE DRAG / Allen Toussaint
I'M GOIN' HOME / Dr.John
GO YOUR OWN WAY / Fleetwood Mac
★今回の撮影は、「たかしん高峰記念館」様、「高岡商工会議所」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
営業時間など、詳しくは高岡商工会議所のHPにてご確認ください。
高岡商工会議所 HP
高峰譲吉(たかみね・じょうきち)。
アドレナリンは、体の機能を調節するホルモンの一種。
心臓の動きを活発にするなど、臓器の働きを調整する役割があります。
また止血作用があるため、現在も外科手術の際には、世界中で使用されています。
高峰は、このアドレナリンを結晶の形で取り出すことに成功。
のちのホルモン研究の礎となる画期的な発見でした。
タカジアスターゼは、酵素の分解作用を利用した消化を助ける薬。
消化不良を解消してくれる効果は話題を呼び、世界に広まりました。
高峰は、アメリカで「サムライ化学者」と呼ばれた独創的な研究者という一面と、もうひとつ、スタートアップの先駆者、起業家の先駆けとしても知られています。
彼は雑誌『実業之日本』に書きました。
「いかにして発明国民となるべきか」
高峰は、真似、模倣、コピーを嫌いました。
模倣ではなく、発明を産業に応用しなければ、欧米列強にかなわない。
そもそも、日本人の「発明力」は素晴らしい、それを使わずして欧米の真似ばかりしていては、いつまで経っても日本は勝てない。
そう訴えたのです。
渋沢栄一の協力を得て設立した化学肥料の会社も、鉱石を使えば効率よく肥料が作れることを、彼自身が発見して、大ヒットを産み出しました。
会社の跡地、東京都江東区の釜屋堀公園には、「化学肥料が生まれた場所」として、石碑が建っています。
ひとがやらないことをやってみる、この精神なくして、進歩も発展もないことを、自分の人生を通して証明してみせました。
彼が歩んだ道は、決して平たんではなく、挫折や苦労の連続でした。
なぜ彼は、発明という名の剣を一度も手放さず、戦い抜くことができたのでしょうか。
日本の近代化学を推し進めた賢人・高峰譲吉が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
アドレナリンを発見した化学者・高峰譲吉は、ペリー来航の翌年1854年、越中国高岡、現在の富山県高岡市に生まれた。
母は、造り酒屋の娘。
父は、若くして京都で医学や化学を学んだ漢方医だった。
ほどなくして、父は金沢医学校に招かれ、加賀藩の城下に入る。
父はオランダ語を話すこともできた国際人。
藩の医術御用方に挙げられ、やがて武士の身分を得る。
さらに化学の知識を見込まれ、火薬の原料である硝酸カリウムの精製をまかされる。
住まいは、どんどん金沢城に近くなっていく。
譲吉は幼いながらに、父が出世していくのがわかった。
譲吉4歳のとき、金沢を大地震が襲った。
追い打ちをかけるように、雨が多く、大凶作。
農民たちは、餓死寸前の窮地に追い込まれる。
卯辰山に駆けつけた大勢の農民たちが、城に向かって泣き叫ぶ。
「このままじゃあ、みんな、飢え死にだ! 米をくれ! 米をくれ!」
その声は、ひと晩じゅう続いた。
父は、譲吉に言った。
「いいか、よく聞きなさい、あの叫び声を。
私は、あのひとたち皆に食べ物を与えることはできない。
でも、病のひとを、ひとりひとり治すことはできる。
医学を学びなさい。
それも、漢方でも蘭方でもなく、西洋の医術を学びなさい」
そう言って、父は、地球儀を回した。
「このちっぽけな日本だけで、物事を考えてはいけないのです」
「近代化学のパイオニア」、高峰譲吉は、幼い頃から、ビーカーやフラスコなどの実験道具に囲まれて育つ。
父は、医者でありながら、化学に興味を持つ研究者でもあった。
毎晩、実験を行い、うまくいくと、譲吉を部屋に呼んだ。
部屋の中は、薬品や、焦げたような匂いで満ちていた。
「化学っていうのはなあ、ひとの役に立つのです。
こうして薬を作れば、命を救うことだってできます。
新しいものを産み出すのは、骨が折れますが、大切なことです」
白衣の父が、誇らしかった。
「いちばん、残念なのは」
そこで父は、言葉を切った。
「誰かの人生を、なぞることです。
譲吉、おまえはこの世にたったひとりなのだから、おまえだけの人生をつくっていけばいい。わかりましたか?」
藩校である明倫堂は、来るべく新しい時代を見越して、藩内の優秀な子どもに、広く世界を見せる教育を推進していた。
譲吉は、最年少の12歳ながら選ばれる。
加賀藩の未来を背負い、長崎に留学した。
しかし…能登半島の七尾港を出た帆船は、暴風雨に遭遇。座礁してしまった…。
1865年の春、能登半島を出た船は、玄界灘で暴風雨に遭遇。
帆船は、激しく揺れ、船内に海水があふれる。
最年少の譲吉は、もう助からないと思った。
金沢を出たことを後悔した。
留学で欧米の技術や言語、文化を学び、やがて日本という国を変えて見せるという意気込みは、消えていた。
父や母に会いたかった。
このまま海に沈むのなら、自分はいったい何のために生まれてきたのか。
座礁した船。海に投げ出された乗組員たち。
苦しかった。怖かった。
でも、偶然、一隻の軍艦が近くを通る。
助かった。
そのときの体験は、強く、譲吉の心に残った。
何かを始めようとしたら、必ずリスクがともなう。
ひとと違う生き方を望めば、当然のように、茨の道が待っている。
それでも、新しい扉を開けたい。
ひとの真似、模倣をして生きるより、自分だけの道を切り開く。
譲吉は、その後、どんな苦難にあっても、自らの行いを後悔することはなかった。
「これまでも何かを成し遂げようとして
簡単に成功したことは一度としてありません。
Try, Try Again! 何度でも挑戦しよう!」
高峰 譲吉
【ON AIR LIST】
アドレナリン / 奥田民生
BLUE DRAG / Allen Toussaint
I'M GOIN' HOME / Dr.John
GO YOUR OWN WAY / Fleetwood Mac
★今回の撮影は、「たかしん高峰記念館」様、「高岡商工会議所」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
営業時間など、詳しくは高岡商工会議所のHPにてご確認ください。
高岡商工会議所 HP