第492話 レッテルをはがす
-【福岡県にゆかりのあるレジェンド篇】小説家 火野葦平-
[2025.02.01]
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福岡県北九州市若松出身の、芥川賞作家がいます。
火野葦平(ひの・あしへい)。
1937年、葦平が30歳の時、日中戦争が勃発。
召集令状が届きます。
戦地におもむく壮行会の会場。その片隅で書き上げた小説『糞尿譚』を友人に託し、中国、上海にほど近い杭州に旅立った葦平。
戦地に、友人からうれしい便りが舞い込みます。
「貴殿の小説が、芥川賞を受賞」
文藝春秋社、菊池寛(きくち・かん)の命を受けた、小林秀雄が杭州に行き賞状を渡すという、前代未聞の陣中授与式が行われました。
春の陽の光がキラキラ舞う湖のほとり。
葦平は、小林特派員から、うやうやしく賞状を受け取ります。
カメラのフラッシュがバシャバシャとたかれ、マスコミはこの様子を大きく報じました。
無名だった、ごくごくフツウの兵隊は、一躍、時のひと。
この受賞が、彼の運命を大きく変えました。
葦平は、その後、軍部に初めてできた報道部に転属。
戦争の様子を事細かに伝える、いわば、従軍記者の任を受けることになったのです。
兵隊たちの生々しい人間模様や戦争の過酷さを書き綴った従軍記『麦と兵隊』は、たちまち大人気。
『土と兵隊』『花と兵隊』と合わせた兵隊三部作は、300万部を超える大ベストセラーになります。
ただ、この作品で、葦平は「兵隊作家」というレッテルを貼られることになりました。
戦争が終わったあとも、そのレッテルを払拭するのは難しく、一時は、戦犯として、誹謗中傷の渦に巻き込まれます。
そんな葦平が、再起を賭けた記念碑的な作品が、自らの両親をモデルにした、『花と龍』という小説でした。


北九州市立文学館で、令和2年に開催された火野葦平没後60年の記念展。
そのサブタイトルは、「レッテルは かなしからずや」でした。
これは、ひとにレッテルを貼って区分けしてしまう恐ろしさ、哀しさを誰よりも知っていた葦平の言葉です。
いかにして、彼は、己のレッテルと戦ったのでしょうか。
52歳で自ら死を選んだ文壇の寵児、火野葦平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
戦前、戦中、戦後を駆け抜けた小説家、火野葦平は、1907年1月25日、現在の福岡県北九州市若松区に生まれた。
若松区は、洞海湾と響灘に囲まれた若松半島にある。
この地は、かつて、日本一といわれる石炭積出港。
葦平の父は、船への積み込みを主たる仕事とする、荷役労働者の元締め。玉井組の組長だった。
父は、劣悪な条件や環境下で働く荷役夫たちのために、少しでも働きやすい環境を作ろうと、必死に働きかける人情派だった。
そのため、人望も厚く、多くのひとに慕われる一方、体制側におもねる裏切りや反逆も後を絶たなかった。
そんな中、葦平は、小学生の頃から絵や本を愛する、心優しい少年として育つ。
魚釣りに没頭し、近所の子どもと泥だらけで遊ぶところはあったが、基本、ひとりで絵を画くのが好きだった。
将来は画家になりたい、そう思っていた。
葦平にとっての運命の出会いは、中学2年の時。
いとこにすすめられて読んだ小説に、衝撃を受けた。
作者の名は、夏目漱石。
葦平は、漱石の全ての作品を読破し、心に決めた。
「ボクは、小説家になる」
火野葦平は、父が興した玉井組の跡継ぎ。
だが、父は、葦平が早稲田大学英文科に合格すると、港中を走りまわって自慢した。
自分は四国の松山から裸一貫でここへやってきた学のない田舎者。
その息子が天下の早稲田に入った。法外な仕送りを約束した。
しかし葦平は、大学に通うことなく、文学にのめり込む。
仕送りのお金は全て本代や同人誌発行の費用に消えた。
それでも親バカな父は、葦平の自費出版のお金まで用立てた。
葦平は、21歳のとき、突然、福岡歩兵24連隊に入営。
四畳半の中で書く小説に行き詰まりを感じていたのかもしれない。
しかし、入隊後、レーニンを読んでいたことが発覚。
社会主義思想を持つ者として、あえなく除隊に至る。
若松に戻った葦平は、若松港で働く港湾労働者のための組合を結成。
彼の視線は、常に、汗水たらして働く労働者にあった。
最先端の現場で泥にまみれて働くひとを、大切にする。
父が他の組長と違ったところも、そこだった。
自分も、決して、高みから人を眺めるような人生はやめよう、葦平は、そう心に誓った。
目線を低く、優しく、常に、いちばん汗水流しているひとを大切にする、そんな火野葦平の思いは、戦地に行ってもかわらなかった。
従軍記者として、戦争の様子をルポルタージュする。
その筆は、常に第一線で苦しみながらも戦う兵士のために使った。
その文章は感動を呼び、彼の名は広まった。
ただ、葦平の評価があまりにも高かったせいで、戦後、苦しむことになる。
「兵隊作家」。
そのレッテルは、つらかった。
戦争に加担した、という者まで現れ、家族も含め、肩身の狭い思いをする。
でも、自分のスタンスは間違っていない。
常に、弱い者、言葉を発することができない者のために、書いてきた。
レッテルをはがすため、彼は原点に返った。
自分のこの視点、視線は、父から受け継いだものだ。
そうして彼は、父と母をモデルとした連載小説を書いた。
『花と龍』。
小説は、読者の心をつかみ、大ベストセラーになった。
「いざ胸をはり風に乗り 空の彼方に去(い)なんかな」
火野葦平




【ON AIR LIST】
◆縁は異なもの / ダイナ・ワシントン
◆聖者の行進 / ルイ・アームストロング
◆ブラジル / ジェフ・アンド・マリア・マルダー
◆花と竜 / 村田英雄
★今回の撮影は、「葦平と河伯洞の会」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
火野葦平(ひの・あしへい)。
1937年、葦平が30歳の時、日中戦争が勃発。
召集令状が届きます。
戦地におもむく壮行会の会場。その片隅で書き上げた小説『糞尿譚』を友人に託し、中国、上海にほど近い杭州に旅立った葦平。
戦地に、友人からうれしい便りが舞い込みます。
「貴殿の小説が、芥川賞を受賞」
文藝春秋社、菊池寛(きくち・かん)の命を受けた、小林秀雄が杭州に行き賞状を渡すという、前代未聞の陣中授与式が行われました。
春の陽の光がキラキラ舞う湖のほとり。
葦平は、小林特派員から、うやうやしく賞状を受け取ります。
カメラのフラッシュがバシャバシャとたかれ、マスコミはこの様子を大きく報じました。
無名だった、ごくごくフツウの兵隊は、一躍、時のひと。
この受賞が、彼の運命を大きく変えました。
葦平は、その後、軍部に初めてできた報道部に転属。
戦争の様子を事細かに伝える、いわば、従軍記者の任を受けることになったのです。
兵隊たちの生々しい人間模様や戦争の過酷さを書き綴った従軍記『麦と兵隊』は、たちまち大人気。
『土と兵隊』『花と兵隊』と合わせた兵隊三部作は、300万部を超える大ベストセラーになります。
ただ、この作品で、葦平は「兵隊作家」というレッテルを貼られることになりました。
戦争が終わったあとも、そのレッテルを払拭するのは難しく、一時は、戦犯として、誹謗中傷の渦に巻き込まれます。
そんな葦平が、再起を賭けた記念碑的な作品が、自らの両親をモデルにした、『花と龍』という小説でした。


北九州市立文学館で、令和2年に開催された火野葦平没後60年の記念展。
そのサブタイトルは、「レッテルは かなしからずや」でした。
これは、ひとにレッテルを貼って区分けしてしまう恐ろしさ、哀しさを誰よりも知っていた葦平の言葉です。
いかにして、彼は、己のレッテルと戦ったのでしょうか。
52歳で自ら死を選んだ文壇の寵児、火野葦平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
戦前、戦中、戦後を駆け抜けた小説家、火野葦平は、1907年1月25日、現在の福岡県北九州市若松区に生まれた。
若松区は、洞海湾と響灘に囲まれた若松半島にある。
この地は、かつて、日本一といわれる石炭積出港。
葦平の父は、船への積み込みを主たる仕事とする、荷役労働者の元締め。玉井組の組長だった。
父は、劣悪な条件や環境下で働く荷役夫たちのために、少しでも働きやすい環境を作ろうと、必死に働きかける人情派だった。
そのため、人望も厚く、多くのひとに慕われる一方、体制側におもねる裏切りや反逆も後を絶たなかった。
そんな中、葦平は、小学生の頃から絵や本を愛する、心優しい少年として育つ。
魚釣りに没頭し、近所の子どもと泥だらけで遊ぶところはあったが、基本、ひとりで絵を画くのが好きだった。
将来は画家になりたい、そう思っていた。
葦平にとっての運命の出会いは、中学2年の時。
いとこにすすめられて読んだ小説に、衝撃を受けた。
作者の名は、夏目漱石。
葦平は、漱石の全ての作品を読破し、心に決めた。
「ボクは、小説家になる」
火野葦平は、父が興した玉井組の跡継ぎ。
だが、父は、葦平が早稲田大学英文科に合格すると、港中を走りまわって自慢した。
自分は四国の松山から裸一貫でここへやってきた学のない田舎者。
その息子が天下の早稲田に入った。法外な仕送りを約束した。
しかし葦平は、大学に通うことなく、文学にのめり込む。
仕送りのお金は全て本代や同人誌発行の費用に消えた。
それでも親バカな父は、葦平の自費出版のお金まで用立てた。
葦平は、21歳のとき、突然、福岡歩兵24連隊に入営。
四畳半の中で書く小説に行き詰まりを感じていたのかもしれない。
しかし、入隊後、レーニンを読んでいたことが発覚。
社会主義思想を持つ者として、あえなく除隊に至る。
若松に戻った葦平は、若松港で働く港湾労働者のための組合を結成。
彼の視線は、常に、汗水たらして働く労働者にあった。
最先端の現場で泥にまみれて働くひとを、大切にする。
父が他の組長と違ったところも、そこだった。
自分も、決して、高みから人を眺めるような人生はやめよう、葦平は、そう心に誓った。
目線を低く、優しく、常に、いちばん汗水流しているひとを大切にする、そんな火野葦平の思いは、戦地に行ってもかわらなかった。
従軍記者として、戦争の様子をルポルタージュする。
その筆は、常に第一線で苦しみながらも戦う兵士のために使った。
その文章は感動を呼び、彼の名は広まった。
ただ、葦平の評価があまりにも高かったせいで、戦後、苦しむことになる。
「兵隊作家」。
そのレッテルは、つらかった。
戦争に加担した、という者まで現れ、家族も含め、肩身の狭い思いをする。
でも、自分のスタンスは間違っていない。
常に、弱い者、言葉を発することができない者のために、書いてきた。
レッテルをはがすため、彼は原点に返った。
自分のこの視点、視線は、父から受け継いだものだ。
そうして彼は、父と母をモデルとした連載小説を書いた。
『花と龍』。
小説は、読者の心をつかみ、大ベストセラーになった。
「いざ胸をはり風に乗り 空の彼方に去(い)なんかな」
火野葦平




【ON AIR LIST】
◆縁は異なもの / ダイナ・ワシントン
◆聖者の行進 / ルイ・アームストロング
◆ブラジル / ジェフ・アンド・マリア・マルダー
◆花と竜 / 村田英雄
★今回の撮影は、「葦平と河伯洞の会」様にご協力いただきました。ありがとうございました。