第488話 人生は戦いである
-【生誕100年のレジェンド篇】音楽家 芥川也寸志-
[2025.01.04]
Podcast
今年生誕100年を迎える、昭和を代表する音楽家のレジェンドがいます。
芥川也寸志(あくたがわ・やすし)。
大河ドラマ『赤穂浪士』のテーマ曲、映画音楽では『八甲田山』『八つ墓村』、CM曲、学校の校歌や童謡など、作曲した楽曲は多岐にわたります。
4月19日には、サントリーホールで、生誕100年を記念するコンサートが開かれ、『オルガンとオーケストラのための「響」』が演奏されます。
作曲家、指揮者としても活躍する一方、テレビやラジオなどマスコミによる音楽の啓蒙・普及に取り組み、アマチュア・オーケストラや地方の音楽家の育成にも尽力しました。
テレビのある番組で、子どもから、「どうして、おんがくはあるんですか?」と聞かれた芥川は、こう答えました。
「音楽というのはね、人間が生きていくのに、なくてはならないものなんです」
地方のオーケストラの指導にあたっているとき、ある楽員が、「ボクら、しょせんアマチュアですから」と発言するのを聞き、こんなふうに諭しました。
「ウェブスター大辞典によるとね、『アマチュア』という言葉の第一義に、『Love』とあるんですよ。
愛して愛してやまない、それが、アマチュアです。
素人なんていう意味、ないんですよ」
父・芥川龍之介が亡くなったときは、2歳でした。
父の記憶はありませんが、お葬式の祭壇に、たくさんのトマトが飾ってあったのが不思議だったと、のちに随筆に書いています。
著名な大作家を父に持った誇りと呪縛。
父が亡くなった年齢、36歳を超えるとき、思うように生きられぬ自分に腹が立ち、「ちくしょう!ちくしょう!」と心の中で叫んだと言います。
そして父の遺書のある言葉が、彼の人生を決めたのかもしれません。
遺書には、こうありました。
「人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず」
愛する音楽のために一生を捧げた賢人、芥川也寸志が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
音楽家・芥川也寸志は、芥川龍之介の三男として、1925年7月12日、東京・滝野川区、現在の東京都北区に生まれた。
随筆集『ぷれりゅうど』に、こんな一節がある。
「おそらく、私を音楽好きな子どもに仕立てあげたのは、父の書斎にあった一台の手回し蓄音機と、数枚のレコードだと思う」
最初は、手で回すと音が鳴ることが不思議で面白かった。
そのうち、音楽に耳をすますようになる。
特にストラヴィンスキーのバレエ曲『火の鳥』が好きだった。
何度も何度も聴く。
『火の鳥』の冒頭をレコードでかけて、兄たちと探検ごっこをした。
小学校に入る頃には、自分で詩を書き、それにメロディをつけることで大人をあっといわせた。
たとえば、「イツモ トオル オジイサン 今日ハドウシテコナイノカ」という詩に、即興で曲をつけた。
ただ、気が小さく、音楽の授業では、みんなの前で歌えない。
音楽の点数はよくなかった。
父・龍之介は音痴だったが、母はヴァイオリンやお琴をたしなんだ。
将来、音楽家になりたい…。
密かな夢は、どんどんふくれあがっていった。
芥川也寸志の母は、悩んだ。
音楽が好きな我が子に、キチンとした音楽教育を受けさせてやりたい。
でも、芸術家として生きていく苦悩を、夫の傍らで見てきた。
その苦しみは想像を絶するものだった。
夫・龍之介は、それを「戦い」だと言った。
息子に、そんな茨の道を歩ませるのか。
おもちゃの卓上ピアノで楽しそうに音を奏でる也寸志の姿。
自己流だが、何か光るものを感じる。
母は、結局、愛する道に進ませようと決意する。
龍之介の知人を回り、音楽家になるためにはどうすればいいか、どんな教育を受けさせればいいかを教えてもらう。
也寸志は、そのことを大人になってから知った。
子どもの頃は、自分を放っておいて、お母さんはいったいどこに出かけているのかと思ったという。
母の熱意が実を結び、一流のピアニストの先生に教えてもらうことになった。
世界的に高名な先生に、バイエルから習う。
也寸志は必死に学んだ。
あまりに一生懸命で、肋膜炎で入院。
病院の白い壁に囲まれているとき、ラジオからベートーヴェンの『運命』が流れた。
太平洋戦争勃発のニュースだった…。
芥川也寸志は、18歳の時、東京音楽学校予科作曲部に入学。
しかし、いきなり校長から呼び出しを受ける。
校長は、入学試験の成績順の名簿を見せた。
芥川は最下位。合格、不合格の境にいた。
「お前は、大作家のせがれであろう」
校長は言った。
「それが、ビリだ。恥ずかしいと思いなさい」
不思議なことに、それまで父の偉大さを意識することはなかった。
だが、その時から、「そうか、ボクは大作家の息子なんだ」と思うようになる。
それはプレッシャーではなく、むしろ向上心に結び付く。
人一倍、努力し、ふるまいも正し、父に恥ずかしくない生き方を目指す。
世の中は戦争の渦に巻き込まれ、芥川にも学徒動員の知らせが来た。
ただし、学校の壁に、ある張り紙を見つけた。
「陸軍戸山学校音楽隊 隊員募集!」
戦争のさなかでも、音楽を学べる、触れられる。
試験を受けた。見事、合格。
同じ楽団員の中に、團伊玖磨もいた。
訓練期間の成績は、トップ。隊長から銀時計をもらった。
戦局は悪化し、常に死がそばにあった。
3つ年上の兄はビルマで戦死した。
どんなに厳しい状況でも、音楽の中で生きたい。
音楽には、力がある。その力を広めたい。
父の遺言が胸に迫った。
「人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず」
芥川は、おだやかな風貌やたたずまいとは裏腹に、63年の生涯を、悩み、苦しみ、音楽のために戦い抜いた。
「音楽や歌がなかったら、人間は生きていけない。」
芥川也寸志
【ON AIR LIST】
◆メインタイトル(映画『八つ墓村』より) / 芥川也寸志
◆ことりのうた / 中川順子
◆エンゼルはいつでも / 若草児童合唱団
◆交響三章 Ninnerella:Andante-poco piu mosso-Andante / 芥川也寸志(作曲)、ニュージーランド交響楽団、湯浅卓雄(指揮)
◆交響三章 Finale:Allegro assai / 芥川也寸志(作曲)、ニュージーランド交響楽団、湯浅卓雄(指揮)
【参考文献】
『青春のかたみ 芥川三兄弟』芥川瑠璃子(文藝春秋)
『ぷれりゅうど』芥川也寸志(筑摩書房)
『音楽の基礎』芥川也寸志(岩波新書)
『日本の音楽家を知るシリーズ 芥川也寸志』(株式会社ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)
芥川也寸志(あくたがわ・やすし)。
大河ドラマ『赤穂浪士』のテーマ曲、映画音楽では『八甲田山』『八つ墓村』、CM曲、学校の校歌や童謡など、作曲した楽曲は多岐にわたります。
4月19日には、サントリーホールで、生誕100年を記念するコンサートが開かれ、『オルガンとオーケストラのための「響」』が演奏されます。
作曲家、指揮者としても活躍する一方、テレビやラジオなどマスコミによる音楽の啓蒙・普及に取り組み、アマチュア・オーケストラや地方の音楽家の育成にも尽力しました。
テレビのある番組で、子どもから、「どうして、おんがくはあるんですか?」と聞かれた芥川は、こう答えました。
「音楽というのはね、人間が生きていくのに、なくてはならないものなんです」
地方のオーケストラの指導にあたっているとき、ある楽員が、「ボクら、しょせんアマチュアですから」と発言するのを聞き、こんなふうに諭しました。
「ウェブスター大辞典によるとね、『アマチュア』という言葉の第一義に、『Love』とあるんですよ。
愛して愛してやまない、それが、アマチュアです。
素人なんていう意味、ないんですよ」
父・芥川龍之介が亡くなったときは、2歳でした。
父の記憶はありませんが、お葬式の祭壇に、たくさんのトマトが飾ってあったのが不思議だったと、のちに随筆に書いています。
著名な大作家を父に持った誇りと呪縛。
父が亡くなった年齢、36歳を超えるとき、思うように生きられぬ自分に腹が立ち、「ちくしょう!ちくしょう!」と心の中で叫んだと言います。
そして父の遺書のある言葉が、彼の人生を決めたのかもしれません。
遺書には、こうありました。
「人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず」
愛する音楽のために一生を捧げた賢人、芥川也寸志が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
音楽家・芥川也寸志は、芥川龍之介の三男として、1925年7月12日、東京・滝野川区、現在の東京都北区に生まれた。
随筆集『ぷれりゅうど』に、こんな一節がある。
「おそらく、私を音楽好きな子どもに仕立てあげたのは、父の書斎にあった一台の手回し蓄音機と、数枚のレコードだと思う」
最初は、手で回すと音が鳴ることが不思議で面白かった。
そのうち、音楽に耳をすますようになる。
特にストラヴィンスキーのバレエ曲『火の鳥』が好きだった。
何度も何度も聴く。
『火の鳥』の冒頭をレコードでかけて、兄たちと探検ごっこをした。
小学校に入る頃には、自分で詩を書き、それにメロディをつけることで大人をあっといわせた。
たとえば、「イツモ トオル オジイサン 今日ハドウシテコナイノカ」という詩に、即興で曲をつけた。
ただ、気が小さく、音楽の授業では、みんなの前で歌えない。
音楽の点数はよくなかった。
父・龍之介は音痴だったが、母はヴァイオリンやお琴をたしなんだ。
将来、音楽家になりたい…。
密かな夢は、どんどんふくれあがっていった。
芥川也寸志の母は、悩んだ。
音楽が好きな我が子に、キチンとした音楽教育を受けさせてやりたい。
でも、芸術家として生きていく苦悩を、夫の傍らで見てきた。
その苦しみは想像を絶するものだった。
夫・龍之介は、それを「戦い」だと言った。
息子に、そんな茨の道を歩ませるのか。
おもちゃの卓上ピアノで楽しそうに音を奏でる也寸志の姿。
自己流だが、何か光るものを感じる。
母は、結局、愛する道に進ませようと決意する。
龍之介の知人を回り、音楽家になるためにはどうすればいいか、どんな教育を受けさせればいいかを教えてもらう。
也寸志は、そのことを大人になってから知った。
子どもの頃は、自分を放っておいて、お母さんはいったいどこに出かけているのかと思ったという。
母の熱意が実を結び、一流のピアニストの先生に教えてもらうことになった。
世界的に高名な先生に、バイエルから習う。
也寸志は必死に学んだ。
あまりに一生懸命で、肋膜炎で入院。
病院の白い壁に囲まれているとき、ラジオからベートーヴェンの『運命』が流れた。
太平洋戦争勃発のニュースだった…。
芥川也寸志は、18歳の時、東京音楽学校予科作曲部に入学。
しかし、いきなり校長から呼び出しを受ける。
校長は、入学試験の成績順の名簿を見せた。
芥川は最下位。合格、不合格の境にいた。
「お前は、大作家のせがれであろう」
校長は言った。
「それが、ビリだ。恥ずかしいと思いなさい」
不思議なことに、それまで父の偉大さを意識することはなかった。
だが、その時から、「そうか、ボクは大作家の息子なんだ」と思うようになる。
それはプレッシャーではなく、むしろ向上心に結び付く。
人一倍、努力し、ふるまいも正し、父に恥ずかしくない生き方を目指す。
世の中は戦争の渦に巻き込まれ、芥川にも学徒動員の知らせが来た。
ただし、学校の壁に、ある張り紙を見つけた。
「陸軍戸山学校音楽隊 隊員募集!」
戦争のさなかでも、音楽を学べる、触れられる。
試験を受けた。見事、合格。
同じ楽団員の中に、團伊玖磨もいた。
訓練期間の成績は、トップ。隊長から銀時計をもらった。
戦局は悪化し、常に死がそばにあった。
3つ年上の兄はビルマで戦死した。
どんなに厳しい状況でも、音楽の中で生きたい。
音楽には、力がある。その力を広めたい。
父の遺言が胸に迫った。
「人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず」
芥川は、おだやかな風貌やたたずまいとは裏腹に、63年の生涯を、悩み、苦しみ、音楽のために戦い抜いた。
「音楽や歌がなかったら、人間は生きていけない。」
芥川也寸志
【ON AIR LIST】
◆メインタイトル(映画『八つ墓村』より) / 芥川也寸志
◆ことりのうた / 中川順子
◆エンゼルはいつでも / 若草児童合唱団
◆交響三章 Ninnerella:Andante-poco piu mosso-Andante / 芥川也寸志(作曲)、ニュージーランド交響楽団、湯浅卓雄(指揮)
◆交響三章 Finale:Allegro assai / 芥川也寸志(作曲)、ニュージーランド交響楽団、湯浅卓雄(指揮)
【参考文献】
『青春のかたみ 芥川三兄弟』芥川瑠璃子(文藝春秋)
『ぷれりゅうど』芥川也寸志(筑摩書房)
『音楽の基礎』芥川也寸志(岩波新書)
『日本の音楽家を知るシリーズ 芥川也寸志』(株式会社ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)