第487話 野心が己を引っ張り上げる
-【石川県にまつわるレジェンド篇】絵師 長谷川等伯-
[2024.12.28]
Podcast
能登国七尾、現在の石川県七尾市に生まれた、安土桃山時代の天才絵師がいます。
長谷川等伯(はせがわ・とうはく)。
彼の代表作と言えば、東京国立博物館に所蔵されている水墨画の最高傑作、国宝『松林図屏風』。
六曲一双の真っ白な屏風、右隻、左隻には、それぞれ2つずつのかたまりで、およそ20本の松が描かれています。
寒く凍える冬にも耐え続け、その緑を保つ様が、縁起が良いとされ、絵画のモチーフに好まれた松。
等伯は、墨一色で、松の枝ぶり、幹の強さ、遠近や奥行きを表現しました。
出色なのは、それが、寒い冬の朝の情景だとわかること。
遠い山に雪が積もり、朝もやで松の幹が霞む。
2013年の東京国立博物館がWEBで行ったアンケート「あなたが見たい国宝は?」で、見事1位に輝いたのもうなずける作品です。
日蓮宗に帰依し、仏画を専門に描いていた等伯は、能登半島ではそれなりに有名でしたが、まさか、当時すでに画壇を席巻していた、狩野永徳(かのう・えいとく)と肩を並べる存在になるとは、誰も思わなかったでしょう。
等伯には、有名になりたい、お金を稼ぎたい、という野心がありました。
当時、仏画の世界で、野心は邪念であり、恥ずかしいもの、と思われていましたが、彼は、33歳の早春、約束された安定を捨て、京の都に旅立ったのです。
等伯にとって絵画は、たくさんのひとに見てもらうもの、でした。
せっかく授かった才能も、誰かに見てもらわねば育たない。
彼の背中を常に押したのは、そんな野心だったのです。
千利休や豊臣秀吉に愛された絵師、長谷川等伯が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
室町時代から江戸時代初期に活躍した日本画の巨匠、長谷川等伯は、1539年、能登半島の中央部にある、現在の七尾市に生まれた。
父は、戦国大名・畠山氏の家臣。
武士の子として生まれたが、長男が家督を継ぎ、末っ子の等伯は、11歳のとき、染物屋の養子に出される。
養父には絵の心得があり、早くから等伯の絵の才能に気づいていた。
染物屋の修行ではなく、日蓮宗関連の仏の絵、仏像の修復や彩色、いわゆる絵仏師の修練を命じられる。
養父の思ったとおり、等伯の仏画は素晴らしかった。
能登中の寺から依頼が来るほどになる。
ある日、古い寺のお堂で、若き等伯は、養父に尋ねた。
「父上、仏画には、なにゆえ、落款がないのですか」
落款とは、作成した際に製作者の名前や場所、状況を記した、いわゆるサインのこと。
「絵仏師たるもの、御心は、仏様のもの。己の自我は、消さねばならぬ」
養父の答えに、納得がいかない。
どんないい絵を画いても、そこに自分の名前がないのであれば、誰がやっても同じではないか。
彼の心に芽生えた小さな違和感は、やがて、彼の創作欲まで奪っていく…。
天才絵師、長谷川等伯は、能登半島のみならず、近隣の寺から「先生」と認められる絵仏師になった。
幼くして養子に出され、武士の子としては生きられぬ屈辱を味わい、絵で生きていく他はないと思っていた。
妻もめとり、子もできた。
このまま能登に暮らせば、それなりの安定した生活が見える。
でも、いつも「このままでいいのか」と自分に問うていた。
ある時、画材を買うために京都に行った。
画商の紹介で、聖護院の中を見学させてもらう。
そこに飾ってあった屏風絵の前から、一歩も動けなくなる。
六曲一双の大作。
『二十四孝図屏風』。
画商によれば、狩野永徳、24歳の時の作品だという。
体がふるえた。圧倒され、打ちのめされる。
狩野派を背負いながら、新しきことへの挑戦も怠らない。
等伯の心に、火がついた。
負けたくない。この男に、負けたくない。
そのためには、七尾を出なくてはならない。
今すぐにでも、安定を捨て、京の町に来なくては、一生、後悔する。
等伯はそのとき、すでに30歳を超えていた。
33歳で京に上った長谷川等伯は、厳しい現実を叩きつけられる。
親類縁者もいない。知り合いも少ない。
ここでどうやってのし上がっていくのか。
ただ、我が身の才能を信じるしかない。
画商のひとりは、「狩野派に紹介しましょうか。あそこならいくらでも絵仏師として、下働きの口はありますよ」と言ったが、断った。
心に決めたライバル・狩野永徳。
その門下に入ることはできない。
等伯は、まず人との縁を大切にした。
小さな縁もつながれば、やがて大きなご縁に通じるはず。
わずか1年で、本法寺から日堯上人(にちぎょうしょうにん)の肖像画を依頼される。
本法寺お抱えの絵仏師たちを差し置いての大抜擢。
口利きしてくれたのは、能登で世話になった僧侶だった。
大評判になったこの絵に、等伯は落款を入れた。
「これは、自分の絵だ。全てはここから始まる!」
彼は二度と、自分のサインがない絵は画かなかった。
文字通り、血のにじむような努力をして、修行に励む。
あらゆる画風を試し、自分のものにしては捨てていく。
やがて彼がたどり着いたのは、絢爛豪華でも斬新な構図でもなく、静かな水墨画だった。
のちに狩野永徳は、語った。
「私にとって強敵がいたとすれば、それは、長谷川等伯を置いて、他にはいない」
【ON AIR LIST】
◆日本海 / くるり
◆星くず / 久保田麻琴と夕焼け楽団
◆冬の松林で(バレエ音楽『くるみ割り人形』より) / チャイコフスキー(作曲)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、サイモン・ラトル(指揮)
◆acacia[アカシア] / 松任谷由実
長谷川等伯(はせがわ・とうはく)。
彼の代表作と言えば、東京国立博物館に所蔵されている水墨画の最高傑作、国宝『松林図屏風』。
六曲一双の真っ白な屏風、右隻、左隻には、それぞれ2つずつのかたまりで、およそ20本の松が描かれています。
寒く凍える冬にも耐え続け、その緑を保つ様が、縁起が良いとされ、絵画のモチーフに好まれた松。
等伯は、墨一色で、松の枝ぶり、幹の強さ、遠近や奥行きを表現しました。
出色なのは、それが、寒い冬の朝の情景だとわかること。
遠い山に雪が積もり、朝もやで松の幹が霞む。
2013年の東京国立博物館がWEBで行ったアンケート「あなたが見たい国宝は?」で、見事1位に輝いたのもうなずける作品です。
日蓮宗に帰依し、仏画を専門に描いていた等伯は、能登半島ではそれなりに有名でしたが、まさか、当時すでに画壇を席巻していた、狩野永徳(かのう・えいとく)と肩を並べる存在になるとは、誰も思わなかったでしょう。
等伯には、有名になりたい、お金を稼ぎたい、という野心がありました。
当時、仏画の世界で、野心は邪念であり、恥ずかしいもの、と思われていましたが、彼は、33歳の早春、約束された安定を捨て、京の都に旅立ったのです。
等伯にとって絵画は、たくさんのひとに見てもらうもの、でした。
せっかく授かった才能も、誰かに見てもらわねば育たない。
彼の背中を常に押したのは、そんな野心だったのです。
千利休や豊臣秀吉に愛された絵師、長谷川等伯が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
室町時代から江戸時代初期に活躍した日本画の巨匠、長谷川等伯は、1539年、能登半島の中央部にある、現在の七尾市に生まれた。
父は、戦国大名・畠山氏の家臣。
武士の子として生まれたが、長男が家督を継ぎ、末っ子の等伯は、11歳のとき、染物屋の養子に出される。
養父には絵の心得があり、早くから等伯の絵の才能に気づいていた。
染物屋の修行ではなく、日蓮宗関連の仏の絵、仏像の修復や彩色、いわゆる絵仏師の修練を命じられる。
養父の思ったとおり、等伯の仏画は素晴らしかった。
能登中の寺から依頼が来るほどになる。
ある日、古い寺のお堂で、若き等伯は、養父に尋ねた。
「父上、仏画には、なにゆえ、落款がないのですか」
落款とは、作成した際に製作者の名前や場所、状況を記した、いわゆるサインのこと。
「絵仏師たるもの、御心は、仏様のもの。己の自我は、消さねばならぬ」
養父の答えに、納得がいかない。
どんないい絵を画いても、そこに自分の名前がないのであれば、誰がやっても同じではないか。
彼の心に芽生えた小さな違和感は、やがて、彼の創作欲まで奪っていく…。
天才絵師、長谷川等伯は、能登半島のみならず、近隣の寺から「先生」と認められる絵仏師になった。
幼くして養子に出され、武士の子としては生きられぬ屈辱を味わい、絵で生きていく他はないと思っていた。
妻もめとり、子もできた。
このまま能登に暮らせば、それなりの安定した生活が見える。
でも、いつも「このままでいいのか」と自分に問うていた。
ある時、画材を買うために京都に行った。
画商の紹介で、聖護院の中を見学させてもらう。
そこに飾ってあった屏風絵の前から、一歩も動けなくなる。
六曲一双の大作。
『二十四孝図屏風』。
画商によれば、狩野永徳、24歳の時の作品だという。
体がふるえた。圧倒され、打ちのめされる。
狩野派を背負いながら、新しきことへの挑戦も怠らない。
等伯の心に、火がついた。
負けたくない。この男に、負けたくない。
そのためには、七尾を出なくてはならない。
今すぐにでも、安定を捨て、京の町に来なくては、一生、後悔する。
等伯はそのとき、すでに30歳を超えていた。
33歳で京に上った長谷川等伯は、厳しい現実を叩きつけられる。
親類縁者もいない。知り合いも少ない。
ここでどうやってのし上がっていくのか。
ただ、我が身の才能を信じるしかない。
画商のひとりは、「狩野派に紹介しましょうか。あそこならいくらでも絵仏師として、下働きの口はありますよ」と言ったが、断った。
心に決めたライバル・狩野永徳。
その門下に入ることはできない。
等伯は、まず人との縁を大切にした。
小さな縁もつながれば、やがて大きなご縁に通じるはず。
わずか1年で、本法寺から日堯上人(にちぎょうしょうにん)の肖像画を依頼される。
本法寺お抱えの絵仏師たちを差し置いての大抜擢。
口利きしてくれたのは、能登で世話になった僧侶だった。
大評判になったこの絵に、等伯は落款を入れた。
「これは、自分の絵だ。全てはここから始まる!」
彼は二度と、自分のサインがない絵は画かなかった。
文字通り、血のにじむような努力をして、修行に励む。
あらゆる画風を試し、自分のものにしては捨てていく。
やがて彼がたどり着いたのは、絢爛豪華でも斬新な構図でもなく、静かな水墨画だった。
のちに狩野永徳は、語った。
「私にとって強敵がいたとすれば、それは、長谷川等伯を置いて、他にはいない」
【ON AIR LIST】
◆日本海 / くるり
◆星くず / 久保田麻琴と夕焼け楽団
◆冬の松林で(バレエ音楽『くるみ割り人形』より) / チャイコフスキー(作曲)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、サイモン・ラトル(指揮)
◆acacia[アカシア] / 松任谷由実