EDC 営業日誌(過去のお客様)
2023年6月3日放送
本日のお客様は、板尾創路様。
1963年、大阪府出身。
大阪NSCに4期生として入学され、1986年に、ほんこんさんと後の130Rとなるコンビ、“蔵野・板尾”を結成。そして、人気番組『4時ですよ~だ』や『ダウンタウンのごっつええ感じ』では、ダウンタウンファミリーとして活躍!その後も、大喜利のスペシャリストとして、『虎の門』のコーナー「しりとり竜王戦」で最多優勝、『着信御礼!ケータイ大喜利』では審査委員長を務められました。2000年頃からは俳優としても活躍し、数多くの作品に出演されています。
本日は大喜利のスペシャリスト2人によるドライブです!
 
 
板尾さんは芸歴約40年の大ベテラン!来月には還暦を迎えます!一般企業では、そろそろ定年退職という年齢ですが、板尾さんは日々“まだまだ頑張らないと!”“何か面白いことないかな?”と、今もなお現役を歩み続けています。「引退について考たりしますか?」という川島さんの質問には、「辞めても趣味がない。釣りやキャンプなど、プライベートの趣味がないから、仕事が無いと“どうなるんだろう?”という不安がある。」と、お答えになり、ご家族と過ごすお時間を除くと、特にすることがないのだとか!休みの日には、“なんで今日、靴下履いたんやろ?”とも思ってしまうそうです。笑
板尾さんについて川島さんは、“緊張している姿を見たことがない”という印象。川島さんが学生時代に観ていた、『ダウンタウンのごっつええ感じ』に出演されていた時も、今田さんや東野さんが汗だくで笑いを取りにいってる一方、板尾さんは“ひょいひょい”と冷静に笑いを取っていくスタイル。このことについて板尾さんは、「周りの皆がね、(ダウンタウン・今田東野・ほんこん・木村祐一など)“なんとなくやりよる”のですよ。やりよるって言ったら失礼ですけど、みんなが“ワ〜ッ”とするから、わざわざ自分がいって処理する感じでも無かった。まぁキャラクターですよね。」と、当時のご自身の立ち位置を振り返ってくださいました。
 
 
板尾さんは幼少期、お笑い芸人になれるとは思っていなかったそうです。
大阪出身ということもあり、“お笑い”は身近にありましたが、“到底自分には出来ない・・”と、目指すのもおこがましかったとおっしゃいます。また、映画も好きだったことから俳優を目指そうとも思いましたが、当時の板尾さんにとっては、お笑い芸人になるより不可能だと思っていた、きらびやかな別世界。結局、高校卒業後は就職せず、しばらくは何もしていなかったそうですが、変わらずエンターテイメントの世界への憧れは捨て切れなかったため、ついに、お笑いの門を叩いてみることにします。当時、もうすでにNSCはありましが、まだダウンタウンさんやトミーズさんなど、後のスターとなる1期生が世間に知られる前だったため、板尾さんはNSCの存在を知らず・・・そこで、芸人を目指すために起こした行動は、大好きだった島田紳助さんに弟子入りすること。今では考えられませんが、市役所で紳助さんの自宅の住所を教えてもらい、(板尾さん曰く、すでに紳助さんのご自宅はラジオなどの会話で何となく知れ渡り、地元では有名だったそうです・・。)弟子入りを志願しに行きます。そして、いきなりの訪問だったにもかかわらず、追い返されることなく、家に上げてくださったそうです。その場で「弟子にしてください!」と言うと、紳助さんは「今は1人弟子がいるから取れない。でも、吉本にNSCという養成所があるからそこに通ってみたら?」と提案してくださり、続けて「そこ行きながら、何年かやってまたウチに遊びに来たらいいやん。」と親切に対応してくれました。板尾さんは、「あの時の紳助さんの優しい対応がなかったら、多分この世界に入っていない。門前払いを食らっていたら諦めていたと思う。」と、おっしゃいます。
紳助さんの助言通り、NSCに4期生として入学。1986年には、ほんこんさんと“蔵野・板尾”(現・130R)を結成。ほんこんさんは、その前に今田耕司さんと“ダブルホルモンズ”というコンビを組んでおりましたが、ほどなくして解散。その後も別の方とコンビを組みましたが、相方が芸能界を辞めることになり解散。そして最終的に板尾さんと組むことになりました。板尾さんは「ほんこんさんは、キャラクターが面白く、同い年で、仲も良かった。(前のコンビを)解散したてだったけど、漫才をやりたいという情熱があったので1回やってみようと思った。」と振り返ります。そして、130Rは心斎橋筋2丁目劇場の舞台で活躍することになるのです。
 
 
影響を受けた人物を伺うと、「ダウンタウン。」と即答される板尾さん。初めてお二人を見たのは、高校生の時で、“面白い二人だな、こんな人が吉本にいるんだ・・!”と、関心してしまったことを覚えているそうです。そして、時を経て、板尾さんは『4時ですよーだ』『ダウンタウンのごっつええ感じ』のレギュラーメンバーに選ばれるなど、ダウンタウンファミリーの一員に。そんな板尾さんにダウンタウンさんの凄さを伺うと、松本さんについては、色んな事に挑戦され“常に進化している”というイメージ。一方、浜田さんの凄さは、“今でも変わっていないことの凄さ”とおっしゃします。これは、“変わっていない=進化していない”という意味ではなく、19〜20歳頃から“完成されていた”ということ。当時から、漫才・バラエティの仕切り・トークなど、既にツッコミ芸人としての全能力を備えていたと言います。また、川島さんから「お二人から、アドバイスとかってあったんですか?」という質問には、「ダウンタウンのお2人ってね、一切後輩にアドバイスしないですよ。“こうした方がいい!”“お前の笑いはこうやからこうしろ!”とかって言われることは一切なかった。面白かったら笑ってくれるし、企画やコントなども採用してくれる。テクニックを教えてくれることもないが、ダメ出しなども無かった。」と答えていただきました。
 
 
その後、俳優としても活躍される板尾さん。キャリアにおけるマイ大事件は、カンヌ国際映画祭でレッドカーペットを歩いたこと。
板尾さんは、2009年に公開された是枝裕和監督の『空気人形』という映画に出演し、カンヌ国際映画祭に出席することになりました。しかし、当時の板尾さんは、この映画祭のことをあまり知らなかったそうで・・現地では驚きの連続!世界的な映画祭という事実に加え、レッドカーペットは、イメージしていた2〜3メートル幅の道のような絨毯ではなく、フロア全体に敷き詰められており、“普段はどうやって保管してるんだろう?”“どうやって片付けるんだろう?”と、板尾さんならではの独特な視点で驚いたのだとか!笑 また、周りを見渡すと世界中から大物俳優が出席していて、“俺、こんなところ歩いて良いんかな?”と思いながらレッドカーペットを歩き、貴重な経験になったそうです。
(舞台『聖なる怪物』での板尾さん)
 
 
板尾さんがこれまでの人生で1番印象に残っている言葉は、小学校低学年の時にお父様から言われた「お前の名前は、ホンマは“いつじ”と読むんや!」という衝撃の一言。
板尾さんは、板尾創路(いたお・いつじ)という名前なので、当たり前のように聞こえるかもしれませんが、実は、板尾さんはそれまでご両親から「いちろー」と呼ばれていたのです!笑 ご両親が“いちろー”と呼ぶため、板尾さん自身も、自分の名前は“いちろー”だと思い込んでいました。ある日の突然、お父様から告げられた衝撃の事実に、板尾さんは、「えっ・・、“創路(いつじ)”って読むの・・なんで・・?」と理由を尋ねると、「呼びづらいやろ!」と、まさかの返しが。笑 “いやいや、お前が付けたんやろ!”と、心の中でツッコみながらも、詳しく事情を聞くと、お父様は、『真実一路(うそ偽りなく、ひたすら真心で尽くし通すこと。)』という四字熟語が好きだったそうで、板尾さんのお姉様には“真実”という名前を付けており、その流れで板尾さんには、“一路”と付けたかったそうですが、最終的には“創路”という漢字になったそうです。“創”という漢字も、始まりという意味から“創路(いちろー)”と読むことは不可能ではありませんでしたが、結局、正式な読みは“いつじ”に。
この不思議なエピソードは、板尾さんにとって、これを超えることが他にないほど、忘れられない出来事になっています。
 
 
板尾さんのエウレカは、“自分のことは自分が一番分かっていなくて、他人が一番分かっているということ”。これは、ここ10年ぐらいで気付いたことだそうです。
「バラエティー中心から、役者の仕事が多くなってきたっていうこともあるんでしょうけど、若い時は“自分が自分が!”っていう気持ちが強く、その方が良いと思うんですけど、エンターテイメントの世界はやっぱり人に見られる仕事。色んなスタッフの方が支えてくれていて、“この人にはこれが良いだろう!”“こうしたら、この人はもっと良くなるだろう!”っていう想いみたいなモノが詰まって、自分が表に立たせてもらっている。だからこそ、頂いた仕事や、準備してもらったモノにはちゃんと意味があり、自分が選ばれ、そこにいる訳だから、自分だけでやろうとしないで、周りの力も頼って助けてもらうことで、よりパフォーマンスや表現が良くなると思う。」と、自分自身を客観的に判断してくれる周りの方への感謝と、仕事への向き合い方を教えてくださいました。そして、板尾さんの今後の夢は・・・「うーん、何やろ、、、この質問が一番困る、、、」と悩みながらも、“現状維持で、死ぬまで仕事をしていたい。”とおっしゃっていただきました!これからもずっと、板尾さんの活躍が見られそうですね!
 
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