EDC 営業日誌(過去のお客様)
2022年8月20日放送
本日のお客様は、野宮真貴様。
1960年、北海道出身。1981年、ソロシンガーとしてCDデビューし、翌年、音楽ユニット『ポータブル・ロック』を結成。1990年に3代目ボーカリストとして『ピチカート・ファイヴ』に加入。「スウィート・ソウル・レヴュー」「東京は夜の七時」「ベイビィ・ポータブル・ロック」などのヒット曲で、“渋谷系”と呼ばれた音楽ムーブメントを牽引し、また、音楽のみならずファッション面でも多くの人に影響を与え“渋谷系の女王”に。学生時代からピチカート、そして野宮さんファンである川島さんと、40年の歌手生活を振り返るドライブに出掛けました。
 
 
 
“ピチカート・ファイヴ”が、「人生に色を付けてくれた。」と語る川島さんは、ドライブ早々、熱い想いをぶつけます!渋谷系が流行していた頃、川島さんは思春期の真っ只中。当時から、漫画やゲームにのめり込んでいましたが、一番好きなのはやはり“お笑い”。お笑い芸人のラジオ番組にハガキを送り、番組内で“読まれるか?読まれないか?”と、ドキドキしていていましたが、家にこもっていたその生活は、色でいえば“白黒”。そんな時、友人が、渋谷系の先駆者でもある“フリッパーズ・ギター”のベストアルバム『Singles』を貸してくれたそうです。このアルバムを聞いた川島さんは、“こんな綺麗なメロディーがあるんだぁ〜”と、感銘を受けます。そして、その友人が次に貸してくれたのが、ピチカート・ファイヴのアルバム。1曲目で「スウィート・ソウル・レビュー」を聴いた時には、“スピーカーから春が来た!”と感じ、野宮さんの可愛らしくて綺麗な歌声は、川島さんの思春期に彩りを添えました。それ以降、川島さんは渋谷系の虜になっているのです。川島さんがピチカート・ファイヴの楽曲で、個人的に好きなのは、NHK「みんなのうた」にも使われた楽曲「メッセージ・ソング」。過去に、NHKの番組で“1番好きなみんなのうたは何ですか?”と聞かれた際にも、この曲を挙げています。また、現在2児の父でもある川島さんは、昔とは聴こえ方が変わったそうで、「当時聴くと、“これは恋愛系なのかな?”と、メロディ的に思ったんですけど、(今聴くと)やっぱり子どもに向けていて、子育てと重なる部分があり、毎回泣いちゃうんです。だけど、若い方が聴いても、親を思い出すという意味で、本当に“みんなのうた”だなと思います。」と、環境によって捉え方が異なる名曲に、今でも心を動かされています。これに対し、野宮さんは「あの曲、実は小西さんが自分のお子さんに向けて書いた曲でもあるので、お子さんがいらっしゃるとまた違う風に聞こえるかもしれないですね。私もちょうど子どもが産まれて、まだ小さい頃だったから、歌っていてちょっとリンクする部分がありました。」と、名曲の裏側を教えてくれると同時に、川島さんの“ピチカート・ファイヴ愛”を嬉しそうに聞いていました。
 
 
(デビュー当時の野宮さん)
野宮さんは、1981年に“ムーンライダーズ”の鈴木慶一さんプロデュースの楽曲「ピンクの心」でソロデビュー。その後、ファーストコンサートでバックを務めた、ギター・中原信雄さん、ベース・鈴木智文さんと共に、82年に音楽ユニット“ポータブル・ロック”を結成されます。当時は、バンドを続けながら、CMソングや他のアーティストのコーラスなどもされ、有名なCMソングで言えば、『プチダノン』の「頭ばっかりでも、体ばっかりでも、ダメよね♪」というフレーズは野宮さんが歌われています。また、紙おむつのCMに関しては、ほぼ全社を担当されたそうで、川島さんから「お子さん向けの商品が野宮さんの声に合ったんですかね?」と聞かれると、「そうかもしれない!今気づいた!笑」と、新たな発見をされていました!
(ポータブル・ロック)
1990年、野宮さんは3代目ボーカリストとしてピチカート・ファイヴに加入。リーダーでもある小西康陽さんとの出会いについてお伺いしました。もともと、ポータブル・ロックの鈴木さんと、小西さんは青山学院大学の“BETTER DAYS”(サザンオールスターズのメンバーが在籍していたことでも有名)という音楽サークルの仲間。そのため、野宮さんは、初代ボーカリストの佐々木麻美子が在籍していた頃のピチカート・ファイヴのライブに、鈴木さんとよく観に行っていたそうです。そんな繋がりから、1989年に『女王陛下のピチカート・ファイヴ』というアルバムのレコーディングに、鈴木さんと中原さんがレコーディングに呼ばれた際、野宮さんは“見学したいな!”と思い、2人について行きました。小西さんとは、お互いの存在は知っていましたが直接会うのはその時が初めて。すると、その場のノリに近い感覚で、「1曲、田島君(2代目ボーカリストの田島貴男さん)と一緒に歌ってくれないかな?」と小西さんから打診され、野宮さんは急遽レコーディングに参加することに。その後も、ピチカート・ファイヴのツアーにコーラスとして参加するなど、行動を共にするようになりました。そんな折、田島さんがORIGINAL LOVEの活動に専念するために脱退することになり、小西さんから「メインボーカルをやってくれないか?」と、野宮さんへ3代目ボーカリストのオファーがきました。ポータブル・ロックの活動もあるなかで、最初は戸惑いましたが、「君をスターにしてみせるから。」という小西さんの言葉に胸を打たれた野宮さんは、3代目ボーカリストをしてピチカート・ヴァイヴへ正式加入。一大決心された当時のことを「最初は、コーラスの仕事の1つくらいの気持ちだったんですけど、どんどん歌っていくと素晴らしい楽曲が多いと感じた。また、曲だけでなくて好きな映画など、価値観やセンスも合ったんですよね。だから、やってみたいと思った。」と、振り返ってくださいました。
 
 
野宮さんにとってターニングポイントとなった曲をお聞きしました。それは、ピチカート・ファイヴの代表曲でもある「東京は夜の七時」。1993年にリリースされた作品ですが、今でも海外アーティストにカバーされており、また、2016年の『リオデジャネイロパラリンピック』の閉会式フラッグ・ハンドオーバー・セレモニーでは、次大会『東京パラリンピック』のプレゼンテーション中の楽曲としても使用されました。もともとこの曲は、フジテレビ系で朝に放送されていた子供向けバラエティ番組『ウゴウゴルーガ』の人気を受け、夜7時から放送が決まった『ウゴウゴルーガ2号』のオープニング曲として依頼され制作した楽曲。タイトルは、関西では放送されないと聞いた小西さんがパッと思い付き、「東京は夜の七時」となったそうです!また、歌詞は小西さんが当時の彼女(現在の奥様)に向けて書いた内容。タイトルはすぐに浮かんだものの、なかなか曲が書けず、デートの予定をキャンセルした想いを詞に込めたのだとか!また、この時は、野宮さんも恋愛をされていた時期。実は、『ウゴウゴルーガ』のシュールくんの声を担当された方が今の旦那様。お二人とも現在のパートーナーと愛を育んでいた時に生まれた名曲。ピチカート・ファイヴにとって、そしてお二人の人生にとっても思い出深い曲だったのですね。
また、「ピチカート・ファイヴさんの曲は歳を取らない。いつ聴いても新しい。」と、感じている川島さんは現在、お掃除中によく聴いているそうです!毎週土曜日、奥様と娘さんが英会話教室に行っている時間に、2歳の息子さんと留守番をしながら家の掃除をしている川島さん。その際に、ピチカート・ファイヴの曲を流して、心がスキップするような感覚で掃除を楽しんでいるそうです!「テンションが上がるから、掃除との相性が良いです!笑 息子も一緒に掃除をするので、その時にずっとピチカート聞いているから、非常に良い英才教育になっています!」と報告していました。笑
 
 
野宮さんの思い出のドライブルートは、スペイン!
2000年に、ヨーロッパツアーを行ったピチカート・ファイヴ。南スペイン〜モスクワ〜ドイツを回るツアーで、スペインからモスクワに移動する間に、2週間ほど休みがありました。メンバーの中には、一度東京に帰る人やロンドンに行く人もいたそうですが、野宮さんは、旦那様と息子さんをスペインに呼び、レンタカーでスペインを巡ったそうです!息子さんが小さかったこともあり、荷物なども含め車移動の方が快適で、オレンジの香りのするバレンシアを出発し、地中海沿いのコスタビアンカ、アンダルシア地方の古都グラナダ、そして闘牛で有名なマラガまで、約500kmの道のりを走破!スペインを全て浴びるようなこの旅は、ご家族にとっても忘れられない思い出となっています!
(スペインでのお写真)
 
 
海外でも支持されているピチカート・ファイヴ。最初の海外公演はニューヨークでした。
ニューヨークで、「ニューミュージックセミナー」という音楽イベントが毎年開催されており、1992年に招待を受けました。当初は海外進出を考えていた訳ではなかったため、“ニューヨークに行けるんだったらやろうか。”と、軽い気持ちでイベントに参加されたと言います。そこで、ピチカート・ファイヴは、海外だからといって英語で歌うことはなく、日本語の歌詞は日本語で歌い、日本で行っているそのままのライブステージを披露!海外の方は、音楽に対してシビアな印象がありますが、会場は大盛り上がり!その反響は大きく、ライブ後には海外の様々なレコード会社から契約のオファーがあったそうです。また、ツアーでアメリカ14都市を回られた際も、チケットは全てソールドアウト。SNSが普及していない時代に、口コミだけで拡まった人気は、『ピチカート・ファイヴ』という存在が世界に認められた瞬間でもありました。
「90年代のピチカート・ファイヴは世界で一番クールだった。」とも語られる野宮さんは、「90年代は、東京が一番カッコよく、最先端な時代だった。昔は、アメリカやヨーロッパの音楽・ファッションに憧れ、影響を受けてきたが、当時は、東京から発信していく時代だった。」と振り返りました。ピチカート・ファイヴが、クールジャパンの先駆者として引っ張っていたのは間違いないですね!
(ピチカート・ファイヴ)
 
 
野宮さんは、還暦を迎えた2年前から、ジムに本格的に通い始めたそうです!
理由は、ハイヒールを履いてステージに立ち続けるため。「ファッションが好きだから、衣装を完成させるために私はどうしてもハイヒールを履きたいんです。じゃないとスイッチが入らない。」と語る野宮さん。また、音楽番組などで階段を降りて登場する際、ハイヒールで降りるのは結構怖いそうで・・・。ハイヒールで転ばないように、通称“ハイヒール筋”を鍛え、体幹もキープされています!これには川島さんも、「野宮さんがコケてはいけないですよ!ファンの中には“野宮真貴像”があるので、最後までオシャレでいかないといけない!」と、ファンの方の気持ちを代弁。これに対して野宮さんも「そう。歌とオシャレが私の人生の大事なモノなんでね。」と、“野宮真貴”を貫くことを約束してくださいました。
 
 
ポータブル・ロックは、結成40周年を記念したアルバム「PAST & FUTURE ~My Favorite Portable
Rock」を発売されました!今作は、野宮さんの「そういえば、私たちまだ解散してなかったよね。」の一言から始まりました。ポータブル・ロックの今までの楽曲のなかから選りすぐった12曲と、新曲2曲を含めた計14曲が収録されているアルバムです。野宮さんの約40年前の歌声と今の歌声が味わえる1枚となっています!皆さん、是非チェックしてみてくださいね!
また、ポータブル・ロックは、結成40周年記念ライブを、8月28日に『京都CLUB
METRO』で開催。また、9月8日には『ブルーノート東京』で野宮さんのソロライブも行われます!もちろん、ハイヒールを履いてのパフォーマンス!笑 皆さんもオシャレをして、野宮さんの歌声を堪能してみてはいかがでしょうか!
 
 
野宮さんのエウレカは、“年を取るほど似合うモノがある”ということ。特に、赤い口紅やダイヤモンドは、若い頃よりも自然と似合ってきたと感じています。「ちょっとシワっぽくなった手にダイヤが映えたり、赤い口紅も馴染んできますね。あと顔もパッと明るくなります!」と、お話に。オシャレを大事にしてきた野宮さんならではのエウレカですね!
そして、“歌う楽しさ”を再び発見したともおっしゃいます。40年歌い続けていると、“正確に歌おう”とまず意識してしまいがちですが、ご自身の40周年記念アルバム『New
Beautiful』を制作されている時に、ムーンライダーズの鈴木慶一さんから「音程とか気にしないで楽しく自由に歌ったほうが良い。」と、ボーカルディレクションをしてもらったそうです。この言葉を聞き、“ハッとした!”という野宮さんは、「それを言われてから気が楽になった。どうしても“上手く歌おう”“ピッチを正しく”とか、“リズムをキッチリ取ろう”と考えていたけど、そうじゃないと分かった。」とおっしゃり、“歌を楽しむ”という原点に立ち返ることができたそうです。常に進化を遂げる“渋谷系の女王”
野宮真貴さんにこれからも注目ですね!
 
radikoのタイムフリーで聴く