PASSENGER DIARIES

EDC 営業日誌(過去のお客様)

2022年7月30日放送

Passenger

北斗晶

本日のお客様は、北斗晶様。
1967年、埼玉県生まれ。プロレス界に進むため高校を中退し、1985年、本名の“宇野久子”のリングネームで全日本女子プロレスよりデビュー。翌年には全日本ジュニア王座を獲得されます。88年には鈴木美香さん(みなみ鈴香)と海狼組(マリン・ウルフ)を結成し、リングネームを、『ウルトラマンA』の“北斗星司”と、尊敬する男子レスラー”前田日明”から引用して“北斗晶”に変更。その後は、「デンジャラス・クイーン」の異名で女子プロレスのカリスマレスラーへと駆け上がります。1995年に、プロレスラーの佐々木健介さんと結婚され、2002年04月07日、横浜文化体育館で現役引退。引退後は、健介さんのマネージャーとしてセコンドにつきご活躍。現在は、多数のテレビ番組やCMに出演されるなど、幅広い活躍をみせています!

 

 

 

〜プロレスラーへ〜

バラエティ番組でも度々共演しているお二人。プロレス好きの川島さんは“デンジャラス・クイーン北斗晶”の活躍を知っているからこそ、「川島く〜ん!」と、気さくに声を掛けてくださることが、今でも信じられないそうです!
北斗さんがプロレスに出会ったのは幼少期。曽祖母様がプロレス好きで、よくテレビで観戦されていたそうです。その流れでお姉様もプロレス好きになり、女子プロレス人気の火付け役となったジャッキー佐藤選手とマキ上田選手のタッグチーム“ビューティ・ペア”のファンに。また、高校入学後、初めて出来た友達も大のプロレスファン。休みの日に代官山に買い物行った際、流れで連れて行かれたのは新日本プロレスの道場。友達は練習終わりに出てくる選手からサインを貰う作戦だったそうです。そして、しばらく道場の外で待っていると本当に選手が出てきました!すると、北斗さんはその選手から「良い身体してるね。プロレスラーになったらいいんじゃない?」と、声を掛けられます。この言葉を聞いた友達は大興奮。当時、ソフトボールをされており、他の女子高生と比べると体格が良かった北斗さんに「プロレスラーになったらいいじゃん!」と帰り道にずっと勧めてきました。代官山での買い物から新日本道場に行くという、少し変わった1日を過ごされた北斗さんに、プロレスの神様からもお声が掛かります。家に帰ると、テレビでたまたま全日本女子プロレスが流れていて、内容は今年デビューした新人の試合ダイジェスト!この映像を観た北斗さんは、“これ絶対、私の方が強いな!”と、何故か思ったそうで・・・(笑) 運命に導かれるように全日本女子プロレス入門テストを受ける決意をされたのでした。
北斗さんが入門テスト受けたのは、長与千種選手とライオネス飛鳥選手のタッグチーム“クラッシュギャルズ”が大流行していた時期。オーディションには、女子プロレス史上最高の3万5千人の応募がありました。第1次選考の合格者700人に選ばれた北斗さんは、最終選考会場のフジテレビにご両親と向かうことに。同世代の女子が700人もいる会場の雰囲気に圧倒されかけた北斗さんですが、持ち前の身体能力の高さで最終合格者10人の練習生に選ばれます。当初は、高校を中退してプロレスの道に進むことに反対だったご両親でしたが、3万5千人の中から10人に選ばれ、眩しいほどのフラッシュの中にいる娘を見て、“なるべくしてなるんだなぁ。”と、応援することを決めたそうです。

 

 


(幼少期の北斗さん)

〜入門後〜

北斗さんは、1985年に全日本女子プロレスでデビュー。全盛期はヒールレスラーとして人気を博しましたが、実はデビュー当初はベビーフェイス(正規軍)レスラー!リングネームは本名の宇野久子でした。入門後、会社から赤コーナー(正規軍)か青コーナー(ヒールレスラー)、どちらに進みたいか新人は希望を聞かれるそうです。北斗さんはヒール側に行きたくて「青コーナーです。」と希望を出したそうですが、「お前はタレ目だから赤コーナー!」と、即答されます。笑 結局、希望は通らず、正規軍の先輩レスラーの付き人を務めることに。新人時代は雑務も多く、年間300試合ほどある巡業の中で先輩レスラーのコスチュームや練習着を洗濯するのも仕事の1つ。現在のように乾燥機が無いため、洗い終えた洗濯物をバスタオルで巻き、足で踏みながらある程度乾かした後、ボイラー室に干すなど、寝る間も惜しんで先輩のサポートを行いました。
こうした厳しい下積みを経験しながら、北斗さんはデビュー翌年に全日本ジュニアチャンピオンを獲得。1987年には堀田祐美子選手とのタッグでWWWA世界タッグチャンピオンになるなど、スターへの階段を駆け上がっていきます。しかし、WWWA世界タッグチャンピオンの初防衛戦で首を骨折。医師が引退を勧めるほどの大怪我を負ってしまいます。ですが、不屈の闘志で翌年には復帰を果たします!復帰することに関して恐怖心は無かったのかお聞きすると、「戻りたいと思ったのは、最後の記憶がリングの上だったから。だから“怖い”といった恐怖心は全く無かった。あそこで時が止まっているから、そこからやり直したかった。」と当時の心境をお話しくださいました。こうして、レスラーとしての“闘う本能”を失わなかった北斗さんは、復帰後、リングネームを“宇野久子”から“北斗晶”に変更され、デンジャラス・クイーンの道へ進むことになるのです。

 

 

〜名勝負〜

数々の名勝負を繰り広げてきた北斗さんの試合について振り返りました。

神取忍戦
まずは、1993年4月2日、初の女子プロレスオールスター興行『ALL STAR DREAMSLAM 〜全女イズ夢☆爆発!〜』のセミファイナル。“ジャラス・クイーン決定戦ー横浜極限ー”と銘打たれた、神取忍戦(LLPW)。女子プロレス史上に残る壮絶な流血喧嘩マッチと言われるこの試合は、死闘の末、北斗さんが神取さんを破り、“デンジャラスクイーン”の称号を不動のものにしました。
「レスラーとして、“コイツはヤバイ。”と思うのは、やっぱり神取忍。」と振り返る北斗さん。当時は、お互いのプロレスに対するイデオロギーの違いから、リング外でも喧嘩しており、“大嫌い”という感情が試合で爆発しました。この試合で、机の上でツームストンパイルドライバーを受けた北斗さんは、頭が割れ大流血。試合後、コスチュームのまま病院へ直行し、13針を縫う施術を受けます。そして、応急処置を受けた後、ご自宅に帰り、初めて自分の姿を鏡で見た北斗さんは、鏡の前で号泣したと言います。鏡に映っているのは、顔が腫れ、コスチュームの白い部分が血で茶色に汚れている姿。16歳の時から夢見て、ご自身の力で叶えたトップレスラーの地位。3禁(交際・酒・タバコ)というルールも守り、追い続けた世界の先に待っていたのが、目の前の鏡に写っている姿。“なんで私はこんな姿になってしまったんだろう。”という思いが溢れ、初めて“もうプロレスを辞めよう。”と思ったそうです。「あの時、レスラー生活の中で初めて“女”に戻った。」とおっしゃる北斗さん。“デンジャラスクイーン”の称号は、レスラー“北斗晶”と、女性としての“宇野久子”が初めて重なった、涙の勲章だったのです。

紅夜叉戦
神取さんとの激闘後も、レスラーを続けることを決断した北斗さん。
1993年6月11日後楽園ホール大会では、女子プロレス史上に残る、“秒殺劇”が生まれます。この試合は、もともと北斗晶VSハーレー斎藤(LLPW)が決定していましたが、ハーレー斉藤選手が怪我で欠場することに。試合当日まで北斗さんの対戦相手は「X」として名前が伏せられていました。北斗さんは、LLPWの社長だった風間ルミさんが対戦相手だと予想していましたが、現れたのは、赤い特攻服の暴走族レディーススタイルで人気を集めていた紅夜叉選手でした。この試合は、2分17秒で決着がつきましたが、試合内容も圧巻でした。
まだ経験も浅く、売り出し中の新人レスラーだった紅夜叉選手に対し、北斗さんは全ての攻撃を受け切ります。木刀攻撃、喉輪落とし、目潰しなどなど様々な攻撃を避けることなく受けとめ、平然と立ち上がる北斗さん。最後は、必殺技“ノーザンライトボム”一発で勝利を手にしました。“相手の技を全て受け切ったうえで勝つ”というプロレスの“受けの美学”を体現された北斗さんは、当時のことを「正直、技を何も出すつもりは無かった。ただ、(敵対している団体に、新人が1人で)乗り込んで来た敬意に、ノーザンライトボムを送りました。」と振り返ります。もっと簡単な技で勝てたことは間違い無いですが、紅夜叉選手の気持ちに、敵ながら敬意を感じた北斗さんは、自身最強の技でマットに沈めたのでした。そして試合後には、「おい!バリバリ姉ちゃん。お前よく1人で来たな。挨拶が遅れたけど・・私が北斗晶だ!」と、マイクパフォーマンス!このセリフにプロレス好きの川島さんも痺れたそうです!お互いが“プロレスラー”として成立させたこの試合は、今も語り継がれる名勝負になりました。ちなみに紅夜叉選手は、現在、静岡県で旦那様と唐揚げ屋さんを経営されているそうですよ!

 

 

〜佐々木健介〜

北斗さんは、1995年にプロレスラーの佐々木健介さんとご結婚。現役引退後は健介さんのマネージャーとしての姿が話題になります。現在は、ご存知の通り、夫婦揃ってテレビやCMなどで活躍中。そんなお二人の馴れ初めをお聞きしました。 お二人の出会いは、アントニオ猪木さん主導で行われた『平和のための平壌国際体育・文化祝典』という、北朝鮮で開催されたプロレス興行。猪木さんとの対談企画中、今大会への参加をオファーされた北斗さんは、ブル中野選手・豊田真奈美選手・吉田万里子選手を含めた4人で参加することに。そして、北朝鮮へのチャーター機に向かうためのバス移動の中で、初めて健介さんと出会います。
バスの席は横4列で、窓側にブル中野選手、通路側に北斗さん。そして、通路を挟んで座っていたのが、河内音頭の継承者・河内家菊水丸の一座として興行に同行していたハイヒール・リンゴさん、その横が健介さんでした。リンゴさんは、女性芸能人の中でも屈指のプロレス好きで、当時から健介さんと交流があったそうです。車内では、当時発売されたばかりの携帯電話を健介さんが持っており、その携帯を少し周りに自慢したかったのか、(笑) 周りの選手に回し、知り合いと会話をさせていました。その流れで北斗さんにも電話が回り、そこで初めてコンタクトを取ったそうです。しかし、実際に携帯を渡したのは間に座っていたリンゴさん。笑 つまり、北斗さんと健介さんのファーストコンタクトは、リンゴさんを挟んで!リンゴさんが恋のキューピットだったかもしれませんね!

そして、北朝鮮へ到着。試合に向かうエレベーターの中で、北斗さんは、破壊王・橋本真也選手に遭遇。北斗さんはその日の夜、橋本選手と対談を行う予定があったため、「おはようございます、北斗晶です。本日の夜は対談宜しくお願い致します。」と挨拶し、その場を離れたそうです。そして夜、対談部屋に向かい、橋本さんに会った北斗さんは “あれ?エレベーターで会った人となんか違うな・・・。今朝、会った人より太ってるな・・・。” と違和感を覚えます。実は北斗さん、エレベーターで別の人に挨拶していたのです!笑 当時、“男子のプロレスより女子プロレスの方が凄い!”と、誇りを持っていた北斗さんは、雑誌でも男子のページは読まないようにしていたそうで、男子レスラーの顔と名前が一致していませんでした。そして、後で分かったそうですが、そのエレベーターで挨拶したのは、健介さんだったそうです!笑 健介さんも当時、“今日の夜、対談の仕事入ってたっけ・・・?”と、困惑されていたのだとか!
そして、遂に結婚のキッカケとなる出来事が!プロレス興行が終了した後、打ち上げに参加した北斗さん。取材があったため、遅れて参加し、案内された席が健介さんの横でした。打ち上げは、外での食事が出来ないということで、選手にはカップラーメンが配られ、北斗さんは食が細かったため断ったそうですが、何故か横から健介さんが“スッ”とカップヌードルを渡してきます。まるでバーカウンターが舞台のドラマのワンシーンのようなシチュエーション!紳士的に「どうぞ。」と言われるのかと思いきや、健介さんは「このカップラーメンもう食べられるかな?」と、まさかの食べ頃の確認!笑 唖然とした北斗さんは、何も言わずに“パッ”と蓋を開けて中を確認してみると、見るからに麺がガチガチ。笑 “見りゃ分かるだろ!”と内心思いつつ、「まだじゃないんですか。」と、目も合わせず突き返したそうです。そのままお二人は会話すること無く、打ち上げは終了・・・第一印象は“つまらない人だった”と振り返る北斗さんですが、解散のタイミングで選手同士、電話番号を交換することになり、健介さんに実家の電話番号を教えます。
すると、帰国翌日、実家に1本の電話が。
「北朝鮮でお世話になりました。佐々木健介です・・・・・(沈黙)、あの〜、“北斗晶”って本名ですか?」と、突然の電話で謎の質問!さすがのデンジャラス・クイーンも呆気に取られたそうで、“そんな訳ないだろ・・・コイツ馬鹿なんじゃないの、、”と、心の中でツッコミながら「いや、違います。」と冷たく返答。
しかし、健介さんの質問はその後も続き・・・「歳はいくつですか?」「俺はいくつだと思う?」「プロレスは何年に入門されたんですか?」と、事情聴取のような独特なアプローチをしてきたそうです。笑 このようなやり取りは、次の日も続き「ドラえもんの秘密道具で何があったら嬉しい?」など質問攻めにあった北斗さん。笑 少年のような純粋な質問を続ける健介さんと、真面目に返答する北斗さん。そんなやりとりが何日も続いたそうで・・・ある日、「北朝鮮で俺の横に座ったでしょ?あの時に俺の嫁さんだと思ったんだ。」と佐々木健介流のプロポーズを受けます!“お付き合いされている方はいますか?”などの事前質問は全く無かったそうで、“順序ってモノがあるだろ!”とツッコミたくなりましたが、北斗さんはあることに気付きます。それは、最初は面倒だと思っていた電話を、いつの間にか“待っている自分”がいたこと。何日も電話をしているうちに、“この人は真面目だけど、不器用なんだろうな。”と、健介さんの優しい性格を感じ取っていた北斗さん。そして、自分の理想の相手の条件を思い浮かべると、健介さんほどピッタリな方はいなかったそうで、結婚を決意。こうして最強夫婦が誕生し、私生活のタッグパートナーとして歩みを進めることになったのです。決め手となった北斗さんの理想のタイプはご存知の通り、“強くて、優しくて、言うことをよく聞く人”。「健介〜」という幸せな声が、聞こえる気がしますね。

 

 

〜バラエティでの活躍〜

北斗さんがバラエティ番組で活躍を始めたのは、健介さんのマネージャーになったのがキッカケ。2002年、健介さんは新日本プロレスを退団。その後、WJプロレスに所属しますが、WJプロレスはすぐに倒産してしまいます。そのため、健介さんはフリーのプロレスラーになり、試合のブッキングなどをご自身で行う必要がありました。そんな時、「健介、大丈夫か?」と電話をくださったのが、WJプロレスにも参戦していた“ミスター・プロレス”天龍源一郎さんでした。天龍さんは、電話で「ブッキングなどを含めて、プロレスは1人では出来ない。お金もかからないし、一番理解してくれてる母ちゃん(奥さん)をマネージャーにしたらどうだ?」と、アドバイスを受けたそうです。健介さんは北斗さんに相談。その後、北斗さんも天龍さんに詳しい話を聞くことに。独特な声質のため、あまり聞き取れなかったそうですが、「母ちゃんがやれば良いよ!」という言葉だけは聞こえたそうです。笑 こうして、北斗さんは健介さんのマネージャーに。
しかし、当時はまだお子さんも小さく、苦労が多かったと言います。例えば、マネージャーとしてある団体のブッキング担当の方に挨拶をした際、「あなたに交渉するんですか・・。」と、明らかに嫌な顔をされたそうです。当時のプロレス業界の方の中には、“プロレス=男のスポーツ”という感覚を持っている人もいて、女子プロレスラーの北斗さんに対して良い印象を持っていなかったそうです。北斗さんは、“この野郎っ・・!”と内心思いましたが、旦那様のため「宜しくお願いします。」と、頭を下げたと言います。実際にその方から試合のオファーを頂きましたが、北斗さんを通さず健介さんに直接連絡がいったそうです。北斗さんは無視してのオファーではありましたが、有難い話なので悔しい思いを抱えながら引き受けること。しかし、北斗さんは心の中で“佐々木健介がビッグな存在になった時に、コイツからオファーが来ても断ってやる!”と、決心されたと言います。すると、数年後その方から、東京ドームでのタイトルマッチのオファーが!プロレス興行で東京ドームを使用することは、全団体を含め、年に数回のビッグイベント。給料も桁が違うほどの高待遇だったそうですが、北斗さんは健介さんに「ベルトよりも、人としての道理が違う。」と、このオファーを断ることを宣言。健介さんも快諾し、同じ日に行われた別団体の地方大会に参加しました。もちろんギャラは、桁が1つ違うほどの安さではありましたが、北斗さんはご自身の信念を貫いたのでした。

また、試合ではセコンドに付いていた北斗さん。セコンドの役目は重要で、水の準備、靴紐が解けた時の手助け、選手の状態確認、またタオルをリングに投げることで試合を止める権利も持っています。しかし、お客さんや選手の中には、“試合に奥さんを連れてきた人”として、健介さんを罵倒する声もありました。そんな心無い声が聞こえる状況でも北斗さんは、“罵倒している人たちは、私たちや子供達をお腹いっぱいにはしてくれない。”と心の中で唱え続け、相手にしないようにしていました。しかし、北斗さんの堪忍袋の緒が切れることも・・・!ある試合で、セコンドに付いていた北斗さんに、覆面レスラーが攻撃を仕掛けてきたそうです。その際、北斗さんのトレードマークでもあった竹刀を真っ二つに折り、投げ捨てたと言います。頭にきた北斗さんは、プロレスラーの血が騒いだのか、“絶対にマスクを脱がしてやる!”と、殴りかかりに行きましたが、相手は男性で力も強くマスク剥がしには失敗。しかし、北斗さんは、せめてものやり返しとして、プロフィールでは正体不明のマスクマンの本名を、大声で叫んだのだとか!笑 このような姿を東スポの記者は、『健介の嫁は、鬼の形相で旦那を守っている』という記事を書きました。それが北斗さんの新たな異名“鬼嫁”というワードに変わっていきます。夫婦でリングに上がることでブーイングを受けるお二人を、ずっと記事にし続けた東スポ。すると、お二人の心情や知名度は徐々に上がり、次第に、お客さんの反応にも変化が生まれ始めます!今までは罵声しかなかった入場に、声援の声が聞こえ始めたのです。そして、お二人の頑張りが、テレビ局のスタッフの耳にも届きます。
オファーをくれたのは、当時やっていたバラエティ番組『ココリコミラクルタイプ』。
内容は、健介さんがトークをしている時に、北斗さんが壁を突き破って現れるドッキリ企画でした。すると、この企画は高視聴率を記録。次の日からテレビ出演のオファーが殺到したそうで、お腹いっぱいにご飯を食べられるようになりました。北斗さんは、ドン底状態から東スポの記事が人生を変えてくれたことに対し、「東スポは命の恩人です。今はペンの暴力、言葉の暴力というのも存在し、それは良くないことですが、ペンが1つの家族を救うこともあるんだということを学んだ。」と、振り返ります。
そして、最後に今後の夢を伺うと、北斗さんらしい言葉が返ってきました。
「平穏無事に暮らせれば良い。“普通で良い”とよく言うが、普通ほど難しいモノはない。温かい炊き立てのご飯をお腹いっぱい食べるということが、どれだけ難しいことかっていうのを経験してきた。だからこそ、“一番簡単そうで一番難しい”平穏無事な日々を過ごしたい。」
様々な逆境を跳ね返してきた北斗さんだからこそ言える、深いお言葉ですね。

 

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PLAYLIST
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