EDC 営業日誌(過去のお客様)
2022年3月26日放送
本日のお客様は、マンボウやしろ様。
1976年、千葉県出身。1997年、林克治さんとお笑いコンビ『カリカ』を結成。“芸人が認めるコント師”として、一目置かれる存在になりますが、2011年9月、相方の芸人引退に伴いコンビを解散。芸名を本名の家城啓之からマンボウやしろに改め、ピン芸人に。
2016年、芸人を引退することを発表され、以降、脚本家として活動。また、ラジオパーソナリティとしてもお馴染みのやしろさん。2005年から2012年3月まで、全国ネットのラジオ番組『SCHOOL
OF LOCK!』のパーソナリティを担当。“やしろ教頭”の愛称で、10代を中心としたリスナーに寄り添い、人気を集めました。2013年4月からはTOKYO
FMの『Skyrocket Company』
という、ラジオの中の会社をテーマにした番組で“本部長”に就任され、現在も平日夕方3時間の生放送を担当。先月には、初の小説『あの頃な』を発売され、執筆業でも幅を広げていらっしゃいます。
 
 
お二人が初めて共演したのは2005年、やしろさんが主催する劇団『劇団乙女少年団(げきだんおとめめん)』の舞台でした。当時の“麒麟”はまだ若手で、川島さんからすれば、東京の芸人さんとあまり交流がない無い状態で、急に呼んで頂いた感覚だったと言います。やしろさんは、東京吉本から大阪へ異動した仲の良い社員さんから、「麒麟は絶対売れるから出した方がいい」と推薦を受けていたそうです。そんな流れで麒麟の出演は決まり、初対面でいきなり芝居の稽古が始まりました。また、やしろさんの舞台は独特で、川島さんが慣れ親しんでいた大阪の『吉本新喜劇』とは全く違った世界観。やしろさん自身も「当時、大阪でお笑いをやっている人からしたら、“異質中の異質”だったと思う。」とおっしゃるほど、『劇団乙女少年団』の舞台はアーティスティックでミュージカル要素やメッセージ性のあるショーでした。川島さんは稽古期間を含め約2ヶ月、毎回帰りの新幹線で、“あの世界観はなんなんだ?”と首を傾げながら大阪へ戻っていたのだとか。笑 やしろさんも当時を振り返り「なんで、コンビ(カリカ)で売れることに力を注がず、3年くらい舞台をやり続けていたんだろう?」と疑問を感じるそうです・・・。しかし、カリカとしても独創的なコントに定評があり、“芸人が認めるコント師”。解散後の今では伝説として語り継がれています。
 
 
(カリカ時代のマンボウやしろさん)
やしろさんが芸人を目指したキッカケは、“楽しそう。ラクそう。モテそう。お金が儲かりそう。”というシンプルな理由!笑 テレビが好きで売れている芸人さん達を観て、お笑いの世界に憧れを抱きました。ネタ番組を観るために、ご両親にお願いしてBSテレビに加入してもらった過去もあるそうです。
高校時代には、ご自身でコントを作り始め、ますますお笑いに夢中に。また、当時、『めちゃ2モテたいッ!』(『めちゃ2イケてるッ!』の前身番組)のスタッフに入っていた、放送作家の“鈴木おさむ”さんが同郷で、お姉様の友人だったこともあり、学校の長期休みには、極楽とんぼ、よゐこ、ココリコなどの単独ライブに連れて行ってもらいました。
芸人を本格的に目指す意思が固まったやしろさんは、高校3年生の時に初めてご両親に相談。しかし、ご両親はかねてから“歯医者さん”になって欲しいと思っており、歯学部のある大学への進学を薦めます。ご実家はお寿司屋さん。飲食店は大変だからと、やしろさんを想っての薦めでした。
また、大学に入れば“お笑いを始めても良い”という条件も付けてくれたそうです。“大学に入ればお笑いが出来る”という希望はありましたが、ある不安がやしろさんの脳裏をよぎります。それは、合格して歯学部に入学すると1000万円ほどお金がかかるということ。“合格して、親が出してくれる1000万円を捨ててまで、お笑いが出来るかな・・・。”
そんな複雑な思いを抱えたまま迎えた受験当日。頭の中でどうしても“お金とお笑い”の整理が出来なくなり、午前中のテストのみを受けて、なんと試験会場から逃亡!笑 “合格して親のお金をムダにするくらいなら、逃げて失格になった方が良い”という結論に至ったそうです・・・。実はこの話、今までご両親にも逃げたことは伝えていないそうで、“なぜここでカミングアウトしたか分からない・・・”と、やしろさん自身も話した後に戸惑っていました。笑
話は戻り、試験を途中で逃げて不合格になったやしろさんは、(何も知らない)ご両親から予備校を薦められ、浪人生活が始まります。“大学に入ればお笑いが出来る!”と意気込みながら勉強の合間にネタを書き続けました。しかし、次第に“芸人になるのになぜ勉強をしないといけないのか?”と疑問を抱き始め、勉強を続ける意味を見失ってしまいます。そんなある日の朝、体調に異変を感じてご自身の頭を触ると、触ったところの髪の毛が全て抜け落ちたそうです。日々の悩みが大きなストレスとなり、円形脱毛症に。それでも予備校に通わなくてはならず、ニット帽を被って授業を受けます。しかし、事情を知らない先生から、授業中はニット帽を脱ぐように指示され、しかたなく帽子をとると、後ろの席に座っていた予備校生カップルがコソコソと話し始めます・・・。先生は状況を察し、「受験だと、色んな事情があるから、ニット帽をとれない奴は取らなくてもいいぞ。」と、やしろさんが脱いだ後にルールを変更。そこで再びやしろさんが帽子を被ると、後ろの女の子が笑い出したそうです。悔しさと恥ずかしさが溢れたやしろさんは、そこで再び逃亡!「18〜19の頃は、よく走ってた。」と、今では笑い話になっていますが、当時のやしろさんにとってはとても辛い出来事。予備校も行きづらくなり、そこから2ヶ月で頭皮の4分の1の毛が抜けてしまったそうです。その後、スキンヘッドにして勉強を続け、なんとか滑り止めの大学に合格。そして、吉本興業に履歴書を提出し、念願のお笑いの道に進むことになるのです。
 
 
(『SCHOOL OF
LOCK!』時代のやしろさん)
やしろさんは、現在TOKYO FMで放送中の『Skyrocket Company』の本部長、それ以前は10代向けのラジオ番組『SCHOOL OF
LOCK!』の教頭先生を担当され、長年、ラジオパーソナリティとしてご活躍。
学生時代はテレビっ子で全くラジオを聞いていなかったそうですが、『SCHOOL OF
LOCK!』へ出演が決まったのは一本の電話がきっかけ。知り合いの放送作家さんから夜中に突然連絡があり、「何してる?隣に東京FMの偉い人がいるから電話代わるわ〜。」と、言われたそうです。いきなりのことに戸惑いますが、「もしもし、初めまして〜」とやしろさんが喋ると、寝起きの影響か、普段より低い声が出たそうで「渋い声してるね。」と褒められ、話は良い方向に進みます。笑 また、好きなアーティストを聞かれ、好きでライブも行ったことのある松山千春さんと槇原敬之さんの名前を挙げると、「はっは〜、面白いね。本当は誰?」と、聞き直されます!
“何この大喜利!?ボケても無いのに・・・”と、内心思いつつも、当時ハマっていたSINGER
SONGER(Coccoとくるりのメンバーを中心に結成されたバンド)と答えると、「あ、OK〜。ちょっとオーディション来てもらいます。」と言われ、後日プロデューサーと面接。そして、是非番組を担当して欲しいと言われます。番組内容を聞くと、曜日替わりのコーナーレギュラーに栗山千明さん、榮倉奈々さんなどの人気女優もいれば、RIP
SLYME、BUMP OF CHICKEN、ASIAN KUNG-FU
GENERATIONといった人気アーティストが勢揃い。この番組のメイン・パーソナリティの席が用意されていて、“こんな美味しい話はない!”と思いましたが、番組は月〜木で22時からの生放送。お笑い芸人として、テレビ収録や劇場の仕事が出来なくなるリスクもあり、お断りすることを考えていたそうです。
そんな時、当時お付き合いしていた彼女と、同期のカラテカ矢部太郎さんと3人で食事にいき、ラジオのことを相談してみると、その2人は声を揃えて「ラジオは絶対にやったほうが良い!」と勧めます。実は、2人は伊集院光さんの大ファン!ラジオがキッカケで好きになったと言います。さらに、ラジオではテレビでは見せない部分を知ることができ、テレビに出演している時も、“自分たちはラジオでの一面も知っている”という共有感が生まれることを説明。そして、「テレビで好きになるのと、ラジオで好きになるのは深さが違う。死ぬまで伊集院さんのことが好きだと思う。」と、ラジオの魅力を熱弁。ラジオを全く聞いてこなかったやしろさんにとって、その意見は新鮮で、『SCHOOL
OF
LOCK!』を引き受けることにしました。この話を聞いた川島さんも、ラジオリスナーだった学生時代を振り返り、「ラジオはテレビの姿とは違う。弱音も聞くことが出来る。」と共感していました。
こうして始まった、『SCHOOL OF
LOCK!』。この番組は、全国の10代に向けた番組であり、豪華アーティストや女優陣が出るコーナーもありますが、メインは10代リスナーの声を聞くこと。“いじめ”や”家庭環境の問題”など、センシティブな悩みも届いていました。同じくパーソナリティの俳優・山崎樹範さんやスタッフと共に、リアルな問題をどう扱うかしっかり話し合い、“真剣に向き合うこと”に決めました。
しかし、山崎さんもやしろさんも本業は、俳優と芸人。10代の悩みを受け止めることは経験のないことで、最初は不安があったそうです。やしろさんは当時を振り返り、「例えば、“嘘をついちゃダメだよ〜”とか“好きな人には駆け引きせずに好きと伝えよう”といったアドバイスを10代リスナーにするには、自分自身が私生活でそういった行動を取らないと言えない。だからラジオに合わせた生活に変わっていった。生放送2時間以外の、22時間の生活に責任を持ち始めた。」と、やしろさんの生き方にもラジオが影響を与えたことを教えてくださいました。
そして、『SCHOOL OF LOCK!』の教頭を退任した後は、『Skyrocket
Company』のパーソナリティ(本部長)に就任。この春で10年目を迎えます。
ラジオを続ける上で大事にしていることを伺うと、とにかく“バランス”を意識されているとのこと。やしろさんは、夕方にたまたまラジオを聞いている人のことも考え、声のトーン・ふざける時間・真面目な事を話す量・オンエア曲・メールを読む世代や男女比など番組の全てにおいて、バランスに気を配りながら、常にアップデートしていないと10年も続けられないと考えています。
川島さんは、やしろさんのバランス論に頷きつつ、以前、スカロケを聞いた時に感じたことを伝えました。2020年、藤井隆さんがプロデュースしたアルバム『SLENDERIE
ideal』で、「where are you」
という曲を歌った川島さんは、プロモーション期間にいろんな番組で自分の曲がかかる中、スカロケだけが、アルバムの1曲目に収録されている冨田謙さん作曲の「ideal」から流してくれたことに驚きます。本来は、「where
are you」のみのオンエア予定でしたが、「アルバムなんだから1曲目のidealの流れから、2曲目のwhere are
youを聞いた方が良い。」と生放送中にやしろさんの提案で、急遽予定を変更し、たっぷりと時間を取って紹介してくれたそうです。川島さんは、このやしろさんの曲紹介に、“これがラジオパーソナリティなんだ!”と感銘を受け、とても勉強になったと伝えます。その言葉にやしろさんは喜びつつ、「芸人時代から、“脚本・演出”をずっとやってきたから、生放送中も自然と“脚本・演出”をしながら進行しているのかもしれない」と、ご自身の分析されていました。
 
 
やしろさんが最も影響を受けた人物として名前を挙げたのは、後輩芸人・マヂカルラブリーの野田クリスタルさん。
先日、テレビ朝日「激レアさんを連れてきた。」で、“野田さんが1つのことにハマったらヤバい!”という内容の放送を観たやしろさん。そこで野田さんは大人になってから体を鍛え、ダンクシュートをするという夢を6〜7年掛けて実現していました。やしろさんも学生時代はバスケットボール部で、ダンクをしたいという気持ちはありましたが、リングを掴むのが限界でした。今でも、ダンクを決める夢を見るほど憧れが根強くあるそうですが、体が衰えていく年齢ということもあり、実際には諦めていました。そんななか、大人になっても体を鍛え、ダンクを成功させた野田さんの映像を観て、魂が震えたそうです。
また、その番組では、ゲーム作りに夢中になった野田さんは、楽屋でずっとゲーム制作にしていて、その間は新ネタを作ってないというエピソードも紹介していました。ここでやしろさんは、“1つのことに集中して、他のことを疎かにする”ということは、なかなか出来ることではないと気付いたと言います。特にお笑いや舞台の仕事は結果を出さない限り、周りから全く認めてもらえず、お金も稼げない世界。そんななかで、“打算抜きで、集中力を作りたいものに特化して注ぐこと”が出来る野田さんに、芸人の本来在るべき姿を見たそうです。しかし、現実を生きるためにはやはりバランス感覚も必要・・・。そんなことを考えているうちに、次第に野田さんのことを尊敬し始めたやしろさん。しかし、40代半ばで年下の芸人を尊敬していると言うのも恥ずかしく・・・でも、そこを尊敬していると言い切るのが、“野田イズム”なのではないか?という葛藤もあり・・・笑
そんなやしろさんの夢は、オリジナルドラマを作ること。この夢は何年も前から計画していますが、日々の仕事のなかで、夢に注ぐパワーは分散されていると言います。「本当に夢を実現させるためには、少なくとも夕方3時間の生放送のラジオをやっている場合じゃない!!」とここで爆弾発言!笑
リスナーも番組も大好きだけど、夢への思いもあるやしろさんの葛藤は解決しませんが、ここで川島さんに逆質問。「今、一番何をやりたい?」と尋ねます。これに対して川島さんは少し答えに悩みながら、「50歳までは全部受け身で良いかなと思っています。“これをやってください”と言われたことを完璧にやるプロになろうと思っています。」と回答。50歳以降は、自分から好きな事を発信する形もあるかもしれないけど、今はとにかく環境に恵まれていて、仕事が楽しいと感じているそうです。
 
 
やしろさんは、先月2月15日に、角川春樹事務所より初の小説『あの頃な』を発売されました。
こちらは、コロナ禍をなるべく客観視して、物語に昇華させた25本の短編を収録。「コロナ禍を振り返った時に、良かったかのか悪かったかのか、まだ答えは出ていない状況。今は勝手に収束すると思っているが、もしかしたら、もっとひどい事態になるかもしれないし、未来では、“2021年はまだ普通にご飯食べれていたよね”といった会話が生まれるかもしれない。振り返った時に、コロナとは何だったんだ?という目線の短編を数本入れながら、まだ答えが出てないからこそ予測も含めて、色々な考えがあるということを、読んだ方に感じて欲しい。」と、説明してくださいました。
発売日の2月15日に初めてコロナの陽性判定を受けたやしろさん、実際に経験した前と後では意識が変わったそうで、早くも『あの頃な2』の構想もありつつ、療養中にプロモーションができなかった分、これから頑張りたいと意気込んでいました。もちろん、コロナの収束を願いながら・・・。
 
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