EDC 営業日誌(過去のお客様)
2021年11月13日放送
本日のお客様は、サンプラザ中野くん。
1960年、山梨県出身、千葉県育ち。早稲田大学在学中にインディーバンド「スーパースランプ」に在籍され、アマチュアバンド・コンテスト『ヤマハ・イーストウェスト』で“シニア部門・優秀グループ賞”を受賞。その後、1982年に「爆風スランプ」を結成され、1984年にメジャーデビュー。以降、「大きな玉ねぎの下で~はるかなる想い~」「リゾ・ラバ(resort
lovers)」「Runner」「旅人よ~The Longest
Journey~」など数々の名曲を世に送り出しました。スキンヘッドにサングラス姿というルックスとユニークなキャラクターで、ラジオ・パーソナリティや文筆家などマルチな才能を発揮されています。
 
 
ドライブの最初に川島さんはまず、本日のお客様の呼び方を確認!「サンプラザ中野くんさん?サンプラザ中野くん?どうお呼びしたらよろしいですか?」
この質問に対し、「“さん”は付けずに、サンプラザ中野くん!と友達感覚で呼んで下さい!」とお答えに!ですので本日の旅は、“サンプラザ中野くん”と呼ばせていただきます!
サンプラザ中野くんは車好きとしても有名!なかでもSUBARU車を愛用されています!!SUBARUの魅力を伺うと、「構造が、バランスと安全性を非常に重視しており、また四駆(オールホイールドライブ)機能が、日本の山坂道に適している。」とお答えいただきました。以前は、様々なメーカーの車に乗っていたそうですが、30年ほど前にスノーボードにハマった際、行く先々でスタックを起こしてしまったそうです。(雪や沼にタイヤがハマり前にも後ろにも進まなくなる現象)そこで、“これはもうSUBARUにするしかないな!”と、実体験をきっかけに、アウトドアに向いているSUBARU車を愛用され始めたそうです。SUBARU車歴は、“インプレッサ”〜“レヴォーグ”〜“XV”、そして昨年、“新型レヴォーグ”をご購入!自他ともに認めるスバリストです!
(SUBARU車とサンプラザ中野くん!「撮影/木村博道」)
 
 
サンプラザ中野くんがミュージシャンの道へ進むきっかけは、スカウト!大学1年生の頃、高校時代からの友人である“パッパラー河合”さんが在籍していたバンド「スーパースランプ」のライブをお客さんとして観に行った中野くんは、そのカッコよさに衝撃を受けました!
スーパースランプは早稲田大学の先輩が結成したアマチュアバンドで、当時、アマチュアでオリジナル曲を演奏するバンドが少ないなか、8割方オリジナル曲を披露されていたそうです。さらに衣装も独特で、ある女性メンバーはチョウチョ、ある男性メンバーはミミズ、そして河合さんはイモムシの格好をしていました!笑
“なんて素晴らしいバンドなんだ!”と中野くんは感動!
そしてライブ翌日、大学に向かう電車の中で、偶然にもスーパースランプのリーダー・Tさんから声を掛けられます。中野くんがライブで感動したことを伝えると、リーダー・Tさんから「昨夜のライブでメンバーが何人か辞めることになった。河合から、中野くんは歌が歌えると聞いたんだけど、バンドに入らないか?」とスカウトを受けました!「ええー!俺入っていいんですか?歌っていいんですか!?」と中野くんは興奮気味に承諾。
加入後、「ボーカルが歌詞を書くものだよ」と教えられ、まずは作詞に挑戦。自分が書いた詞に、先輩方が音を付けてくださり、曲が完成していく過程はとても楽しかったと振り返りました。
そして中野くんをボーカルに迎えたスーパースランプは、アマチュアバンドのコンテスト「ヤマハ・イーストウェスト」に出場し、いきなり決勝に進出!これは、中野くんが加入してまだ3ヶ月の頃の出来事でした。決勝の会場は「中野サンプラザホール」。この年は、賞を獲得することは出来ませんでしたが、翌年の同大会では“シニア部門・優秀グループ賞”を受賞!決勝の舞台だった「中野サンプラザホール」が芸名の由来になりますが、それにはこんな経緯が・・・
決勝後の打ち上げに参加した中野くん。大勢の方がいるなか、それぞれ自己紹介をする流れになりました。笑いが欲しかった中野くんは、横に座っていた女性に「何て自己紹介したらウケますかね?」と聞いたところ、「あなた、本名が中野さんでしょ。今日の会場は“中野サンプラザ”だったから、逆にして“サンプラザ中野です!”って言ったら大ウケよ。」とアドバイスをされ、その言葉通りに「スーパースランプのサンプラザ中野です!」と自己紹介したところ、打ち上げ会場は大ウケ。これがきっかけで、芸名“サンプラザ中野”が生まれました!
 
 
(「スーパースランプ」時代のサンプラザ中野くん)
スーパースランプが出場した「ヤマハ・イーストウェスト」は、その当時、音楽業界が注目するコンテンストでした。過去には、“サザン・オールスターズ”
“シャネルズ”など名だたるグループが、このコンテストを機にメジャーデビュー!中野くんはこの流れに乗り、スーパースランプもすぐにデビューできるだろうと思っていましたが、なかなかレコード会社から声が掛かりませんでした・・・。そこで中野くんは、「ヤマハ・イーストウェスト」でグランプリを獲得したにもかかわらず、同じくメジャーデビューが叶っていなかったバンド「爆風銃(パップガン)」のメンバー2人と、パッパラー河合さんの4人で新しいバンドを結成!それが、“爆風銃”と“スーパースランプ”を掛け合わせた「爆風スランプ」でした。
また、サンプラザ中野くんといえば、“スキンヘッド”で有名ですが、このきっかけは1981年の「ヤマハ・イーストウェスト」に出場する前まで遡ります。コンテスト前、優勝に向けて戦略を立てていたスーパースランプ。そこで出た案が、ビジュアル面の強化!ボーカルが頭を剃るという案が採用されたそうです。“中野くんはなぜ反対しなかったのか・・・?”
実は中野くん、この会議に遅刻してしまい、到着した頃にはボーカルがスキンヘッドにする、という案が決まっていたそうです。笑
もう一つのトレードマーク“サングラス”は、爆風スランプになってから。スタイリストされていたファンの方から、サングラスが似合うと勧められ、最初は抵抗があったそうですが、付けてみたところ観客の反応が良かったため、それから現在に至るまでかけ続けています。
ちなみに、話は戻りますが、スーパースランプにはもう1人、有名な方が在籍していました!それは・・・「聖飢魔II」のボーカル・“デーモン閣下”!デーモン閣下は中野くんの大学の後輩で、中野くんが脱退した後、スーパースランプの次のボーカルになりました。当時、直接面識はありませんでしたが、中野くんのスーパースランプとしての最後のライブにデーモン閣下は足を運び、その圧倒的なパフォーマンスから“この人の次に俺がボーカルになるのか・・・”とプレッシャーを感じていたそうです。デーモン閣下はその後、スーパースランプを脱退して聖飢魔IIとしてメジャーデビュー。ちなみにデーモン閣下の次のスーパースランプのボーカルは、“ホルモン東畑”さん。スーパースランプの歴代ボーカリストは、「サンプラザ→デーモン→ホルモン」というインパクトのある凄い並びですね!
 
(爆風スランプ)
爆風スランプはメジャーデビュー直後から人気バンドに。ライブ会場は常に満員状態でした。
そして1984年に「九段会館」でライブを終え、打ち上げ中だった爆風スランプの皆さんの元に、ソニーの偉い方がいらっしゃいました。
そこで告げられたのは、「今日はよくやった。来年、横の武道館を押さえたから、満員にしろ」との言葉!中野くんは、聞いた直後、“憧れの武道館だ!かっこいい!”と思いましたが、「満員」という言葉が引っ掛かります。
メジャーデビュー2年目の爆風スランプにとって、ライブハウスとは規模が異なる武道館を満員にすることは並大抵なことではなく、プレッシャーが凄かったと言います。せっかくの武道館で空席が目立つと、来てくれたファンの方に申し訳ないと思った中野くんは、満員に出来なかったことへの言い訳として“席が空いているのはチケットが売れていないからでは無く、理由があるんだ”という、ドラマ仕立ての曲を作ることにします。
それが名曲『大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い』。
歌詞の内容は、武道館で待ち合わせをしたペンフレンドの女の子が予定の時間になっても来ずに終わったという失恋ソング。
当初は、コメディ色を出して、人から笑われる形の曲にしようとしたそうですが、歌詞を書き進むにつれて良いドラマが出来上がり、中野くん自身も“良い歌しよう”という気持ちに切り替わりました。こうして、『大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い』は切ないラブソングに。
そして蓋を開ければ、武道館ライブは大成功!満員のお客さんが駆けつけてくれました!中野くんはステージに上がった瞬間に緊張がピークに達し、演奏中の記憶は残っていないそうですが、あの感動は忘れられないと語ってくださいました。
そして爆風スランプといえばやはり、世代を超えて愛される応援歌『Runner』。こちらの誕生秘話についても伺いました。
1988年に9枚目のシングルとして発売された『Runner』は、実はリリース当初は売れ行きが良くなかったそうです。
しかし、同年の紅白で披露して反響を呼び、『天才・たけしの元気が出るテレビ』のアイスホッケー部の応援歌として使用されたことで、日本を代表する応援歌として定着していきました。どの世代も知っていて、時代を超えて歌い継がれるエバーグリーンな曲を作ることは、歌手として大きな夢。この楽曲を番組で採用し、広めてくださった“ビートたけし”さんと総合演出の“テリー伊藤”さんには足を向けて寝られないそうです。
ちなみに、『Runner』は当時脱退されたベースの方へ向けた歌詞。“共に走り続けた仲間へ、いつかまた楽しく話ができる日が来ると良いね”という惜別のメッセージが込められていました。『Runner』が大ヒットしている間は、ベースの正式メンバーがいない時期。ライブやTVでの演奏は、友人バンドのベーシストが代わる代わるサポートをしてくれていたそうで、その中には、千葉県のスターであり、今年、ジャガー星に帰還された“ジャガーさん”もいたそうですよ!
 
 
(チベット体操を行うサンプラザ中野くん)
ベジタリアンとして知られ、常日頃から健康を意識されている中野くんの目標は125歳まで生きること!
目指し始めたきっかけは、早稲田大学の創設者“大隈重信”さんと“野口英世”さんが話していたという「人間の寿命は125歳だね」という説。この言葉は“大隈重信”が唱えた125歳説として有名で、創立者の言葉として、早稲田大学では『125』という数字が今でも大切にされているそうです。
例えば、創立100周年よりも125周年の方が盛大に行われたり、大隈講堂の時計台の高さは125尺だったり!その考えに中野くんも共鳴され、“125歳まで生きられるんだ!”と思い込むことで、体も騙せるかもしれないと考えています。実際、現在61歳ですが、見た目の若々しさに川島さんも驚いていました!
中野くんが今まで最も緊張したお仕事は、1988年と1989年に出場した紅白歌合戦。実は“あがり症”だという中野くん。“カンペが無い本番で、歌詞を忘れて歌えない状態になったらどうしよう・・・”という不安を抱いていたそうです。もしこの大舞台で自分が歌えなくなったら、メンバーや事務所の人たちの仕事もなくなり、人生が悪い方向に変わるかもしれない・・・とまで考えていたと言います。今思い出しても心臓が止まりそうになるほどの緊張があったそうですが、本番は無事成功!緊張と冷静の狭間で良いものが生まれると信じる中野くんは、ゆるい気持ちでステージに上がると、自分のカッコよさに酔って歌っている感じが出てしまうため、あまり好ましく思っていないそうです。
また、バラエティ番組にも積極的に出演される中野くんは、ロックの根源にはユーモアがあると考えています。「ユーモアがないと、皆さんの心の中に染み込まず、響かない。」という考えのもと、芸人さんに多少イジられる様な番組でも、楽しく参加されています。
 
 
サンプラザ中野くんは、「旅人よ〜The Longest Journey 25th Anniversary Version」が収録された、ミニアルバム『旅人よ〜The
Longest Journey』を先日リリースされました。
「旅人よ〜The Longest
Journey」は、爆風スランプが1996年に発売した29枚目のシングルで、バラエティ番組『進め!電波少年』の社会現象にもなった企画、「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」の為に制作された応援歌。
今回新たにリレコーディングされた経緯は、“発売から25周年という区切りの年”であり、“今年、有吉弘行さんが結婚したことへの祝福”ということもありますが、最も大きい想いとしては、コロナ禍で苦しんでいる人へ向けての応援歌として改めて歌いたかった、ということ。
また、もうすぐ2年ぶりのツアーも開催!全国4箇所で行われますので、皆さん是非チェクしてみてくださいね!
最後に、サンプラザ中野くんに人生のエウレカ(気付き)は・・・“自分の声は、応援歌に向いている!”ということ。
長きにわたる音楽人生のなかで、多くの人たちの背中を押す名曲を歌い続けていらっしゃいます。
 
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