EDC 営業日誌(過去のお客様)
2021年7月31日放送
本日のお客様は、くっきー!様。
1976年滋賀県出身。NSC大阪の13期生で、1994年に幼馴染のロッシーさんと「野性爆弾」を結成。同期芸人は「次長課長」「ブラックマヨネーズ」さんがおられます。ネタ作りからコントの小道具まで全てご自身で手掛け、独特の世界観のコントで注目を集めます。2008年に拠点を大阪から東京に移し、白塗りした顔で表現するモノマネ芸などでブレーク。クリエイターとしても作品を発表しており、『超くっきー図鑑 渡り鳥』(ヨシモトブックス)
『くっきずむ』(美術出版社)、などの著書があります。個展「超くっきーランド」は国内外で総来場者数50万人を記録されました。また、学生時代から音楽活動に精通しており、ロックバンド「ジェニーハイ」ではベースを担当されています。
お笑い・アート・音楽と様々な分野でご活躍される大人気芸人さんです。
 
 
(デビュー当時の野性爆弾)
川島さんにとって、くっきー!さんは、「麒麟」が売れる前から、相方・田村さんと共にお世話になった先輩。若手時代にはコンビで家に招いて頂き、ご飯をご馳走になったり、洋服を沢山頂いたそうです。結果、くっきー!さんの着る服が無くなったそうですが、返却しようとした川島さんに対し「一度あげた服は、いらんねん!」と、後輩を想いやる優しい一面も持ち合わせているのです。くっきー!さんは車内で、このような“先輩としてカッコいいエピソード”を色んな人に拡めて欲しいと懇願していましたが、実はかなりの照れ屋さん。川島さんがMCの番組で、クイズ形式の大喜利を行い、「この100均グッズは何かを剥がすモノです。なんでしょう?」という問いに、くっきー!さんは「薄く張り付いたLEGOを剥がすヤツ!」と回答。これに対し川島さんが、「子供と一生懸命遊んでいないと浮かばない答えですね」とツッコんだところ、普段の芸風とは異なる素の部分を言い当てられ、恥ずかしさから顔が真っ赤になり、血が頭に持っていかれ指先は真っ白になってしまったそうです。笑
また、麒麟を初めてライブに呼んでくださったのも「野性爆弾」さん。その後も度々、声をかけてもらっていたそうですが、なかでも川島さんにとっては忘れられないライブがあります。それは、麒麟がM-1で2年連続3位を取り、今年こそは優勝するぞ!と意気込んでいた2006年のライブ。川島さんは、当時自分の中で一番面白いと思っていたネタを、呼んで頂いた野性爆弾さんの単独ライブで披露することにしました。しかし、自信とは裏腹にお客さんの笑い声はゼロ・・・・誰1人笑わなかったそうです。結局、一度も笑い声を聞くことなく舞台袖に下がった麒麟に対し、くっきー!さんは
「(麒麟には)悪いことしてしまった。本当は面白いネタなのに、俺らを観に来ている客だから、ごめんな」と励ましの言葉をかけてくれたそうです。お世話になっている先輩の優しい言葉に救われた麒麟のお二人。その後、颯爽とステージに向かい、自分たちを観にきたお客さんにネタを披露した野性爆弾さんでしたが、麒麟と同じくらい、いやそれ以上に、スベってたそうです…。笑
 
 
(大阪時代の野性爆弾:1996年)
高校時代はバンド活動に夢中だったくっきー!さん。そもそも芸人になろうとは思っていませんでした。ですが、高校卒業時に進路が決まらなかったこともあり、お笑い好きの同じバンドメンバーの人に誘われ、NSC(吉本興業養成所)へ入学することにしました。当時のくっきー!さんは、“ダウンタウンさんを輩出した場所なら行くか〜”程度にしか思っていなかったそうです。そして、面接会場に向かうと、幼稚園から幼馴染のロッシーさんがいました。お二人は、別々のルートから、同じタイミングでNSCに入学されていたのです。ご自宅が滋賀県の3人(バンドメンバーを含め)は、通学を共にするようになりましたが、しばらくするとくっきー!さんを誘った人が別の仕事に就くため、NSCを辞めてしまいます。芸人になる気が無かったくっきー!さんと、お笑いは好きだが向いていないロッシーさん(くっきー!さん曰く…)が残る形になりましたが、学費も支払っており、NSC内で仲の良い同期芸人も出来たこともあり、NSCに通い続けることにしました。その後、ロッシーさんと「野性爆弾」を結成。お二人が作り出す、異才を放ったネタは瞬く間に芸人の間で話題になりました。奇抜なネタになった理由は、お笑いの方程式が分からなかったため。一生懸命ネタ作りに励みましたが、(話をフってオチを付ける、ツッコミの間を作るといった)お笑いの流れがよく分からなかったそうです。突飛な小道具を使用するコントでは、自分達の頭の中で流れを理解しているという理由で、その説明を省くので、観ている方には伝わりづらい世界観でした。くっきー!さんの説明しないボケと、それを指摘しないロッシーさんのツッコミが織りなすコントは、異才を放っていました。しかし、同期の次長・課長さんやブラックマヨネーズさんがテレビに進出していくなか、野性爆弾さんは、劇場や芸人の中での評判は高いものの、テレビへの露出は少なく、不遇の時代を送っていました。風向きが変わり始めたのは2006年、『野爆テレビ』(当初のタイトルは『野爆うめだFandango!』)という冠番組が始まった頃でした。吉本興業制作のお笑い専門チャンネル「ヨシモトファンダンゴTV」で放送されていたこの番組は、常に吉本の劇場で流れており、食レポに行ってご飯を食べないなど破天荒なロケをするお二人の面白さがTV関係者や吉本の社員さんの目に留まるようになります。その後、ブラックマヨネーズさんの冠番組のロケのコーナーでレギュラーになるなど、徐々に仕事が増えていきます。しかし、人気に火が付きかけたタイミングで、主戦場としていた「うめだ花月」が閉館してしまいます。「京橋花月」へと移館した舞台は観客数も増え、若手芸人のみならず師匠クラスの芸人が多く出演する形となりました。師匠に怒られたり、お世話になっていない方に挨拶するのが嫌だったくっきー!さんは、戦いの場を大阪から東京に移す決断をしたのでした。
 
 
(東京に活躍の場を移したくっきー!さん)
上京後は、ロケの面白さを買われ、今田耕司さんと東野幸治さんがMCの『やりすぎコージー』のレギュラーに。その後、同番組の特番『やりすぎ都市伝説』では、皆さんが持ち寄った都市伝説を5〜6時間聞いた後に、くっきー!さんが最後の総括として大ボケを任されることに。ご本人曰く、皆さんの都市伝説を聞いている時は、あまり喋ることがなかったそうですが、番組最後のオチを任せられているという緊張感があり、常に弓を張っている状態だったそうです。
(『やりすぎ都市伝説』での緊張感を“弓”で例えられ、それを指で表現するくっきー!さん)
この時期は、テレビ番組の出演も一時的に増え、『ダウンタウンのがキの使いやあらへんで!』の名企画「七変化」に出演するなど順風満帆でした。しかし、VTR(動物や癒し系)を観て感想を言うゴールデン番組等にはあまり馴染めなかったそうです。求められているコメントより、くっきー!さん自身の芸風を貫き通しました。イビツなコメントでスタジオ中が引いてしまい、扱いづらい芸人と思われたのか、徐々にテレビの仕事が減っていきます。
再びテレビに出始めたのは、約10年後。先ほどのゴールデン番組で、ご自身の芸風を貫き、変わったコメントを残していたくっきー!さんを、ひそかに面白いと思っていた方々が再び番組に呼んでくれたのでした。それは、当時若手だったADさんやAPさん。10年が経過して、そのADさんやAPさんは、ディレクターやプロデューサーになっていたのです!その後、テレビ出演が増えていき、大きな番組でも結果を残し続けたことで、大人気芸人の仲間入りを果たしたのでした。この経験から、くっきー!さんは、現場で一番立場の弱い方にこそ優しくしないといけないな、と感じたそうです。芸人界隈だけではなく、世間の皆さんにも面白さが伝わったのは、くっきー!さんの優しい人柄が引き寄せた結果だったのです!
 
 
(バーニング・マン)
くっきー!さんの思い出の場所は、アメリカ・ネバダ州のリノ。世界最大の奇祭『バーニングマン』に参加されました。『バーニングマン』とは、リノの砂漠地帯にアートの街を作りあげ、全長が“鎌倉の大仏”ほどある象徴の作品“ザ・マン”という人型の造形物の周りに、参加者が各々美術作品を出すお祭り。最後に“ザ・マン”をごうごうと燃やして終わるそうです。アーティストとしても活躍されているくっきー!さんにとってお似合いなお祭りですが、一番の思い出は祭りではなくリノの街。
リノはカジノ街で、くっきー!さんと同行していたスタッフさんたちは、仕事終わりにカジノへ寄ることにしました。宿泊していた「サーカス・サーカス」という名のホテルからは、ゴンドラで直接カジノに行くことができたそうです。カジノに着いて3〜4時間ほどでお金が無くなってしまったくっきー!さんは、まだ楽しんでいるスタッフさんを誘うのは申し訳ないので、1人で先にホテルへ帰ることにしました。夜だったこともありゴンドラは既に動いておらず、徒歩でホテルに向かったのですが、カジノ街周辺では異様な空気で、街は暗く、道に迷ってしまいました。くっきー!さんは、英語が喋れないながらも、現地の清掃員の方に道を教えてもらうことに。しかし、少しパニック状態だったため、「サーカス・サーカス」というホテル名を間違えて「カジノ・カジノ」と伝えてしまいます。ようやく伝わったかと思えば、案の定、ホテルではなく、遊んでいたカジノに案内されます。このやり取りを2〜3回繰り返した挙句(言い間違えに気付かなかった・・)、諦めたくっきー!さんは、スタッフさんがカジノを終えるまで外の椅子で待っていたそうです。笑
 
 
これまでの芸人人生でくっきー!さんが感じたエウレカ(気付き)は“後輩を雑に扱ってはいけない”ということ。昔は、麒麟さん、千鳥さん、南海キャンディーズの山里さんに無茶振りもしていたくっきー!さん。まさかこの後輩たちが、テレビで見ない日がないほど売れるとは思っていなかったそうです。ですが、後輩・スタッフの方に優しさを持って接してきたくっきー!さんは、今や大人気芸人。無茶振りをされていた後輩の皆さんも、くっきー!さんの優しさや苦労を知っているからこそ、テレビで共演できることを、今はとても嬉しく思っていそうですね。
 
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