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EDC 営業日誌(過去のお客様)

2021年7月10日放送

Passenger

松木安太郎

本日のお客様は、松木安太郎様。
1957年、東京都出身。16歳で読売サッカークラブのトップチームに最年少登録され、右サイドバックとして活躍。1983年にはリーグ戦初優勝。その後も数々のタイトル獲得に貢献され、日本代表に選出されるほどのプレイヤーでした。現役引退後はJ-リーグが開幕した1993年、最年少で監督に就任。絶大な人気を誇った「ヴェルディ川崎」の監督を35歳で務めました。その後、セレッソ大阪や東京ヴェルディの監督も歴任。現在は、サッカー解説者として活躍中。「松木節」とも言われる応援スタイルの解説は、サッカーを知らない人も楽しめる解説として人気を博しています。


(幼少期の松木さん)

 

 

〜松木さんのサッカー経歴〜

松木さんがサッカーを始めたのは小学生の頃。通っていたカトリック系の小学校でサッカー部に入ります。サッカーを日本に持ち込んだのは神父さんという説もあるほど、カトリック系の学校とサッカーは縁があるそうです。また、松木さんご自身も後に知る事になりますが、入部されていた「暁星アストラ」というクラブチームは、日本で最古のサッカークラブチームだとか。松木さんが最初に務めたポジションは、ゴールキーパー!当時のグラウンドは芝生でも土でもなく、なんとコンクリートでしたが、松木少年は全く恐怖心が無く、体を投げ出してボールを止めていたそうです。笑 その後、身長が伸びず中学生の頃にディフェンダーへポジションを変更。ディフェンダーとしての才能が開花し、16歳で日本リーグ2部(現在のJ2に該当)の「読売クラブ」でプロデビュー。そして、日本代表に選出されました。


(松木さんの少年時代)

現役引退後は、ユースチームのコーチを経て35歳で「ヴェルディ川崎」の監督に就任。Jリーグが開幕した1993年当時の「ヴェルディ川崎」は、三浦知良選手、ラモス瑠偉選手、武田修宏選手など多くのスター選手を擁し、勝って当たり前と言われるほどの人気クラブで、監督としてのプレッシャーはもの凄かったそうです。昨今では、試合前の練習を非公開にするなど、研究されないように対策をしていますが、当時はそんなセキュリティもなく、また人気クラブのため、カメラの台数も多く、練習や戦術が相手チームに筒抜け状態でした。Jリーグの歴代クラブの中でも、当時のヴェルディは監督として一番難しいクラブだったと語られる松木さんは「様々な経験を積んできた今なら(監督のオファーが来ても)絶対に断る。当時は“若さと馬鹿さ”があったから良かった」と振り返りました。
そして、“キング・カズ”こと三浦知良選手との思い出話も。初めての出会いは、日本で開催された「キリンカップ」。この大会に南米代表として来日したチームに、当時18歳の三浦選手は在籍していました。松木さんは日本代表としてこの大会に出場し、対戦相手として三浦選手と試合をしたのが、初めての出会いでした。監督時代の松木さんから見た三浦選手の印象は、今まで見たプロサッカー選手のなかで最も努力をする選手。今でも現役生活を続け、日本最高峰のJ1でプレーしている三浦選手を“まさしくキング!” と尊敬されています。

 

 

〜サッカー解説者のパイオニア〜

サッカー解説者としての松木さんのスタイルは“応援スタイル”とも言われ、視聴者を代表するような熱のこもった解説でお馴染みです。例えば・・・
・提示された6分間のロスタイムに対して「ふざけたロスタイムですね〜」と不満をいう
・レフェリーが出したイエローカードに「何なんですか、これ」と首を傾げる
このような解説の根底には、サッカーを知らない人・初めて観る人にも理解してもらいたいという想いがあるそうです。野球と違い、ゆっくり解説する時間がないため、良いプレイには「いいよ!」、悪いプレーには「まずい!」と瞬時にハッキリ伝えることを意識されています。

解説者としての信念を確認したところで、川島ドライバーが松木さんの名言(迷言!?)の真相に迫りました。

1つ目は、「今の、キーパー居なかったら(ゴール)入ってたよ!」
こちらの真相は・・・松木さんは現役時代、何百試合も出場されましたが、ポジションがディフェンダーということもあり、トータルゴール数が10点ほどでした。シュートを打っても滅多に入らなかったそうです。そんななか、打った瞬間に「これは決まった!」と手応えを感じたシュートを、キーパーのファインセーブに阻まれた経験がありました。「他の人のシュートには反応しないのに、なんで俺のシュートだけファインセーブなんだよ!」という悔しい思いは今でも覚えていて、解説している時に同じような状況を目にすると、選手の気持ちを代弁したくなるそうです。

2つ目は、「ゴールちょっとズラしたいよね〜」
この発言も、松木さんが現役時代、良いシュートを打ったのに、ほんのちょっと枠から外れた経験からきているそうです。笑 松木さんは解説という仕事において、事前に何を言うか決めて臨むことはなく、その瞬間に感じたことを、ピッチにいる選手や監督と同じ気持ちで伝えています。実際に、松木さんは解説のお仕事に向かう前、試合に臨む選手のように必ずトレーニングを行っているそうです。

 

 

〜思い出の場所:ドイツ・ブラジル〜

日本リーグでプロになり、レギュラーにも定着した1970年代、松木さんはサッカー留学でドイツ(当時は西ドイツ)に。訪れたのはケルン、後に奥寺康彦さんが所属される「FCケルン」の練習に参加しました。この時、松木さんは日本人でも通用するぞ!と感じたそうです。経験値が少ないだけで、海外への順応が出来れば活躍するチャンスはあると肌で感じました。また、ドイツで特に印象的だったのは、「ボルシア・メンヒェングラートバッハ」というチームの練習に参加された時、後のW杯優勝メンバーでもある(西ドイツ代表)、ウリ・シュティーリケ選手との対戦。まだ若手だったシュティーリケ選手を松木さんは厳しくマーク!松木さんの蹴りが(相手の足に)入った際、彼に睨まれましたが、松木さんは一歩も引かず堂々と戦い合いました。そして帰国後、サッカーマガジンを見ると表紙にはあのシュティーリケ選手が!松木さんはその表紙を見て、なんてすごい選手を蹴ってしまったんだ・・・とは思わず、あの選手でも表紙になれるんだ、と思ったそうです。このドイツ留学は、松木さんに自信と経験を与えてくれたのでした。


(ドイツでのお写真/松木さん・左端)

もう1つの思い出の場所が、ブラジルのサントス。
日本に来ていた同い年のラモス瑠偉さんに、ブラジルへ来ないか?と誘われます。サッカー王国のブラジルに松木さんはとても興味があり、18〜19歳の若さでしたがこの誘いに乗ります。当時の飛行機代は、通常片道60万ほどしたそうですが、松木さんは、乗り換えを重ねる格安チケット(往復36万)でブラジルへ渡ります。移動時間は片道48時間かかったそうです。現地では、ラモスさんのお兄様のチームなどで試合をして、現地のスカウトから声を掛けられることも!ブラジルの自由なサッカーや土地柄は松木さんにとてもいい刺激を与えてくれたそうです。


(ブラジルでのお写真)

 

 

〜松木さんのエウレカ〜

松木さんが大事にしている言葉は「馬馬虎虎」(マーマーフーフー)という中国語。「中途半端」という意味だそうです。「中途半端」はネガティブな言葉のようですが、頑張ることも、引くことも大事だけど、どっちつかずの中間にいることで、いかようにも対応できる「普通」の状態を大切にされています。これまで、一生懸命に努力を積み重ねてきた経験、挫折して諦めた経験によって、「普通」でいることの素晴らしさを改めて感じたのでした。また、「人生で無駄なことはひとつもない、無駄かどうかは自分次第だ」と考えるようになり、自分自身をうまくコントロールすることを意識されています。ちなみに、“いつも全力!”というイメージの松木さんですが、寝る前は静かだそうです。笑
そして、今後の夢は、一番伸びしろのある中学生チームを指導すること。TVの中だけでなく、ピッチ上でも熱い松木さんをもう一度見てみたいですね!

 

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