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EDC 営業日誌(過去のお客様)

2021年3月20日放送

Passenger

中村憲剛

本日のお客様は、元サッカー日本代表・中村憲剛様
1980年生まれ・東京都出身。小学1年生でサッカーを始め、都立久留米高校(現・東京都立東久留米総合高校)、中央大学を経て、2003年に川崎フロンターレ入団。2006年には日本代表に選出。2005年から2019年まで15年連続Jリーグ優秀選手賞、Jリーグベストイレブン8回選出(歴代3位)、2016年には歴代最年長36歳でJリーグ最優秀選手賞を受賞されました。昨シーズン、18年在籍した川崎フロンターレで現役引退。
川崎の顔として、数々のタイトルをもたらした日本屈指のボランチです。


※サッカーを始めた頃の中村憲剛少年
©︎ケンプランニング

 

 

〜現役引退〜

昨シーズン、18年間の現役生活に幕を下ろした中村憲剛さん。
プロサッカー選手としての生活を長年続けてきた憲剛さんにとって、引退後の生活は違和感の連続。朝起きてクラブハウスに行かないことに、しばらく慣れなかったそうです。また、現役中は病院や薬なども、チームから指定・支給されたものを使用(ドーピング違反を防ぐ為)されていましたが、今ではどこの病院に行くのも自由。しかしこれまでの習慣が抜けず、クラブのトレーナーに電話しそうになることもあるのだとか・・・。

憲剛さんは40歳で現役を引退されましたが、引退を考えた始めた時期は30歳を過ぎた頃。いつまで現役で出来るだろう?と考え始め、とりあえず35歳までは頑張ろうと目標を定めます。しかし、35歳に近づいてきた時、個人としてもチームとしてもまだ成長できると感じ、40歳まで頑張ろうと考え直します。実際、35歳を過ぎた年から、Jリーグ最優秀選手賞・Jリーグ初優勝〜連覇(2017〜2018)・ルヴァンカップ初優勝など、輝かしい成績を残されました。憲剛さんにとって現役最後の年となった昨シーズン、川崎フロンターレは史上最速でJ1優勝・天皇杯初優勝と、クラブ史上初となる複数タイトルを獲得した記念すべきシーズンとなりました。
引退に関して、周囲からは「まだ現役で活躍出来るでしょ!」という声がほとんどでしたが、それでも引退を決断した理由は、次のキャリアの選択肢を拡げるため。新たな挑戦に向かっての準備や経験を積む時間が必要と感じ、区切りの良い40歳(45歳だと少し遅いと考えていた)というタイミングでユニフォームを脱ぎました。
憲剛さんにとって、引退の覚悟を決めて過ごした35歳から40歳までの5年間はサッカー人生の中でもとりわけ濃密な期間となりました。


※高校時代のお写真
©︎ケンプランニング

 

 

〜憲剛さんのサッカー人生〜

数々の華々しい戦績を残してきた中村憲剛さんですが、エリート街道を歩んできたわけではありませんでした。学生時代、世代別の代表選手に選ばれることもなく、全国大会への出場経験もありませんでした。大学時代もプロからのスカウトはなく、自ら関係者を通じて、当時J2だった川崎フロンターレの練習に参加させてもらい、練習生からプロとしての契約を結ばれました。体格も恵まれた方ではなく、身体能力も高くはなかったそうですが、自分の短所(当たり負けするフィジカル)を逆手に取り、ポジショニング(攻撃・守備態勢での適切な位置どり)や、他の選手を活かすプレーに磨きをかけてきました。
プレースタイルと私生活の行動は重なるそうで、大勢での食事会の際は、中心の席を好まず、端の席から全体が見渡し、しゃべってない人に話を振ったり、おかわりを確認したり、フォロー役に回ることが多いそうです。このボランチ精神に川島ドライバーも共感!!

中村憲剛さんは、26歳で日本代表に初招集されます。
当時日本代表を率いていたオシム監督との出会いは憲剛さんに大きな影響を与えました。初めて挨拶に行った時の印象は「大きくて熊みたいだった」そうです。(オシム監督:189cm)。オシム監督は勉強熱心な方で、憲剛さんに考え方の選択肢を増やしてくれました。例えば、試合中の一本のパスに関しても、A.B.C 3つの選択肢からAを選択したのか、Aしか選択肢がなくAを選んだのか?と監督から問われます。Aの選択が一番効果的なパスだとしても、複数の選択肢を持ったうえでのパスと、頭の中に1つしか選択肢がなかった状況でのパスは違うとアドバイスをくれました。

2010年の南アフリカW杯後には海外クラブからの誘いもありました。そのクラブは、オランダの名門PSV。当時30歳だった憲剛さんは、海外へ挑戦するラストチャンスだと思い、フロンターレに相談しました。しかし、当時フロンターレの主力選手だった川島永嗣選手と鄭大世選手の海外移籍が決定したタイミングと重なり、クラブから残留を求められます。悩んだ末、憲剛さんは自分を育ててくれた川崎フロンターレにタイトルをもたらすため、残留を決断。生涯、川崎フロンターレでプレーすると決めた瞬間でもありました。


※大学時代の中村さん
©︎JUFA/REIKO IIjima 写真提供:関東大学サッカー連盟/飯嶋玲子

 

 

〜好きなタイプは奥様〜

川崎フロンターレのHPに、『好きな女性のタイプ:妻 / 好きな料理:妻の手料理 / この世で一番怖いのは:妻が怒った時 / 最後の晩餐で食べたいのは:妻の手料理』というプロフィールを載せている愛妻家の憲剛さん。
出会いは憲剛さんが大学4年生の時。サッカー部のマネージャーとして入部されたのが、当時大学1年生の奥様でした。奥様は、サッカー部のキャプテンだった憲剛さんのことを、1年生のキャプテンだと思っていたそうです(中村さんが細身だったため)。キャプテンとマネージャーの関係として部活動の連絡をよく取り合っていたお二人。憲剛さん曰く、お互いあまり意識はしていなかったそうですが…、6月(出会って二ヶ月後)には交際開始!!

「妻に出会ってから、僕の人生は全て好転した」
大学時代はリーグ戦で2部から1部へ昇格、川崎フロンターレに入団、入団2年目でJ2優勝、26歳で日本代表選出など、奥様と出会ってから、憲剛さん人生は見事に好転していきました。奥様は常に、憲剛さんのサッカー以外の姿勢を正してくれるそうで、振る舞いや言動など人間性の成長を促し続けてくれる存在。憲剛さんにとって奥様は司令塔なのです。お子様にも恵まれ、幸せな家庭を築いていらっしゃいます。


©ケンプランニング

 

 

〜中村憲剛のこれから〜

現在、『川崎フロンターレ リレーションズ オーガナイザー(FRO)』として活動されている憲剛さん。川崎フロンターレを含めサッカー全体の魅力を伝える役割を担っています。川崎フロンターレ内では、アカデミー(下部組織)の中高生への指導がメインのお仕事。指導する上で大切にしていることは、ご自身の経験を伝えることと、オシム監督から教わった選択肢を拡げること。将来、どのチームに加わっても活躍できる選手になってもらいたいという想いから、自ら考えて行動・対応することの大切さを教えています。また、憲剛さん自身、これから監督・指導者・解説者・普及活動など、多くの選択肢がある中で、今は様々な仕事を経験し、やりたいことを模索している期間だそうです。
憲剛さんがこれまでのサッカー生活の中で見つけた「エウレカ=気付いたこと」は、『自分の可能性に蓋をしないこと』

自分から諦めてしまうと自分の可能性は閉ざされる、自分が諦めなければ可能性は失われない。憲剛さんが学生時代だった頃、プロになれる確信はなかったけれど、なれないとも思わなかった。どんなことでも、自分から挑戦を諦めた瞬間、その道は閉ざされ、周りも手助けできません。すべては自分。厳しいプロの世界でも、憲剛さんは自分の可能性を信じて、18年間、続けてこられました。
我々は、次なる憲剛さんの挑戦を応援したいと思います!

 

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