- 2017
- 03/11
バイオリン奏者・古澤巌の瀬戸内紀行
「倉敷、児島、丸亀。古くて新しい風景を旅する」02
もしあなたが鳥になり、瀬戸内の空を飛んでいけば、あまりに美しいその景色に涙を流すことでしょう。青い湖のような瀬戸内海に、ぽこぽこと浮かんでいる島々。陸地には森や田畑が広がり、穏やかな海には漁船が行き交います。瀬戸内を旅すると、あなたは、海と山とがかくも近くに存在し合っていることに気づくでしょう。山が雲を集め、雨を降らせ、森を育み、流れる川は海へと注ぎ込みます。いのちの繋がり、多様性・・・瀬戸内は、そんなことを教えてくれます。シルクロードの命名者として知られる、ドイツの探検家・地理学者、フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンは、明治維新直後、瀬戸内を旅し、日記にこう書きました、「これ以上のものは、世界のどこにもないであろう」。
- 今月の旅人
- 古澤巌(バイオリン奏者)
古澤巌さんの旅は、岡山県倉敷市で始まりました。倉敷の川縁、そこは、ツアーで幾度も古澤さんが訪れてきた場所のひとつ。江戸の町並みが今に残る通称美観地区で、古澤さんの瀬戸内紀行がスタート。倉敷川の水はかつて瀬戸内へとつながり、海から山へ、山から海へと、物資を運ぶ水の道でした。今その川には、観光用の舟遊びの小舟が行ったり来たり。そんな旅人風情を楽しみながら、なじみの店や大好きな店へ顔を出し、ずっと行きたかった念願の場所で逢いたかった人と出会い、瀬戸内海の夕景を望む秘密の浜辺でバイオリンを奏で、そして、丸亀の山の中、森の樹木の世界へと・・・
愛用のバイオリンをつれての、古澤巌さんの瀬戸内です。
アメリカ生まれのブルージーンズ、デニム。ジーンズを、日本で初めて国産化したのが、岡山県の児島です。こじま、という名が示すように、かつてここは島でした。干拓地が広がっていた児島では、木綿、コットンの栽培が盛んに行われていたそうです。そのため、木綿の織り、裁縫の技術が、児島では独自に発展しました。昭和の時代には、日本全国の学生服、作業服、足袋のほとんどが、ここ、児島の町で作られていたそうです。その後、児島は、「日本製ジーンズ発祥の地」として、日本全国、やがて世界にも、その名を知られます。そして今では、世界中から、デニム、ジーンズの愛好家たちが、「ジャパニーズ・デニムの聖地」である児島へ、巡礼に訪れるようになりました。そんな児島の「デニムの総本山」とも言うべき店、工房が、「Kapital(キャピタル)本社、Kapital SOHO」です。日本を代表するデニム・ブランドの本社が、ここにあります。古澤巌さんは、長年Kapitalのデニムを愛用してきました。
念願かなって、Kapital本社(Kapital SOHO)へとやって来た古澤さん。広々としたショップ、アウトレットのほか、ミュージアムや、ツリーハウスのある中庭があって、古澤さんもびっくりです。
KAPITAL
建物の2階には、バンダナのミュージアムがありました。
この場所で古澤巌さんは、是非逢いたいと思っている人がいました。その人は、長年Kapitalのデニム、衣服を愛用してきた古澤さんにとっての、憧れの人であり、夢の人。古澤さんはその人とできたら言葉を交わしたい、話を聞いてみたいと思ってやって来ました。Kapital創業者であり、代表の、平田俊清さん。
Kapitalでは、長く商品を愛用してもらおうと、傷ついたりほつれたりした場合には、お店へ持っていくと直しをしてくれます。この日、古澤さんは、愛用しすぎてお尻のところに小さな穴ができてしまったデニムを一着持参していました。平田社長自らが、手直しをしてくれました。
そして、しっかり直った愛用のデニム。嬉しい! 古澤巌さんがずっと逢いたかったKapital創業者の平田俊清さん。日本を代表するデニム・ブランドの代表ですが、平田さんは今もかわらず、「いち職人、クラフトマン」でした。
児島をあとにした古澤さんは、車で瀬戸大橋を渡り、香川県へ。
坂出市の、沙弥島をめざしました。
今では、「しゃみ」とも呼ばれるそこもまた、岡山県の児島と同じく、
かつて、瀬戸内に浮かぶ小さな島でした。
瀬戸内海を望む、沙弥島、しゃみの、小さな浜辺。静かな海が、ゆっくり夕陽の色に染まり始めています。海辺には、1本の大きな樹。その下にベンチがあります。古澤さんはその小さくも美しい浜辺で、バイオリンを奏でました。「浜辺の歌」・・・
旅人プロフィール
古澤巌
1959年東京生まれ、1962年よりバイオリンを始める。74年中学生の部全国第1位。78年~大学でヴェーグのマスタークラスを体験、ヴェーグのバッハ演奏に初めて衝撃を受ける。79年日本音楽コンクール第1位。82年卒業の夏の2カ月間、小澤征爾の招待で、夢のタングルウッド音楽祭のコンサートマスターも務める。その後、初来日のロザンドの公演後パーティーに参加、「君の眼は何かが…」の理由だけで演奏も聞かずに83年文化庁給費留学生としてカーチス音楽院に特別編入。チェリビダッケ、バーンスタインに音楽の両極学ぶ。フィラデルフィアのダウンタウンでストリート演奏を続けながら、夏には南仏でギトリスのキャンプに参加、パリでも長時間に及ぶ丁寧なレッスンを受ける。84年よりチューリッヒ、ロンドンでミルシテインに師事(~8年間)、80を越えて最高の奏法に唖然とする。1985年春、パームビーチコンクールで同い年のコレッティのビオラに衝撃を受け、彼の勧めで、その夏カーチスを卒業しザルツブルクのヴェーグに入門。あまりに厳しいレッスンと観たこともない奏法を2年間学び、「極東で受け継いでゆけ」と送り出され1987年に帰国。アバドコンクール優勝記念イタリアツアーも行う。 夏休み(86年)帰国中、木曽で出会った葉加瀬太郎とジプシーバンドを結成、バイオリニストとしての道を歩み始め現在に至る。TFC(東儀、古澤、coba)メンバー。 最新アルバムはFMジェットストリームのテーマ曲を含む「愛しみ(かなしみ)のフーガ」(HATS)。
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