元新体操日本代表、畠山愛理さんにお話を伺いました。
(2017年7月24日〜28日OA)
畠山愛理さん
1994年8月16日生まれ
新体操日本代表として二回オリンピックに出場。
◆オリンピックを意識しはじめたのはいつ頃からですか?
最初に入った教室は普通のところで、強いチームではありませんでした。
小学校二年生から全日本大会に出してもらい、決勝進出を目標に頑張って、小学校6年生でやっと入賞できました。
6位入賞だったんですが、その時に世界の舞台に立ちたいと思いました。
この時の純粋な気持ちがあったから、中学でも頑張る事ができました。
◆印象に残っているオリンピックは?
アテネも見ましたが、北京のオリンピックが一番印象に残っています。
アテネでは、日本チームが出ていなくて、北京で出場したのを見て、あのチームに入りたいと思いました。
そして、本当に4年後のロンドンオリンピックで初出場を果たした畠山選手でした。
◆フェアリージャパンに入ったきっかけは?
やはり、北京オリンピックがきっかけでした。
以前はフェアリージャパンという愛称もなかったので、北京オリンピックからそう呼ばれるようになり、親近感が湧きました。
フェアリージャパンの演技を見ると気持ちが高まって、感動していました。
だから本当にずっと入りたいと強く思っていました。
◆これまでに挫折をした事はありますか?
中学生の時に挫折をしました。
怪我ばかりしていて、やめようと思いました。
中学三年の時に全日本ジュニアで8位に入賞した時も棄権したいと言っていました。
その時に恩師に、周りを気にせず自分の為だけに演技をしなさいと言われて、出場しました。
結果は入賞しましたが、まだ辞めるという気持ちが残っていました。
そして、大会のあとにフェアリージャパンのオーディションがある事を知って、いろいろ初心に戻って考えた時に自分はオリンピックに行きたい、フェアリージャパンに入りたかったんだという気持ちを思い出して、このチャンスを逃したら一生後悔すると思って、オーディションを受けました。
◆フェアリージャパンに入ってどうでしたか?
チームには入ったんですが、最初のチーム分けが背の順だったんです!
ロシアの先生だったので、メンバーの誰がうまいかというのを把握していなくて、背の順でレギュラーが選ばれたんです。
その時は非常に悔しかったですね。
そこからは必死で練習して、実力で認めてもらえるように頑張りました。
演技を先生に見せる機会があったんですが、その時に二種目レギュラーを勝ち取りました。
◆ロシアで合宿を行ったと聞きましたがいかがでしたか?
フェアリージャパンに入って、すぐにロシアに連れて行かれ、日本との環境の違いに正直戸惑いました。
いつ日本に帰れるかも分からない状態で、スケジュールが全く分かりませんでした。
ただ、これを乗り越えれば強くなれると思って頑張りました。
むこうでは、時差調整もなくどんな状態でもすぐに演技ができなければいけないという状況でしたので、自信につながりました。
ロシアでの練習は自分を強くしてくれました。
(※次週へ続く)
1981年12月29日東京都生まれ
(幼少時代から仙台で過ごす)
プリンスホテル所属。06年トリノ五輪でアジア人初の金メダルを獲得。同年5月にプロ宣言をし、アイスショーを中心に活動し、オリンピックキャスター、フィギュアスケート解説、テレビやイベント出演、コラム連載も行う。現在は、イタリアのピエモンテ州の観光大使を務めるなど様々な分野にも精力的に挑戦している。
1972年5月6日生まれ/岐阜県出身
中学から本格的に陸上競技を始め、県立岐阜商業高校、大阪学院大学を経て実業団へ。98年名古屋国際女子マラソンで初優勝、以来マラソン6連勝。2000年シドニー五輪金メダルを獲得し、同年国民栄誉賞受賞。2001年ベルリンでは女性として初めて2時間20分を切る世界記録(当時)を樹立する。08年10月現役引退を発表。
公益財団法人日本陸上競技連盟 理事、公益財団法人日本オリンピック委員会 理事、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員会委員長。その他「高橋尚子のスマイル アフリカ プロジェクト」や環境活動、スポーツキャスター、JICAオフィシャルサポーターなどで活躍中。