今週は、アビスパ福岡の監督、井原正巳さんのインタビューをお送りしました。
◆井原さんにとってサッカーとは?
自分が小さいころは、日本代表がワールドカップには出ておらず、オリンピックもメキシコオリンピック以降出た事がない時代でした。
代表選手にあこがれてというのはあまりない中でサッカーをやっていたなという覚えがあります。
本当に知っていたのは、日本リーグ時代の川本さんが得点王ですごい選手だなと思っていました。
◆当時にアイドル的選手はいましたか?
アイドルという選手は日本人選手ではなかなかいなかったですね。
初めてワールドカップを見たのがアルゼンチン大会で、日本代表の事を情報収集する術がなかったので、目標にしていた選手はいませんでした。
◆井原さんは1967年生まれ、まだ日本にプロサッカーリーグがなかった時代でしたが、どのような夢をサッカーに抱いていましたか?
自分はサッカーをするのがとても楽しくて、サッカーを上手になりたい、将来的にはサッカーに関係する仕事に就きたいと思っていました。
そして、教員になれば自分の好きなサッカーを教える事ができると思っていて、それがまずは目標でした。
高校から大学生になると日本リーグの選手の事を知ることができました。
ただ、その中で自分がプレイする事になるとは思っていなかったので、まずは教員になるために筑波大学へ高校の先生に勧められて入学しました。
◆筑波大学へ進学し、そこで初めて日本代表に選ばれましたが、その時は何を目指していましたか?
自分が日本代表に選ばれた時は大学二年生で、当時はワールドカップもオリンピックも代表に選ばれたら出場できる時代でした。
その為、両方に出たいという気持ちでいました。
そして、日本代表チームもこの二つの大会を目指して頑張っていました。
ちょうど、私が大学生の時にソウルオリンピックの代表予選がありまして、最後の試合で中国のチームに負けて出場を逃したのを見ていました。
そして翌年、自分が代表に選ばれたのでバルセロナオリンピックに向けて頑張りました。
当時は、オリンピックとワールドカップが国同士で戦う唯一の国際大会だったので、この二つを目標にサッカーをやっていました。
※バルセロナオリンピックから出場できる選手の年齢が23歳以下になってしまい、井原選手は残念ながら出場する事ができませんでした。
◆23歳以下という年齢制限が加わったオリンピックサッカー競技、オーバーエイジ枠というのも残っていましたが、オリンピックとは井原さんにとってどういう存在だったのでしょうか?
自分はオリンピック大会予選を戦っていませんが、アトランタに出場する選手は23歳以下の若い選手で、自分は、ワールドカップフランス大会の予選を戦っていました。
アトランタオリンピックに出場する選手たちは、アトランタを経験してから、フランス大会の予選を戦っていたので、彼らのオリンピックでの経験がフランス大会出場へつながったのではないかと思っています。
オーバーエイジに関しては、日本サッカー協会のスタッフや選手もあまりよく分かっていない時代でした。
※この年の日本代表は、オーバーエイジ枠を使用しませんでした。
◆当時、A代表だった井原選手にとってアトランタオリンピック出場選手はどういう存在でしたか?
自分たちにとっては脅威でしたね。競争も激しくなりました。
やはり、ブラジルに勝った事とオリンピックという国際大会に出場した事が彼らの自信にすごくつながっていたと思います。
A代表の先輩方はブラジルにも勝っていないし、世界大会にも出場していないですよねというような強気発言も受けたりしました。
負けていられませんでした。
1981年12月29日東京都生まれ
(幼少時代から仙台で過ごす)
プリンスホテル所属。06年トリノ五輪でアジア人初の金メダルを獲得。同年5月にプロ宣言をし、アイスショーを中心に活動し、オリンピックキャスター、フィギュアスケート解説、テレビやイベント出演、コラム連載も行う。現在は、イタリアのピエモンテ州の観光大使を務めるなど様々な分野にも精力的に挑戦している。
1972年5月6日生まれ/岐阜県出身
中学から本格的に陸上競技を始め、県立岐阜商業高校、大阪学院大学を経て実業団へ。98年名古屋国際女子マラソンで初優勝、以来マラソン6連勝。2000年シドニー五輪金メダルを獲得し、同年国民栄誉賞受賞。2001年ベルリンでは女性として初めて2時間20分を切る世界記録(当時)を樹立する。08年10月現役引退を発表。
公益財団法人日本陸上競技連盟 理事、公益財団法人日本オリンピック委員会 理事、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員会委員長。その他「高橋尚子のスマイル アフリカ プロジェクト」や環境活動、スポーツキャスター、JICAオフィシャルサポーターなどで活躍中。