リオデジャネイロオリンピックのトレーニングパートナーに選出された、
アビスパ・福岡所属 冨安 健洋選手へインタビューしました。
◆いつ頃からプロ入りを意識しましたか?
中学に入るタイミングで、アビスパのジュニアユースをうけました。
自分がこれまでうまいとは思いませんでしたが、アビスパにいたのでプロを目指したのは自然な事でした。
◆プロを目指した時のモチベーションは何でしたか?
プロになりたかったわけではなく、サッカーをうまくなりたいから練習を頑張っていて、自然の流れでプロになれました。
必死に頑張るのがあたりまえだと思っていたので、今でもモチベーションは何もないです。
◆ユース時代について教えてください。
アビスパのジュニアユースでは、中三でキャプテンをやって、チームをひっぱていく立場でもあったので、自分がやらないといけないという気持ちを強く持っていました。
代表活動の方では、国際試合もありますし、日本人以外の選手とやる機会がたくさんあり、初めて国を背負う気持ちを知ることができました。
ジュニアユースとは違う事を15歳の時に体感できました。
◆リオオリンピックでは、トレーニングパートナーとして帯同されましたが、いかがでしたか?
外国人選手の止める、蹴る、運ぶの技術が高いと感じました。
先輩方の練習は、皆さん黙々と練習をしているんですが、自分たちの年代は和気藹々とやっているのですが、そこが違うと思いました。
年代ごとにカラーがあると思うので、違いがあるのは良いと思います。
黙々とやるのも自分に向き合っている事なので良いと思います。
トレーニングパートナー用に要員として呼んでもらい、リオオリンピックの雰囲気を味わえたので、それを後輩たちに伝えて行きたいと思います。
それが、自分の役目だと思っています。
この事を伝えられないなら行った意味がないと思います。
次回は絶対にメンバーに入りたいです。
◆オリンピック後に出場された国際大会で感じた事は?
大きい選手だったり、早い選手だったりいましたが、しっかり自分が主導権を持って、ディフェンスができれば、敵わない相手ではないと思いました。
やればできると思っていました。
課題として残ったのはゴールを守る、ゴール前でボールを奪う、何が何でもゴールをいれさせないという気迫やパワーが自分では欠けていると思うので反省が多いです。
最終局面のパワーの大きさ、ゴールを守りきるパワーや集中力が欠けているのが課題です。
また、ビルドアップの部分で相手のプレッシャーに負け、ミスがあったので、今後改善していかなければいけない部分です。
(※次週へ続く)
1981年12月29日東京都生まれ
(幼少時代から仙台で過ごす)
プリンスホテル所属。06年トリノ五輪でアジア人初の金メダルを獲得。同年5月にプロ宣言をし、アイスショーを中心に活動し、オリンピックキャスター、フィギュアスケート解説、テレビやイベント出演、コラム連載も行う。現在は、イタリアのピエモンテ州の観光大使を務めるなど様々な分野にも精力的に挑戦している。
1972年5月6日生まれ/岐阜県出身
中学から本格的に陸上競技を始め、県立岐阜商業高校、大阪学院大学を経て実業団へ。98年名古屋国際女子マラソンで初優勝、以来マラソン6連勝。2000年シドニー五輪金メダルを獲得し、同年国民栄誉賞受賞。2001年ベルリンでは女性として初めて2時間20分を切る世界記録(当時)を樹立する。08年10月現役引退を発表。
公益財団法人日本陸上競技連盟 理事、公益財団法人日本オリンピック委員会 理事、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員会委員長。その他「高橋尚子のスマイル アフリカ プロジェクト」や環境活動、スポーツキャスター、JICAオフィシャルサポーターなどで活躍中。