【後編】今週は、アテネ、北京とリオオリンピックに出場した日本代表男子棒高跳澤野大地選手にお話を伺いました。
◆オリンピックについて
大学入学し、2年生の時にシドニーに行きたいと思い、5m50cmとんだんですが、当時の通過ラインが5m60cmだったんです。
そして、予選では5m45cmしか飛べず、オリンピックへの思いが足りなかったのかなと思いました。
そこで、2004年のアテネでは絶対に行きたいという思いがすごく強くなった時でした。
◆大学2年生の時にオリンピック出場を逃してからは、怪我などに悩まされたそうですね。
大学4年の日本選手権の直前に肉離れをして、無理矢理出場して、記録なしをやってしまったんです。
でも、そのあとのアジア選手権で代表に選んでいただいたんです。
当時のコーチに入っていた先生が澤野には経験が大事だという事で選んでいただきました。
ここで僕は絶対に結果を出さないと選んだ方にも申し訳ないし、
私が選ばれたことによって選出から落ちた方もいるのでその選手にも申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。
だから、アジア選手権では何が何でも優勝しようと思いました。
大学4年の夏にいろんな事を変えて、アジア選手権に挑んで優勝できました。そこからいろいろと変わっていきました。
◆アテネオリンピックはいかがでしたか?
アジア選手権で優勝してからは、成績も順調でアテネオリンピックに出場することができました。
そして、24年ぶりに日本の選手として決勝に出られました。
ただし、その時のコンディションは、予選中に足をつったりして、決勝に進出したけれど、もう体力の限界でした。
金メダルを争っている2人を見ていると、彼らの中に私なんか見えてないんだろうな。
同じ決勝を戦っているはずなのに対等に戦えていないことに気付きました。
これはもっと頑張らないといけないと思い、でもこれは練習なのか何なのか悩みました。
◆20代後半で迎えた北京オリンピックはいかがでしたか?
この時は、活躍している大先輩に後押しされました。
36歳で朝原さんがメダルを獲得したのを目の当たりにして、自分もまだいけると思いました。
※澤野選手の北京オリンピックの結果は、予選敗退でした。
◆2012年にオリンピックを逃し、2016年のリオに対してはどういう気持ちでしたか?
ロンドンオリンピックを逃した瞬間に、2016年のリオは現実的かどうか考えました。
でも、小学校からオリンピックに出ることが夢で、それに出ないで引退する事が考えられなかったんです。
次はリオだなという気持ちにすぐ切り替えられました。
※8年ぶりのリオオリンピックで、澤野選手は日本の歴史に名を残す結果を出してくれました。
◆35歳という年齢で3度目のオリンピックでやっと入賞していかがでしたか?
あのリオの結果は、これまで応援してくれていた人たちが本当に喜んでくれて、それを見て自分も本当に嬉しかったです。
幸せでした。
この幸せをもう少し味わいたいとも思いました。
まだ、飛べる身体があるのであれば、大好きな棒高跳びを続けていきたいなと思いました。
私が続けている事によって若い選手たちに何かを伝えられて行ければいいなと思いました。
◆2020年の東京オリンピックはいかがですか?
東京目指しますって胸を張って言えたらすごくかっこいいんですけど、今の所まだそこはぼんやりとしか見据えていません。
1年1年身体がやはり変わっているので、そこをうまく消化しながら長くても2020年までなのでやっぱりそこを最終的に目指していけたらいいのかなという思いはあります。
1981年12月29日東京都生まれ
(幼少時代から仙台で過ごす)
プリンスホテル所属。06年トリノ五輪でアジア人初の金メダルを獲得。同年5月にプロ宣言をし、アイスショーを中心に活動し、オリンピックキャスター、フィギュアスケート解説、テレビやイベント出演、コラム連載も行う。現在は、イタリアのピエモンテ州の観光大使を務めるなど様々な分野にも精力的に挑戦している。
1972年5月6日生まれ/岐阜県出身
中学から本格的に陸上競技を始め、県立岐阜商業高校、大阪学院大学を経て実業団へ。98年名古屋国際女子マラソンで初優勝、以来マラソン6連勝。2000年シドニー五輪金メダルを獲得し、同年国民栄誉賞受賞。2001年ベルリンでは女性として初めて2時間20分を切る世界記録(当時)を樹立する。08年10月現役引退を発表。
公益財団法人日本陸上競技連盟 理事、公益財団法人日本オリンピック委員会 理事、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員会委員長。その他「高橋尚子のスマイル アフリカ プロジェクト」や環境活動、スポーツキャスター、JICAオフィシャルサポーターなどで活躍中。