増田明美の、運命の一瞬
2020.08.22
【2020/8/22 O.A】
マイ オリンピック ストーリー。
アスリートたちが感じた運命の一瞬。
今週は、ロサンゼルスオリンピック、陸上女子マラソンの
日本代表、増田明美の運命の一瞬をお届けしました。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1984年8月5日。ロサンゼルスオリンピック。
陸上、女子マラソン。
新しく公式種目となった女子の42.195キロ。
スタートラインに立っていたのは、
ハタチの増田明美。
その二年ほど前、増田は陸上界に彗星のごとく現れた。
高校3年生で、トラック3000、5000、1万メートル、
ロードの10、20、30キロと、すべての中長距離種目で
日本新記録を更新した。
身長150センチのスーパー女子高生! 世間は天才少女と称えた。
だが、それは苦悩の始まりだった。その行き着いた先こそが、
オリンピックのスタートラインだった。
ここから逃げたい。
増田は逃げるかわりに、その不安の中へと、走り出した。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
増田明美
1964年1月1日、千葉県生まれ。
高校で本格的に陸上を始めると、在学中に中長距離種目で次々と
日本記録を樹立。82年2月に女子マラソンの日本記録をマーク。
メダル候補として出場したロサンゼルスオリンピックは途中棄権。
92年に現役引退後は、スポーツジャーナリストや解説者にとどまらず、
活動は多岐に及んでいる。
増田さんの成田高校の滝田監督とのエピソードは有名で
「俺と一緒に富士山のてっぺんに登らないか」
というキメ台詞。実は、当時入部した新入部員達みなが監督から貰っていた言葉。
そんな思い出のひとコマも面白おかしく話してくれる増田さん。
これからもご活躍を応援しております。
マイ オリンピック ストーリー。
アスリートたちが感じた運命の一瞬。
今週は、ロサンゼルスオリンピック、陸上女子マラソンの
日本代表、増田明美の運命の一瞬をお届けしました。
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1984年8月5日。ロサンゼルスオリンピック。
陸上、女子マラソン。
新しく公式種目となった女子の42.195キロ。
スタートラインに立っていたのは、
ハタチの増田明美。
その二年ほど前、増田は陸上界に彗星のごとく現れた。
高校3年生で、トラック3000、5000、1万メートル、
ロードの10、20、30キロと、すべての中長距離種目で
日本新記録を更新した。
身長150センチのスーパー女子高生! 世間は天才少女と称えた。
だが、それは苦悩の始まりだった。その行き着いた先こそが、
オリンピックのスタートラインだった。
ここから逃げたい。
増田は逃げるかわりに、その不安の中へと、走り出した。
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増田明美
1964年1月1日、千葉県生まれ。
高校で本格的に陸上を始めると、在学中に中長距離種目で次々と
日本記録を樹立。82年2月に女子マラソンの日本記録をマーク。
メダル候補として出場したロサンゼルスオリンピックは途中棄権。
92年に現役引退後は、スポーツジャーナリストや解説者にとどまらず、
活動は多岐に及んでいる。
増田さんの成田高校の滝田監督とのエピソードは有名で
「俺と一緒に富士山のてっぺんに登らないか」
というキメ台詞。実は、当時入部した新入部員達みなが監督から貰っていた言葉。
そんな思い出のひとコマも面白おかしく話してくれる増田さん。
これからもご活躍を応援しております。