大林素子の、運命の一瞬
2020.06.27
【2020/6/27 O.A】
マイ オリンピック ストーリー。
アスリートたちが感じた運命の一瞬。
今週は、女子バレーボール界のレジェンド、
大林素子の一瞬に迫りました。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
1988年9月、ソウルオリンピック。
女子バレーボール。
3位決定戦で、中国にストレート負けした日本は、
メダルを獲得できなかった。
東京オリンピックから続いていた連続メダル記録は、潰えた。
茫然とコートに立ちすくむ、赤と白のユニフォームの選手たち。
その中に、大林素子がいた。
「終わった・・・全てが、終わった。帰れない・・・日本には
帰れない。このままソウルで死んでしまいたい・・・」
一年365日、バレー漬けの日々を過ごし、打倒ソ連に燃えていた。
そのソ連に一次リーグで勝てたとき、誰もが、そして大林も思った。
「金メダルが、獲れる!」
しかし、結果は・・・。
選手村の食堂に行く気力もない。
部屋でひとり、レトルトカレーを食べた。
失意の中、味が、しなかった。
「ソビエトに・・・勝てたのに・・・」
大林は、あの死闘を思い出していた。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
大林素子
1967年6月15日、東京都小平市生まれ。
中学からバレーボールを始める。
八王子実践高等学校在学中に、全日本に選出。
名門・日立に入社、山田重雄監督の指導を仰ぐ。
1995年、イタリア・セリエAで日本人初のプロ選手になる。
引退後は、タレントや女優、スポーツキャスターとして活躍。
「打倒、ソ連!」を掲げ、厳しい練習を続けていた当時の日本チーム。
その裏には山田監督による、本気の指導がありました。
「そこで諦めていいのか?」
メダルを目指すアスリートの選手は、
1年でいったいどれくらいこの言葉と向き合うのか?
そんなことをイメージさせた今回のストーリーでした。
マイ オリンピック ストーリー。
アスリートたちが感じた運命の一瞬。
今週は、女子バレーボール界のレジェンド、
大林素子の一瞬に迫りました。
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1988年9月、ソウルオリンピック。
女子バレーボール。
3位決定戦で、中国にストレート負けした日本は、
メダルを獲得できなかった。
東京オリンピックから続いていた連続メダル記録は、潰えた。
茫然とコートに立ちすくむ、赤と白のユニフォームの選手たち。
その中に、大林素子がいた。
「終わった・・・全てが、終わった。帰れない・・・日本には
帰れない。このままソウルで死んでしまいたい・・・」
一年365日、バレー漬けの日々を過ごし、打倒ソ連に燃えていた。
そのソ連に一次リーグで勝てたとき、誰もが、そして大林も思った。
「金メダルが、獲れる!」
しかし、結果は・・・。
選手村の食堂に行く気力もない。
部屋でひとり、レトルトカレーを食べた。
失意の中、味が、しなかった。
「ソビエトに・・・勝てたのに・・・」
大林は、あの死闘を思い出していた。
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大林素子
1967年6月15日、東京都小平市生まれ。
中学からバレーボールを始める。
八王子実践高等学校在学中に、全日本に選出。
名門・日立に入社、山田重雄監督の指導を仰ぐ。
1995年、イタリア・セリエAで日本人初のプロ選手になる。
引退後は、タレントや女優、スポーツキャスターとして活躍。
「打倒、ソ連!」を掲げ、厳しい練習を続けていた当時の日本チーム。
その裏には山田監督による、本気の指導がありました。
「そこで諦めていいのか?」
メダルを目指すアスリートの選手は、
1年でいったいどれくらいこの言葉と向き合うのか?
そんなことをイメージさせた今回のストーリーでした。