瀬古利彦の、運命の一瞬
2020.09.26
【2020/9/26 O.A】
マイ オリンピック ストーリー。
アスリートたちが感じた運命の一瞬。
今週は、伝説のマラソン選手、瀬古利彦の運命の一瞬をお届けしました。
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1984年8月12日、
ロサンゼルスオリンピック、男子マラソン。
スタート地点に、最も金メダルに近い男が、いた。
瀬古利彦。
白地に赤い線が入ったユニホームに、白いキャップ。
表情は硬かったが、彼には背中を押してくれる戦歴があった。
4年前のモスクワオリンピックでは代表に選ばれていたが、
ソ連のアフガニスタン侵攻で日本はボイコット。
「出ていれば金メダルが獲れたに違いない」と誰もが思った。
その証がモスクワ大会と同じ年の
12月の福岡国際マラソン。
瀬古は2時間9分45秒と初めて10分台を切っただけでなく、
モスクワ五輪で金メダルだったチェルビンスキーに勝ったのだ。
その後も快進撃は続く。
81年のボストンで優勝。怪我を乗り越え、
83年には東京国際マラソンで自己最高の2時間8分38秒を記録して
優勝。福岡でも2時間8分52秒でぶっちぎりの第1位。
世界中のランナーが「瀬古には勝てない」と語った。
ロサンゼルスの気温は、ぐんぐん上がっていく。
灼熱の中、運命のレースが、始まった。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
瀬古利彦
三重県桑名市出身。
高校時代から陸上で実力を発揮。高校駅伝で名を馳せる。
早稲田大学に入学、名将・中村清に
出会い、マラソンで開花。
まさに二人三脚で、数々の輝かしい記録を残す。
マラソンは、実に15戦10回の優勝を誇る。
現役引退後も、日本マラソン界を牽引するため、東奔西走の日々をおくる。
最後で発表となりましたが、
「マイオリンピックストーリー運命の一瞬 」
今回で最終回となりました。
最後は記憶に残り続ける伝説のランナー瀬古選手のストーリー。
4年に一度、その一瞬の舞台にかけるアスリート達の生き様。
その人生を池松さんの朗読で聞く。
より深みを感じることができたのではないでしょうか。
いつも楽しみに聴いてくださったみなさん、本当に有難うございました。
マイ オリンピック ストーリー。
アスリートたちが感じた運命の一瞬。
今週は、伝説のマラソン選手、瀬古利彦の運命の一瞬をお届けしました。
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1984年8月12日、
ロサンゼルスオリンピック、男子マラソン。
スタート地点に、最も金メダルに近い男が、いた。
瀬古利彦。
白地に赤い線が入ったユニホームに、白いキャップ。
表情は硬かったが、彼には背中を押してくれる戦歴があった。
4年前のモスクワオリンピックでは代表に選ばれていたが、
ソ連のアフガニスタン侵攻で日本はボイコット。
「出ていれば金メダルが獲れたに違いない」と誰もが思った。
その証がモスクワ大会と同じ年の
12月の福岡国際マラソン。
瀬古は2時間9分45秒と初めて10分台を切っただけでなく、
モスクワ五輪で金メダルだったチェルビンスキーに勝ったのだ。
その後も快進撃は続く。
81年のボストンで優勝。怪我を乗り越え、
83年には東京国際マラソンで自己最高の2時間8分38秒を記録して
優勝。福岡でも2時間8分52秒でぶっちぎりの第1位。
世界中のランナーが「瀬古には勝てない」と語った。
ロサンゼルスの気温は、ぐんぐん上がっていく。
灼熱の中、運命のレースが、始まった。
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瀬古利彦
三重県桑名市出身。
高校時代から陸上で実力を発揮。高校駅伝で名を馳せる。
早稲田大学に入学、名将・中村清に
出会い、マラソンで開花。
まさに二人三脚で、数々の輝かしい記録を残す。
マラソンは、実に15戦10回の優勝を誇る。
現役引退後も、日本マラソン界を牽引するため、東奔西走の日々をおくる。
最後で発表となりましたが、
「マイオリンピックストーリー運命の一瞬 」
今回で最終回となりました。
最後は記憶に残り続ける伝説のランナー瀬古選手のストーリー。
4年に一度、その一瞬の舞台にかけるアスリート達の生き様。
その人生を池松さんの朗読で聞く。
より深みを感じることができたのではないでしょうか。
いつも楽しみに聴いてくださったみなさん、本当に有難うございました。