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雲 雲 雲 木 人々 街並み
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ABOUT

毎週日曜日14:55-15:00(FM FUKUOKAのみ10:55-11:00)オンエア!毎回、世の中の”モノ”を取り上げ、そのモノの 歴史からイマ、未来をショートストーリー仕立てでお送りする番組です。身近なモノが少し、へえ~となるお話をお届けします。

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笠間 淳

声優。4月10日生まれ、広島県出身。
主な出演作品は、ナレーション「すくすく子育て」(NHK Eテレ)、劇場アニメ「THE FIRST SLAM DUNK」(三井寿)、アニメ「ガンダムビルドダイバーズ」(クジョウ・キョウヤ)、アニメ「お前はまだグンマを知らない」(轟二矢)、アニメ「タブー・タトゥー」(カーター)、ゲーム「アイドルマスター SideM」(葛之葉雨彦)など。

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笠間 淳

REPORT

  • 2025.03.02
    第72回 3月2日「塩」前編 
    地球の動物の生命活動に必須の塩。
    塩に含まれるナトリウムがなければ、私たちは生きていけません。

    ナトリウムはカラダに関するさまざまな働きを行ないます。
    私たちのカラダは多くの細胞から成りますが、
    細胞が仕事をできるように浸透圧を調整しています。
    また、温かい・冷たいという刺激を感じたり、
    手や足を動かすための神経での情報伝達を行ないます。
    食物から小腸で栄養を吸収するのにも必要です。

    塩は植物性にも動物性にも属さない唯一の食品で、
    科学技術が発達した現代でも塩の代替品を人工的につくることは出来ません。

    そんな生命の維持に必要不可欠なナトリウムを、
    他の動物同様、人類も自然界の食べ物から摂取してきましたが、
    私たちはやがて、自分で塩をつくるようになります。

    世界で最も古い塩の産地の1つ、スペイン バスク州のサリーナス・デ・アニャナ。
    塩=salina(サリーナ)の名がついたこの地では、新石器時代には、
    岩塩が伏流水で溶けて湧き出た塩水を、土器で煮詰めて製塩していたと考えられています。
    日本では、出土した製塩土器から、縄文時代後期の3,000年前には塩を作っていたようです。

    古来の塩は3種類ありました。
    地殻変動で海水が陸地に閉じ込められ、蒸発して固まった岩塩。
    イギリス チェシャー地方やマリのサハラ砂漠が有名です。
    次に地殻変動で閉じ込められた海水が蒸発してできた塩の湖から採取された湖塩。
    ボリビアのウユニ湖が有名です。
    そして、海水を太陽熱と風で蒸発させて作る天日塩。

    岩塩と湖塩がない日本でつくられてきたのは天日塩でした。

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  • 2025.02.23
    第71回 2月23日「海上コンテナ」後編
    コンテナを利用した物流をコンテナリゼーションと言いますが、
    始まりは、およそ70年前の1956年。

    アメリカ ニュージャージー州のニューアーク港で
    クレーンによって船に積み込まれたアルミ製の箱58個が
    5日後にテキサス州のヒューストン港に到着して
    そのままトラックに積まれて目的地に運ばれた記録があり
    これが最初のコンテナによる海上輸送だとされています。

    実現したのはトラック1台で運送会社を興したマルコム・マクリーンさん。
    当時、ハイウェイの渋滞に悩んでいてたマクリーンさんは、
    このままでは陸上運送は海上運送との競争に負けるという危機感を持っていました。

    そこで考えたのが「船でトラックごと運ぶ」アイデアです。
    途中でトラックごとではなくコンテナだけにしたほうが
    船にたくさん荷物を積めると気づき、まずは船舶用のコンテナを発明。
    その後、コンテナ専用の貨物船まで開発してしまいました。
    マクリーンさんは現在、「コンテナの父」と呼ばれています。

    1950年代以降の世界経済は大きく発展。
    グローバリゼーションが進んで多くの物が東から西へ、北から南へと運ばれるようになりました。
    それを支えたものとして国際的な標準規格が定められた海上コンテナによる輸送が挙げられます。

    コンテナの導入は、港での貨物の積み下ろしも効率化しました。
    運べる荷物のタイプも、コンテナの種類が増えたことで、多様化。
    それがなければ、現在のような物のグローバリゼーションは実現しなかったでしょう。

    あなたのお宅や部屋にある大切な何かも
    そんなコンテナに積まれて海の向こうからやってきたものかもしれません。
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  • 2025.02.16
    第70回 2月16日「海上コンテナ」前編
    「20世紀最大の発明のひとつ」と言われているのが、海上コンテナを利用した物流。
    経営学者ピーター・ドラッカーも「世の中を一変させたイノベーション」と評しています。
    2回にわたって説明していきましょう。

    まず、サイズ。
    どのくらいの大きさだと思いますか?

    一般的な海上コンテナは20フィートと40フィートの2つサイズがあります。
    のちほど説明する“種類”によって多少違うのですが、おおよそ

    <20フィート>
    長さ 6m弱 / 幅と高さ約2.5m

    <40フィート>
    長さ約12m / 幅と高さは20フィートと同じく約2.5m


    そして、主な海上コンテナの種類を紹介しておきましょう。

    <ドライコンテナ>
    一般的な海上輸送で使われている最もスタンダードなタイプ

    <リーファーコンテナ>
    温度管理ができて冷蔵・冷凍品等に使えるタイプ

    <タンクコンテナ>
    液体・ガス・化学薬品などの輸送に使われるタイプ
    <オープントップコンテナ>
    天井部分の取り外しが可能で上部からの出し入れができるので
    高さがある貨物の輸送に使うタイプ

    <フラットラックコンテナ>
    壁や上部の天井が無く、背の高い貨物や幅の広い貨物の輸送に使用されるタイプ
    大型機械など重量物に対応できます

    海上コンテナを利用した輸送が登場したのは70年ほど前のこと。
    現代社会では、ほぼどの国や地域に暮らしていても、自国産品だけでは生活できません。
    海の向こうからやってくるモノが必要不可欠。
    コンテナは、そんな私たちの暮らしを支えている、縁の下の力持ちのような存在なのです。
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  • 2025.02.09
    第69回 2月9日「仕事着(ユニフォーム)」後編

    明治維新を経て新たな時代に入った日本が目指したのは、
    欧米に肩を並べられる国になること。

    西洋人と交流を持つようになった上流社会の男性は、
    それまでの和装を洋装へと変えました。
    洋装は皇族の対外的な服装、官僚の制服、軍服にも取り入れられ、
    やがて一部の職業の制服にまで広まりました。

    殖産興業の結果、日本は紡績業・繊維業・縫製業が盛んになり、
    絹・綿・羊毛など、衣服の原料が豊かになったため、
    国営の鉄道・船舶・郵便・工場でも制服が定められたのです。
    また、学生服も広く浸透していきました。

    そして、現在のように、仕事着(ユニフォーム)が、
    より機能性に優れ、ファッショナブルになったのは戦後のこと。
    特に大きなきっかけは1970年の大阪万博だったと考えられています。

    コンパニオンと呼ばれる案内係の女性は、
    当時世界で大ブームになっていたミニスカートを着用。
    これが話題となったため、大手企業や新興企業では、
    制服のデザインをデザイナーに依頼してファッション性を取り入れたのです。

    その後、特にワーキングユニフォームの分野における縫製技術が向上。
    より着心地がよく、動きやすく、安全にという改善がなされてきました。
    また、素材加工の技術も進歩を遂げています。

    働く側としては、仕事へと気持ちが切り替えられて安全に快適に作業ができる、
    会社側としては、社内に一体感が生まれ、対外的なブランディングに繋げられる
    仕事着(ユニフォーム)は、日本文化の1つと言えるかもしれません。
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  • 2025.02.02
    第68回 2月2日「仕事着(ユニフォーム)」前編
    現代社会では多くの人が仕事着を着ています。
    医師 / 電車の運転士 / 裁判官 / 工場で働く方 / 物流の現場で働く方など。
    それらの仕事着の源流を1つにまとめるのは難しいですが・・・

    歴史を振り返ると仕事着は身分を表したり、権威を知らしめるものでした。
    日本では飛鳥時代に聖徳太子が冠位十二階を制定。
    朝廷で働く人を12の位階に分けて異なる冠の色にしています。
    その後の平安時代には、貴族は身分で衣服に使える色が決められていました。

    時が経つと職業集団が、同じユニフォームを身につけるようにもなります。
    わかりやすい例が、江戸時代の消防士である火消し。
    ここには社会への身分提示という意味の他に仲間との連帯意識の構築の意図が伺えます。
    現在のスポーツにおけるユニフォームが、チーム結束に一役買っているのと同じでしょう。
    火消しは明暦の大火の後、丈夫な生地と織り方の火事羽織を着るようになります。
    危険を考慮し、より機能性を考えてのことでした。

    ほどなく、イギリスで産業革命が起こり
    その技術革新で大きな恩恵を受けたのが繊維産業です。
    紡績機や織機が機械化されて、性能が飛躍的に向上。
    高品質の生地が安価で手に入るようになって
    仕事着(ユニフォーム)の供給と需要は拡大しました。

    産業革命は市民に富とゆとりを生み、また王政から市民社会へと移行していく中で
    人々は礼節のため、自身の評価のため、服装への関心を高めます。
    その中で自分の仕事に向いた実用的な仕事着を身につけるようになりました。
    近代ヨーロッパでは、人は身なりで職業がわかったといいます。
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  • 2025.01.26
    第67回 1月26日「ビスケット」後編
    1543年に種子島にやってきたポルトガル人が日本にもたらしたビスケット。
    残念ながら当時の日本人の好みには合わず、江戸時代には外国への窓口があった
    出島近郊の長崎でのみ、外国人に向けて作られていたようです。

    そのビスケットが、幕末になって保存のきく兵糧として注目されます。
    水戸藩の蘭医 柴田方庵という人物が、長崎でオランダ人から学んだビスケットの作り方を藩に送った手紙が残っています。また、薩摩藩も兵糧として準備していました。

    そんな時代を経て明治・大正時代になると菓子店でビスケットの製造・販売が始まります。
    日本で最初にビスケットを研究して製造、販売したとされるのは米津松蔵という人物。
    1875年(明治8年)のことでした。

    この方は、その2年後の第1回内国勧業博覧会にビスケットを出品。
    最高賞を授与されています。イギリスからビスケット製造機を購入した記録もあります。

    ビスケットの美味しさが飛躍的に向上するのは戦後。
    材料の供給が回復し、製造方法の機械化が進み、大量生産も可能となりました。
    1971年(昭和46年)にはビスケットの輸入も自由化されています。

    そんなビスケット。
    今では美味しいものがたくさんありティータイムを至福のひと時に演出してくれています。
    あなたはどんなビスケットが好きですか?
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