アシタのアタシきつね

第10話

「おかーさーん」
小さな女の子が、とてとてと母を追う。
「るーり、早く早く」
優しげに微笑む女性が、女の子を呼ぶ。
後ろには、赤い夕日。
女の子はやっと追いついて母の手を掴む。
そして、繋がった手はゆらゆら揺れて優しい空気が二人を包みこむ。
「瑠璃、綺麗だねぇ」
「ぜーんぶオレンジだね」そう言って辺りを見回す女の子。
「橋も、川も、ビルも、びょーいんも、おかあさんもオレンジだね」
「瑠璃もオレンジだよ」
繋いだ手をそっと離して艶やかな黒髪を撫でる。
「ほんと?瑠璃もオレンジ?」
嬉しそうに微笑む女の子に、うん、と頷いて川原に座る。
女の子は母の膝の上に座って、二人は空を見上げる。
「おかあさん、お月様もいるー」
短い指で白く浮かんだ月を指す。
「ほんとだね、お月様も太陽もいるね」
「おかあさん、お月様には兎が住んでるんでしょ?」
ぴょんぴょんと膝の上で軽く跳ねて振り返る。
「うん、居るかもね」
母は柔らかく笑って、女の子を膝から下ろして立ち上がり、また歩き始める。
「よーし、瑠璃、良い事思いついた」
「なぁにー?」
「うさぎ屋さんに行って、瑠璃の大好きな大福買って帰ろーか」
「やったあ!」
「じゃぁ瑠璃、競争ねー」
夕空に仲良く駆ける親子のシルエットが浮かぶ――。

今、目の前に赤く染まった封筒がある。
真ん中に突き立てた包丁。

そして……それを見つめる「あたし」。
もう冷たく動かなくなってしまった「母」。

そーなんだよね。
あたし生きたいんだよね。
死んでもいいけど、それ以上に「生きたい」。
母と父と輝と佐藤と、それからあたし。
皆の気持ちが一つになって、あたしを一つの答えへと導いていく。

本当にあたし生きてもいいの?

ぽろぽろぼろぼろ涙がこぼれる。
顔は矛盾して笑ってしまう。
意味解らん。
嬉し泣きしてます、あたし。
胸の中心からモヤモヤがすぅーって居なくなる感じ。
涙と一緒に流れてく感じ。

あたし、生きてていいんだ!!

何度も何度も回想する記憶の中の、あの手紙が物語っていた。
母の曲がった字で書かれた、まっすぐな言葉が目蓋に記憶に心に残る――。


瑠璃へ

こんばんは、かな。
瑠璃、あなたと一緒に死ぬのは止めました。
一人で死ぬことにしたのです。
娘を道連れにして死ぬなんて、親のすることじゃない。
本当に自己中心的で馬鹿な親でごめんなさい。
でも、あなたの中に居る尚人に気づいてしまったの。
あたしが、愛した尚人に。
意味解んないよね。
まず、「尚人」というのはあなたの父親です。
今まで、お父さんの事を何にも話さなくてごめんなさい。
実は話せなかったんです、お父さんに止められていたから。
お父さんは、病気になりました。
一人では歩けないし、まともに喋ることだって出来なくなりました。
あたしは愛していたから結婚したかったけど、
尚人は、あなたに迷惑掛けたくないの一点張りで、一緒にはなれなかった。
それから、一生病院での生活になってしまっても、
あたしは、何故だか不幸とは思わなかった。
尚人は、ずっとあたしと瑠璃だけを見てくれていたから。
不便ではあるかもしれないけど、不幸ではなかった。
よくあの橋のそばを散歩したのを覚えていますか?
あそこは、お父さんの病室の窓からよく見える場所だったんだよ。
楽しそうにはしゃぐあなたのことを、自分のことのように楽しそうに話してた。
お父さんは、ずーっと瑠璃のこと気に掛けていたんです。
瑠璃、お父さんね、あなたを愛していたの。

何回も話そうって思ってた。
でも、一年前お父さん突然具合悪くなって、
……死んでしまった。
今でも覚えてる。
苦しそうに息して「瑠璃、瑠璃」って呼びかけるの。
あたしが連れてくるって言うと、弱々しく腕を掴んで引き止めてた。
「迷惑は掛けたくない、こんな父親は要らない」って。
それでいて「墓参りは二人で来いよ」って苦しげに笑うもんだから、
「行かないわよ」「自分で瑠璃と逢って」なんて言ってしまった。
その後も「瑠璃、瑠美子」って何回も何回も呼ぶから、
あたしは「ずっとそばに居るから」と強く手を握りしめてた……。
そして、最後は「ごめんな」って言って息を引き取ったの。
あたしの世界は、そこで終わってしまったわ。
だけど、あたしは尚人にずっとそばにいると約束した。
だから、あたしも尚人のところに行こうって、
瑠璃と尚人とあたし三人一緒にいようって。
尚人の命日に死のうと思った。

あとはこの通り。
あの元気なころの尚人の写真を見たら、あなたと一緒に死ぬなんて出来なくなってしまった。
馬鹿だよね。
きっと尚人は、あなたが死ぬことなんて望んでない。
誰よりも一番、あなたを愛していたし、本当に一生懸命生きた人だから。
あたしは、そんなことにも気づかずに一緒に死のうとしてた。
ごめんね。
でもね、今なら言える。
生きて生きて生きて。
お願いだから。
あたしと尚人が紡いだ愛の証を絶やさないで。

あなたはとげとげしくて人付き合いの苦手な子だけれど、中身は優しくて、綺麗な子。
だって、あたしと尚人の子だよ?
悪くなりようがない。
あなたなら、きっと一生懸命生きてゆける。
あたしみたいに挫けずに強く生きていける。

本当に無責任で自分勝手な親でごめんね。
瑠璃、心の底からあなたを愛してる。

瑠美子より


あたしは、ちゃんと覚えてる。
絶対絶対覚えてる。
この手紙も、おかあさんも、おとうさんも。
生きてる限りずっと。
この身体にあなた達の血が流れてる限りずっと。

暗闇の中に一筋の亀裂が、水平に入るのが見える。
僅かな光が差し込んでくる。
眩しい。
次第に亀裂は、上へ下へと広がって世界が露わになる。

目をつむっていただけだったんだ。

世界は暗闇じゃない。
世界は孤独じゃない。
目を開けば、周りを見回せば、ほら。
おかあさんも、おとうさんも、輝も、佐藤も。

あたしの生きる世界。

守ってはくれないかもしれない。
時に傷つくかもしれない。
それでも、孤独じゃない。
小さな幸せも転がっているだろう。
明日に希望を持って生きていられるだろう。
だからね、あたし生きてみようと思う。
あたしは親公認の強い子だから。

おかあさんの世界。
おとうさんの世界。
輝の世界。

みんな、世界が終わってく。
そして、始まってく。
変わってくんだ。
あたしも、変わらなくちゃ。
今夜は「世界が終わる夜」。
明日は「世界が始まる朝」。


 憂いの雨が止み、
 希望の空の下に
 あたしは立つ。
 愛された地上に
 あたしは立つ。
 空を見上げて
 あなたを想う。
 地を見つめて
 あたしを想う。

 空と地面と、
 昨日と明日が、
 あたしを包んで、
 静かに見つめる。
 希望が満ちて、
 愛を詰め込んで、
 そしたらきっと、
 きっと輝ける。

 ミライのアタシ

 アシタのアタシ。


これからも、あたしは生きていく。
当たり前のことかもしれない。
惨めでも、汚くても、浮いてても、あたしは強く立って生きていく。
傷つくのを恐れて言いたいことも言えない、やりたいことも出来ない。
そんなつまらない人生にさよならする。
だって、人生は一回きりしかないのだから。
時に絶望したり、悔しくなったり、憤ったりするだろう。
死にたくなっちゃうときもあるかもしれない。
そう、これから先に何があるかは解らない。

あたしが神様だったら、こんな世界は創らなかった。

でも、あたしは神様なんかじゃない。
あたしはあたし。
神様なんかにならなくて良かった。
「あたし」に生まれてきて良かった。
おかあさん、ありがとう。
おとうさん、ありがとう。
みんな、ありがとう。

窓を開けると、心地よい風が月明かりと共に部屋を満たす。
同時に湿った空気とガスも逃げていく。
そして最後に、あのオンブルローズの香りがあたしの頭をそっと撫でていった――。

「森口ー」
気の抜けた声に、あぁん?と振り向くと佐藤。
「保健の単位やべーぞー」
そう言いながらあたしの隣をスキップしながら走り去る。
「あんたは頭がやべーぞー」
あたしは、思いっきり中指を立てて叫ぶ。
「お前もスキップしてみー。テンションあがるぜーー」
やれやれ、これやから精神年齢低い奴はほんま困るわ。
なんも悩みとかなさそーやんな。
かーっ、羨ましーわー。
つか、あれやんな。
これが俗に言うアホっちゅーもんやな。
「何笑ってんの?」
本を両手いっぱい抱えた輝の姿。
そういう輝も笑ってこっちを見てる。
ってか。
「顔近いねんけど」
あたしは、めんどくさそーに眉間に皺を寄せてしっしっと手を振る。
「先生が、図書当番サボるなだって。何で関西弁?」
「まあ、ええやん。関西弁好きやねん」
輝の脇腹をコンと小突いて、窓の外の青空を見る。

白く輝く太陽が、あたしを照らす。

今日は気分ええし、空も晴れとる。
窓ガラスにあたしのニヤついた顔が映っている。
途端に恥ずかしくなる。
「森口、呼んでる」
輝は階段下を指差す。
「瑠璃ー!待ってんだから早くしてよー!!」
友達が叫んでる。
「今、行くー!」
あたしも叫んで階段へ向かう。
すれ違いざま、輝にデコピンを喰らわして。

あたしは、軽やかなスキップをして走り出していた――。

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第10話アシタのアタシ

蒼き賞
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