満月の扉辻村アズサ

第10話 扉の向こう

佐伯瑞穂はソッと溜め息をついた。
唇からこぼれる白い吐息が空気中へ舞い上がる。マフラーに口元をすっぽりと埋めて、彼女は容赦なく襲ってくる冬の寒気に小さな抵抗を見せた。
季節はすっかり冬である。
クリスマスまであと10日。もう随分前から、街はイルミネーションに彩られている。上を見上げれば灰色の空。前を見つめれば灰色の街。雪さえ降ればそれなりにロマンチックな風景に映るんだろうな……とぼんやり思った。セーターを中に挟んだ冬の制服。更にモコモコしたコートのせいか、少し、動きにくい。
(バス、まだかな……)
もう一度溜め息を吐いた。
街頭のテレビからは、新政府よりの臨時放送が流れている。瑞穂はそれに耳を傾けながら、少しだけ眉をひそめた。
__クリスマス前なのに、物騒な話。まあ、私には直接関係ないことだろうけど。
それはなんだか、遠い夢のような話のようにも思った。夢は見ている時は鮮明だけど、目が覚めてしまえば幼い頃の記憶のようにおぼろなものになってしまう。テレビ画面から聞こえてくる内容も、自分が今ここに佇んでいる感覚も、なんとなくだがそれに近いようなものだと、瑞穂は夢想した。
バス停のベンチは凍っているように冷たい。コツを使って腰を下ろさなければ、太股に痺れるほど強烈な冷たさを感じ、飛び上がりそうになる。周りには瑞穂以外、誰も居ない。向かいの通りにもこちらの通りにも人気はない。そのかわり、車道を走る車の群れはいつもと同じように行き交っている。
途中のコンビニで買ったホットコーヒーを取り出す。寒さのせいだろうか、購入した時はあんなに熱かったのに、今ではすっかり温いくらいの手触りとなっていた。
切れるような空気の冷たさは、どんなに抵抗を試みても、襲いかかってくる。この地方に押し寄せる今年の寒波は、近年類を見ないものだという。
コーヒーを一口飲む。
じんわりと染み渡る暖かさを味わっている時、携帯電話が鳴った。
コートのポケットをまさぐり、取り出す。
吉村トオルからのものだった。
「……もしもし、吉村?」
受話器の向こうからは、トオルの弾んだ声が返ってきた。
『あ、佐伯?今どこ?』
「学校前のバス停。あとちょっとでバス来るけど、間に合う?」
『いや、ちょっと遅れそう……オレは最悪、タクシーでそっち向かうからさ、佐伯はバス乗って先行ってて』
「了解。あまり遅くならないようにね」
瑞穂はそう言うと、電話を切った。
北風が、鋭い音をたてて横切った。
コーヒーを飲み干す頃に、バスがゆっくりとやってきた。緑色に塗られた車体が停車する。ゾロゾロと数名の客が降車するのと入れ違いになって、瑞穂は乗車した。券を取り、キョロキョロと見回す。窓際の1人用の席が空いていたので、そこに座ることにした。
さすがに車内は暖房のお陰で暖かい。むしろ、服を着込んだ瑞穂にとっては少し暖かすぎるほどだった。かじかんだ手足を小さくさすりながら、ソッと窓の外へと視線を向ける。緩やかに流れてゆく景色。その上に被さる重たい空。
(雪、絶対降りそう……)
今朝のニュースでも、昼頃には雪が降り始めるかもしれない、と言っていた。大雪にはならない程度のものだと聞いたが、それでも帰りは用心しよう。
なんとなく手持ち無沙汰な気分になって、白く曇る窓にソッと指先だけで触れてみた。5つの小さな斑点が浮かぶ。
バスは緩やかに、街から郊外へと向かって走行していく。

ショリショリと、林檎の皮を剥く音が静かに室内に響いている。
白い壁、白い天井。それは一見すると清潔感のあるようにも見受けるが、なんとなく無機質な棺のようだな……と縁起でもないことを、寝起きで朦朧としている頭で考えた。
「それにしても」
彼女はゆっくりと切り出してきた。
理知的な顔立ち、それを際立たせる洒落た眼鏡、そして白衣。彼女の風貌は相変わらずのものだ。
「……なんといえば、良いのやらね」
溜め息混じりの苦笑い。そこには希望と、それから申し訳なさが入り混じっていた。
小さく切り分けた林檎の1つにフォークを突き刺し、「食べる?」と訊いてくるが、「いいえ」と断る。特に腹は減っていなかった。
「君のような現象にみまわれた人間、確認してみたところでは現時点で、世界でもいるかいないからしい。これは、想定の範囲外だったみたいだ」
「上の人達は、どういった対処をするつもりなんですか?」
「今のところは、様子を見ながらこうやって地区ごとの監査官をカウンセラーだと偽って派遣させ、精神面のアフターケアをさせるつもりらしい。ま、偽といっても、一応はそういった資格を持つ人間なんだけれどね。それから経過を見て、記憶を抹消するか否かを検討するらしい」
と、佐竹由美子は林檎をかじりながら説明した。
俺は、それを夢のことのように聞いていた。実際、これが現実なのかも怪しいところだ。
長い長い、本当に長い夢を見ていたような気がする。
「私が、あの時もっと、君と水嶋のやり取りの配慮をしていれば良かった。いや、それ以前に君をあの場所へ立ち会わせなければ__ そうしたら、こんな風に重傷を負わせることもなかったのに……」
確かに、そうだったかもしれない。あの時、俺をあの場所へ介入させなければ、あるいは俺と水嶋のやり取りに圧倒されず佐竹が監査官として間に合っていれば、大事に至ることはなかった。
けれど__、
「先生」
呼ぶ声が、心なしか震えた。そういえば随分以前に、「先生と呼ばなくていい」なんて言われていた気がするけれど。
「だから、別に先生じゃなくても……」
「__ありがとう」
俺の言葉に、佐竹は目を見開いた。
俺は、佐竹を心の中で少しだけ責めると同時に、感謝していた。なんとなく、ああすることが、あの時の俺にとってはベストだったような気がする。マユに会えて彼女の気持ちを知ることが出来た。水嶋と本心をぶつけあえた。それはきっと、二度と出来ないことだっただろう。
佐竹は複雑そうに唇を歪め、小さく微笑んだ。
「……いや、私こそ、そう言ってくれてありがとう」
ふと、半端にかじりついた林檎に佐竹は視線を落とし、処理に困ったように眉を寄せてみせる。それから、殆どヤケクソのようにシャクシャクと林檎を胃袋へと収めていった。
最後の林檎を食べ終えると、さて、と彼女は呟きながら席を立ち、
「それじゃ、また後で改めて来るよ。大事な妹さんを、こちらに送り届けないといけないからね。ま、今は1日1日を噛み締めると良い」
口紅を塗り込んだ唇を綻ばせ、
「石島君」
そう呼んだ。

__俺は、生きていた。

「本当に、嘘みたいだよな」
1人きりの部屋に向かって、俺はソッと呟いてみる。
傷は、本当に危ないものだったらしい。手術も難航し、全てが終わったのは、日付が変わり、世界が変わってようやくのことだったそうだ。左胸に感じた衝撃。そこには小さな痣は残ったものの、佐竹が水嶋のマンションから出て行く際、事前に装備するよう言い渡してくれた防弾チョッキと、それから、コートの胸ポケットに納めていた鈍色のペンダントが、幸いにも銃弾を緩和してくれたとのことだ。最初聞いた時は、そんな馬鹿なことがあるか、と思った。率直な感想は、それだった。防弾チョッキならまだしも、よりによって、マユの形見だったペンダントが盾になるだなんて。
そしてなにより、佐竹を始めとした事情を知る特例の者達が驚愕したのは、俺が元々生きてきた世界の記憶を保有したまま、目覚めたということだった。
これは異例のことらしい。というより、想定していなかった事態らしい。もしかしたら、意識が不安定な状況で世界の統合を迎えたから__つまり、生と死の狭間を漂っていたことによる作用ではないかという予想も出てきているとかで。世界各地でも同じ例が報告されており、この計画の大元の実行者たちは、その対応を慌てて検討中とのことだ。佐竹もその関係で、今日から面会許可の下りた俺の元へ毎日通い、アフターケアや上への報告等に追われる日々だということだ。
「……先生も大変だ」
思わず苦笑いをこぼす。
生温い水に浸かっているような頭。意識が回復してから、もう1週間は経過しているのだが、まだ思考回路はスムーズに働いてくれない。俺は手術が成功した後も、およそ1ヶ月間眠り続けていたそうだ。
だから本当に長い夢を、その間に見ていたような気がするのだ。けれど、決して悪夢ではないことは断言しておく。たぶん、幸せな夢だった。
俺の思考を優しく遮断させるようなノックの音。ゆっくりと、病室の引き戸が開かれる。
そこには、父さんと、片手に大きなバックを持った母さんが佇んでいた。
「浩輔、具合はどう?」
母さんが柔和な笑顔を浮かべながら、こちらへとゆっくり歩み寄ってくる。父さんも、遠慮がちだが、何かを噛み締めるような表情で俺のベッドへと足を向けてくる。ベッドの脇のパイプ椅子へと腰を下ろし、柔らかな視線でこちらを見つめ、そして、母さんは俺の傷のない右手を握った。
「大丈夫だよ。相変わらずボーッとしてるし、痛み止めを使ってるにしてもやっぱり傷が痛む時は不便だけど、でも、大丈夫だよ」
母さんの穏やかな問いに答える俺の声も、穏やかだった。
「そう、良かった。一応、着替えなんかも持ってきたのよ」
母さんはそう言うと、ベッドサイドの棚の上へと荷物をおろした。
それから、安堵したように溜め息をついた。
「今日は雪が降るんですって。ねぇ浩輔、クリスマスまであと10日よ。本当に、あなたの意識が戻ってくれて、良かった……」
そして母さんの目からは、大粒の涙がこぼれた。
__2人の中では、俺は家に押し入られた強盗に発砲され、そしてこのままこの病院へと搬送されたという風に記憶を改ざんされているらしい。母さん達が生きてきた世界の息子の記憶__少年兵として死んでいった彼の記憶__は、全てなかったことになっているそうだ。今の彼女たちにとって、これは1ヶ月ぶりの息子の帰還であり、俺にとっては半年ぶりの両親との再会だった。
目覚めて数日は、その現実をなかなか受け入れることが出来なかった。勿論、違和感がないように装っているし、今も、少なからずそういった状況だ。
見えない溝が、俺には見えているからだ。
この溝は、俺の記憶がいずれ改ざんされるまで、埋まることはないだろう。俺だけが知っている記憶にまつわる深い溝。けれど、それを越えた先で、俺達は見つめ合っている。
「今日は、あんまり長居出来ないかもしれないな」
窓の外を眺めながら、父さんは残念そうに言った。
「雪、予定では昼頃に降るそうだ」
「車で来てるんだから、仕方ないよ。スリップ起こしたら怖いしね。今日は早めに帰って貰ったほうが、俺も安心する」
2人の優しい微笑みが、俺へと降り注いだ。
偽りであって偽りでないものがそこにある。透けているわけではない、夢物語でもない。手を伸ばせば触れられて、語れば暖かな声が返ってくる。
縋りたい温もり。ずっと求めていた温もりを、俺はこの体で実感していた。

両親が言った通り、灰色の空は穏やかな雪を街へと降らせた。ちょうど2人が病室を出て行ってから、15分ほど後の話である。俺はぼんやりと、窓の外の冬景色を眺める。鮮やかな白が、この世界を覆い尽くそうとしていた。
いつも俺が眺めてきた色と殆ど同じ。主色は灰色で、目立った有彩色はほんのお飾り程度にしか過ぎない。
そこに今、冬の白さが加わろうとしている。
天から降る白い空の破片は、水嶋の最後を、俺に思い出させた。
__こんな世界なんか、大っ嫌いだ。
水嶋が吐き捨てた言葉を、俺はゆっくりと反芻する。そして、呑み込んだ。もう、彼を知る者は__彼を利用した大人達と、同じ運命を背負う子供達を除けば__俺しかいない。水嶋が存在した痕跡は、全て消え去ったのだ。それが、ルールだったから。それを、水嶋は望んでいた。
「……水嶋」
曇る空へと向かって、俺は呟いた。虚しい気持ちと希望が、同時に唇からこぼれ落ちた。
「この世界は、たぶん、そんなに悪くないよ」
もしかしたら。もし、俺とお前が1人の人間同士として、あるいは何の変哲もないクラスメートとして言葉を交わしていたなら、俺はお前を救えたかもしれない。仮に救うことが出来なかったとしても、あんな形でお前をこの世界から消すことはなかった。
もっと別の方法でお前を知って、もっと別の方法でお前と語って……。
後悔の気持ちに際限はない。俺はそこで、考えを止めることにした。
不意に、控え目なノックの音が響いた。
「__はい」
俺が返事をすると、ドアの向こうから、2人の人間が顔を覗かせた。
見舞いに来てくれたらしい、トオルと瑞穂だった。

「浩輔ぇ〜ともあれクリスマス前に意識が戻って良かったな〜!」
トオルは僅かに涙ぐみながら、ウォンウォンといった口振りで、相変わらずのお調子者ぶりを発揮していた。
「今年は病院でクリスマス過ごしちゃうんだろうけどさ〜オレはお前の心のサンタになって、でっけぇプレゼントを届けに来ちゃうからな!やっぱこんな禁欲的な毎日だし、内容は大人への階段を昇る的なもので良いか……がっ!?」
瑞穂のアッパーカットが、トオルの顎を直撃した。
「吉村……アンタってばほんと、どうしようもないわね。ここ病院よ?もっと口を慎みなさいよ」
瑞穂は、まるで悪魔のような笑顔でトオルを凝視し、右手は拳を維持しつつ口を開いた。トオルは顎をさすりながら反論する。
「い、良いじゃんかよ〜!今日なんかオレ、寝坊したにも関わらずちゃんとこうやって時間内に駆けつけて来れたじゃ〜ん!!」
「は?アンタ、寝坊してたの?」
まるで毒蛇の睨みを連想させるような視線でトオルを空間に縫いつけながら、瑞穂は唇を割る。
「あんなクールな物言い珍しくするから、ちょっとは真面目に誠実に浩輔のとこに来る気なのかと思えば……」
「もう〜佐伯ってば馬鹿だなぁ。オレがそんな、マジメになるわけないじゃん。オレがマジメな横顔を見せるのは未来の嫁の前でだけだって言っ……痛いです、佐伯サン。いやほんとに痛い」
痛い痛いと身悶えながら嘆くトオルを不審に思った俺が視線を下げると、瑞穂の足がグリグリと彼の爪先を踏みにじっていた。
「ていうか、そもそも寝坊しないようにしなさいよ。特にこういう大事な日とかはさ……」
「わっかりましたぁ。わかりましたから、あの、佐伯サン、そろそろヤメテ」
「……ったく」
2人は相変わらずのようだった。本当に泣きたいぐらいに嬉しいことだったけれど、俺はそれを堪えるようにクククと喉を鳴らして小刻みに笑った。
ふう、と嘆息じみたものを瑞穂は唇から漏らし、それから、
「馬鹿浩輔」
今にも泣きそうな笑顔で、俺の顔を覗き込んできた。
「馬鹿って……」
「馬鹿は馬鹿よ。馬鹿以外に言いようがない。みんな、どれだけ心配したと思ってんのよ」
「んだんだ。早く退院してよ、浩輔。オレ浩輔来ないと激しくつまんねーもん学校」
「……ごめん」
瑞穂もトオルも、いや、俺を知る全ての人間の記憶も、両親同様に改ざんされているという話を、佐竹から聞いていた。
約束も、電話で交わした言葉も、きっと彼らは覚えていないのだろう。
「来年には退院して、みんなの待ってる教室に帰ろう?」
瑞穂の言葉に、俺は頷いた。
それから、彼女の胸元で揺れる、鈍色のペンダントに目をみはる。
「それ、どうしたんだ?」
「え?」
問われた瑞穂は一瞬驚いたような表情で俺を見、「ああ」とはにかみながらペンダントのトップを摘んでみせた。
「マユちゃんがくれたんだ。理由はどうだったか思い出せないけど、ずっと前に」
それは、マユの形見と殆ど同じ造形を模していて、如何にも女の子が好みそうなデザインに少しばかり改造された男むけのペンダントだった。
__じゃあ、あれは瑞穂に送ろうとしていたものだったのか。
事故の日、俺の問いにマユは微笑みながら自分で使うと言った。そうまでして隠したかった渡す相手は、瑞穂だったのか。それには拍子抜けすると同時に、少しばかり安堵した。
「そっか。似合うな」
「……え」
瑞穂の表情が凍った。それから、ゆっくりと紅潮していく。それを傍目から見ていたトオルはニヤニヤと微笑みながら、俺と瑞穂を交互に見比べ、
「それじゃ、年老いたオレはちょっと席を外しますんで。後はお若い2人で仲良くするんだよ」
不気味な笑い声を響かせながら、病室を出ていこうとする。瑞穂は赤面しながら怒鳴った。
「ちょっと吉村!?なにアンタはふざけたことを!!」
「瑞穂、ここ病院だから」
俺にたしなめられた瑞穂は、うっと言葉を詰まらせたまま、ゆっくりとパイプ椅子に沈んだ。それから、一息ついたような表情で口を開いた。
「ねえ、浩輔」
「ん?」
「私ね、変な夢見たんだ」
「変な夢?」
瑞穂はコクリと頷く。
「よく覚えていないんだけど、暗闇の中で、私は浩輔と電話をしているの。その電話でね、私は浩輔に『ありがとう』って言われている」
一瞬だけ、時が止まったような気がした。それから、どうしてだか目の奥が熱くなってくる。それを懸命にこらえながら、俺は柔らかめな笑みを浮かべた。
「俺も、同じ夢を見たかもしれない」
「ほんと?」
「ああ。もう、殆ど朧気になってしまっているけど、俺もそういう夢、見たよ。俺が瑞穂に、『ありがとう』って言う夢」
「そっか」
瑞穂はどこか安心したように呟いた。それから、白く曇り始めた外界を静かに見つめ、照れくさそうにはにかんだ。
「__私ね、これからも浩輔の傍に居るよ。どんな形でも」
「え?」
「……まあ、私達の腐れ縁は切れそうにないってことよ」
瑞穂は慌てたように言葉を被せた。
__俺がその言葉に応える日は、そう遠くないだろうな。
彼女の横顔を見つめながら、俺はなんとなくそう思い、ふっと綻んだ。勿論、今はこんな心の内なんて、彼女に言うわけないけれど。

瑞穂達が帰ってから、どのくらい眠っていたのだろう。薬の副作用なのか、それともどこかがまだ疲れているのか、俺は毎日、意識が回復してからも浅い眠りについてはすぐに起きることを繰り返している。
この日、三度目の眠りから目を覚ました俺の目に飛び込んできたのは、白い病室を鮮やかに染め上げる夕陽の色と、1人の少女の姿だった。
黒いタートルネックと、チェック柄の布地が入ったデニムのミニスカートと、黒いソックス。彼女の華奢な体を包む服装の印象は、変わらなかった。
けれど、1つだけ、明確に変化している部分があった。
彼女は長い髪をバッサリと切り落としていたのだ。以前は腰辺りまで伸ばしていた髪が、今では日本人形を彷彿とさせるほどに短くなっていた。
だから一瞬だけ、その少女の名前が浮かばなかったが、すぐに俺の頭は彼女の名を唇に乗せていた。
「……マユ?」
「兄さん……」
マユの顔が歪む。泣きそうな、笑いそうな。感情の溢れ出る力を、自分でもコントロール出来ないようだった。
「兄さん、久しぶり……」
彼女はそう言うと、今度は躊躇いもなく涙をボロボロとこぼしながら満面の笑顔で、俺の頬を優しく撫でた。
1ヶ月ぶりの再会だった。
彼女は回収班としての義務に追われていたらしく、これまでずっと忙しく働かされていたらしい。それで特別に、面会許可の下りた今日、病院へ来るということを、俺は佐竹から聞いていた。
久しぶりに目にしたマユは、少しだけ大人びて見えた。それはバッサリ切った髪のせいかもしれないし、彼女のまとう空気からすっかり甘いものが削ぎ落とされていたからかもしれない。俺は彼女を知っているはずなのに、別人のようなその姿に少しだけ戸惑った。
「髪、切ったんだ……」
「うん」
肩より少し上くらいで切りそろえられた髪の先を、俺はソッと指先でかすめた。
「それに、俺のこと、お兄ちゃんって呼ばなくなったんだな」
「うん」
佐竹は、席を外してくれているのだろうか?見れば、病室には俺とマユの2人きりだった。
一瞬、まるで亡霊同士が会話しているようだと思った。時の止まった世界、雪が降り止んで、夕陽が滲む時間__逢魔ヶ時と呼ばれる頃、この世の隅で再会に涙する亡霊同士のようだと。
「外、雪はやんだけど、凄く寒いよ。凍っちゃいそうなくらい」
マユは涙を拭いながら、クスリと微笑んだ。
「今夜は、月は出るのか?」
「さあ、わからない。けど、出たら良いね。今日は満月の夜のはずだもん。きっと雪に月の光が反射して、凄く幻想的な風景が見れると思う」
それは想像するだけでも、本当に綺麗なものだろうと思った。
「マユ」
「なあに?」
「俺、お前の兄貴に会ったよ」
「__え?」
マユの表情に、動揺の色が浮かんだ。
そんなの嘘だよ。だって目の前にいるあなたがあたしの兄さんでしょう?そう語っているようだった。
それでも構わなかった。
「『俺の妹によろしく』って言われたんだ、何度も」
マユは、俺の口元を凝視しながらジッと耳を澄ましていた。
「この1ヶ月、俺はお前の兄貴と過ごしていたかもしれない。きっとそうだ。会うたびにあいつはお前のことを教えてくれた。俺の知らない、石島マユとの思い出を教えてくれた。……なあ、マユ、ひとつ訊いても良いか?」
「……うん」
「あのペンダントは__お前が事故で死んだ日に買ったペンダントは、瑞穂に渡すものだったのか?」
マユは、唇を結んで、暫く黙っていた。そして何秒か経過してから、緩く首を横に振った。
「……ううん。確かに、お揃いのものは贈ったけど、違う。あたしもね、出会ったよ、もう1人のあたしに」
ゆっくりと、丁寧に、彼女は言葉を紡ぐ。
「彼女はね、こう言ったの。『あたしがあのペンダントを渡すはずだった人は、あたしが世界で1番大好きだった人。たった1人のお兄ちゃん』だって」
マユの瞳は潤みを含みながら、俺と見つめ合った。
全てが繋がるような予感に、俺の心は激しく揺さぶられた。
「__俺のケータイのストラップ、あっただろう?」
マユは少し考える素振りをし、それから閃いたとばかりに笑った。
「うん。あの可愛いストラップだよね?」
「あれは、俺の妹に渡そうと思っていたものなんだ」
「……そうだったんだ」
俺は、ベッドサイドの棚を指差し、マユに引き出しを開けてくれるよう頼んだ。その中には、ハンカチに包まれたペンダントと、いまだ充電が切れたままであるケータイが納められていた。
「それ、こっちに持ってきてくれるか?」
自由に動く右手を少しだけ、動かしてみる。
マユの手からケータイだけを手に取り、俺は少しだけ咳ばらいをしてから、
「汝、死がふたりを分かつまで、この者を兄として愛することを誓いますか?」
俺が口にした言葉に、マユはポカンとしていた。
それには、さすがに俺も羞恥心をおさえることが出来なくなってくる。唇を噛み締め、赤らんでくる顔を懸命に殺しながら、
「ほ、ほら、なんかリアクションしろよ」
マユはようやく、俺の意向が読み取れたらしく、ハッと目を見開いた後、慌てて何度も頷き、
「え、ええ?あ、うん、誓う__誓います」
そう返しながら、俺のケータイからスルリとストラップを取り外し、大切そうに胸に抱きしめた。
それから、布にくるまれたペンダントを取り出した。それもう、以前よりも原型を留めていない状態で、まるでクズ鉄の塊のようになっていた。それを俺の首にかけてくれながら、彼女は囁く。
「汝、死がふたりを分かつまで、この者を妹として愛することを誓いますか?」
目の前に広がる笑顔。俺は精一杯腕を動かして、ゆっくりとその輪郭に触れた。
「__誓います」

これは終わりじゃない、きっと始まりだ。
俺とマユ、そして家族と友達__俺が見つめる、
ちっぽけな世界の始まりの物語だ。
この世界には神様がいる。そして、神の存在というよりも、そういったものが起こしてくれたと信じても良いような奇蹟がある。
これから先、俺はまた何かを失いながら生きていくだろう。それは多分目に見えるようなものではなくて、いずれ道を歩いた先、ふと振り返った時に気づいてしまうようなものなのかもしれない。
そう、瑞穂が言っていたように、それはいつしか夢のような記憶となって置き去りにされていく。その度に、俺はまた何かを得ていくだろう。それは今ここにある奇蹟と同じくらいの価値や重さはないのかもしれないけれど、それで良いと思う。

生き続けることは、物語を紡ぎ続けていけることと、同じなのだから。

その夜、マユと俺の想いが通じたのか、見事な満月が夜を照らしていた。俺はベッドの上から、その光が照らす夜景をぼんやりと眺めていた。
ふと、その光に触れてみたくなって、少しだけ指を動かしてみたが、誰かの手によって優しく遮られた。
聞き慣れた声が耳朶を撫でた。慌てて部屋を見回してみる。誰もいなかった。
そんな俺をからかうように、またその声は囁いた。「この世界は綺麗だね」と。
「……そうだな、綺麗だよ」
その声はまた呟いた。「汚いから、綺麗なのかな?」と。
「そうかもしれない。だから、良いんだよ。だからこの世界は、綺麗に見えたりもする」
その声の主らしき気配が、ゆっくりと病室から出ていこうとする。俺の言葉に満足したのか、それとも、あの頃はどこへも行けなかったから、今度こそどこかへ行こうとしているのか。
俺は止めなかった。
__おやすみ、良い夢を。
その声はそれを最後に、二度と言葉を発することはなくなった。扉の開く音が、世界のどこかでしていた。

新たな世界が今、始まりを告げようとしている。

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第10話満月の扉

蒼き賞
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