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第1話
僕は駅に向かっていた。
学校に行くために、トロンボーンを背負って。
歩道橋に登り、ポケットを探った。ハンカチを取り出す。リップクリームが飛び出した。転がったリップクリームを追いかけ、拾おうとしゃがんだ。
いつか、僕は確かにここで、同じ格好をしていなかっただろうか……。
そうだ。ここに『コトバ』があったはずだ。あの時、ありったけだった僕の……。
あの日からもうすぐ五年が経つ。すっかり色の変わってしまった手すりの下枠を、しゃがんだまま指に触れながら、『僕』の閉じ込めてきた記憶から、鮮明に甦ったこと。
僕は四年前、今と同じ目線で思い、感じ、何に歯を食いしばったのだろうか……。
僕の心は風邪を引いた。
長くて重い風邪を引いた。
魔物のような、『そいつ』は、母に感染り、父にも感染り、幼稚園児だった妹まで巻き込んで、僕の周りをすっぽりと飲み込んだ。
重くて長い間、僕らは気力が無くなり、嫌な熱ばかりを放出した。まるで、洗濯機で脱水されるような、真っ黒く、汚い水の中で、やけに重々しく真っ暗な時間がぐるぐると回って流れて、嫌で嫌でたまらなかった。
僕の心は紙切れだった。
一口舐めた人差し指ですっと穴が開いて、くるりと回すと穴はするすると大きくなった。
掌が入ってから、紙は濡れていることに気づいた。手応えが強くなる。拳も腕も飲み込まれたこの穴を、僕は肩が外れそうな程、力を込めて、何故か右まわりに必死になって回していく。
その内、首まで、そして腰まで穴にじっとりと捕まったまま、紙はやっぱり濡れていて、両方の腕全体に掛かる重みはダンボールの山の様だった。
僕は泣きながら、叫びながら、右回りにそれを回していく。
汗びっしょり……。
嫌な夢……。
僕を翻弄した あの夢。
自分の心の穴で暴れてのた打ち回る……。
逃げ出すという事だって、できたのかも知れない。と、やっと、思える。自分と向き合える自分になってきた。それでも全部を整理できる訳がない。
嘲られる『君』を、『僕』は、いつだって、真横でじっと見ていたんだ。
いつもいつも……。
辛かったんじゃない。そんな自分を見ることが、大っ嫌いだった。
僕には持病が有った。だけど、そんな事はちっとも苦じゃなかった。時々、不便で、たまに自分の言う事も訊かなくなる。だけど僕は、自分が好きだった。
僕が通っていた小学校は、僕が入りたくて、行きたかった学校だった。初めて見た時、本当に、皆が笑っていて、幼稚園の年長だった僕は、学校に行ける日が待ち遠しくて、嬉しかった。
いつも頬を両手で撫でてくれて、いつも優しくしてくれた教頭先生。入試面接を終えた日、教頭先生が「病気はハンディじゃなく個性です」って言ってくれた日、外食に行った店で父と母は、涙を流した。数日後の試験を前に、「あの学校に絶対、絶対行こうね」と皆で言った。まだ小さかったけど、僕は、「一年生になりさえすれば、きっと楽しくて素敵な事ばっかりが起こるんじゃないか」と、信じていた。だから頑張った。
一年生
夢は叶い、受験には合格した。
入学したものの、入院ばかりの一年で、思い出す事もほとんどが病院のベッドの上での生活だったけど、たまに行けた、学校の担任の先生は、僕が何をやっても褒めてくれた。頑張った後に褒めて貰うのが、凄く嬉しかったから、僕は毎日、絵日記を書いた。
二年生
二年生で担任になった先生は、「君は、神様に大事なお役目を頂いた子なのよ」と言って僕をよく抱きしめた。人は神様にそれぞれの役目を与えられているんだと知った。そうして、僕は初めて努力をして取り組むことで、出した結果は自分を裏切らないという事を知った。絵を描かない代わりに、日記には、難しい字を好んで書いた。
三年生
三年生になると、負け知らずだった。知りたいと思った事は、欲しいだけ手に入った。算数が面白くて仕方なくて、数学が得意で、算数科主任の担任の先生は、僕のチャレンジに、どこまでも付き合ってくれた。僕は先生を驚かせるのが楽しみで、だから調べたり考えたりばかりして過ごした。全校が揃う朝礼の席で、たびたび、表彰を受けた。具合が悪くて学校に行けない日も多く、早退して病院通いもしょっちゅうだったのに、楽しくて、楽しくて、あの時は、体が弱かったのに、毎日が充実していて、日記をつけるのも、読むのも、楽しかったんだ。
神様は本当にいるんだって。
そう思っていた。
そして、運命は変わる……。
四年生──
四年生になった四月、僕の有頂天は、ぱたりと消えた。
『僕』は日記をつけることを、やめた。
その日のことさえ、あったその場で、一刻も早く、忘れたかった。
何をやっても、裏目に出た。
自分で努力した結果で、苦しむことを、やっと『僕』は、知った。
これといった原因は無かった、と思う。
ただ、色んな遠因が重なって、僕は飲み込まれたんだろう。別に僕でなくてもよかったんだ。実際、最初に犠牲になったのは僕ではなかった。最初の被害者が転校してしまった後、ターゲットが僕に移っただけ、だったんだろう。そう思う。
小さい頃から家の布団と病院のベッドの上で成長してきたような僕は、砂の山を作るように折り紙を折り、「みんな」が走る分だけ、本を読んだ。おかげで僕は既にもうその時、「大人」の頭を悩ますような漢字を知っていたし、僕の作った折り紙は残らず「大人」を瞠目させた。そうだ。そのときは、大人は完全だった。
好きで始めた検定。貰った免状を学校に持っていくと、先生は大きく驚いて、褒めてくれて、朝の礼拝の最後に全校の前で、活躍を賞賛してくれた。
そうして目立っていく僕は、「出る杭」以外の何者でもなかったのだ。無邪気に褒めてくれた「ともだち」は、だんだん少なくなり、代わりに悪意が向けられる。
なんで?
「ともだち」が外でサッカーをする休み時間に折り紙をしていても向けられる、それまでになかったどす黒い感情。
なんで?
それはやがて恐るべきスピードで増殖し、蔓延した。
学校への足取りは、徐々に重くなって、幼稚園の妹と母と三人で電車に乗った。小学校附属の幼稚園は、学校と始業が一時間ほど違ったはずだ。『僕』は、電車でもよく泣いていた。校門でも泣いていた。家に居ても泣いてばかりいたので、母は心配した。一日に三十時間泣いて居た気がする。すっかり痩せて、表情のなくなった息子に、不安と心配から、寝る時間さえ惜しんで悩み、考え続けた母はついに過労に倒れ、病院に運ばれて入院してしまった。
僕は汚い。
母さんに言ってしまった一言。
「僕はもうダメだよ。何で僕の事助けたんだよ。もう今度は助けないで。なんで病気じゃなく生んでくれなかったんだよ。」
こんな僕も大っ嫌いだった。自分がざくざくになって行く気がした。怖くなんかないのに、いなくなってしまいたい、消えてなくなりたいと思っていた。
弱い僕が悪いんだ、僕がいなくなれば……。
人は弱い。脆くなると前なんか見られなくなる。頭の中は、嫌な事で埋め尽くされ、考えることさえ忌まわしいような、嫌な事ばかりを考えるようになっていた。時間は残酷に長くて、情けないくらい、沢山の「やられた」でいっぱいになった。
あの時の僕は壊れてたんだ。
悲しかった。
母は、「こんな事で私の息子を、壊してたまるもんですか。」と何度も言った。
家の中は、僕一人だけのために静まり返っていた。皆、僕を待ってたんだ。それなのに、「どうなったっていいや」と『僕』は、思っていた。
ある日、父が、凄く悔しそうに言った。
「人間は、歯を食いしばった分だけ、強い人間になれるんだ。本当に力が出るのは嬉しい時なんかじゃない、楽しいときでも無くて、悔しかったり怒ったりしてる時なんだぞ。いくら時間を使ったっていい、お前は前に進める。いつだって、『もうだめだ』を、何度だって乗り越えてきたじゃないか」
そう言われても、涙が沢山出るばっかりだった。
ほかに何が、できただろう。
母さんの入院は、父の励ましのあった晩から直ぐのことだった。いつも元気で明るい母さんは、ずっと笑顔だった。我慢に我慢を重ねても平気な顔をして更に我慢をしてたんだ。
僕のせいだと思った。
簡単に消えてしまいたいと思ってた事がたまらなく悔しくなった。
病院のベッドで、
「ごめんね。お母さん、もうちょっと頑張れると思ってたのになぁ」
と言って初めて母は、涙を、見せた。
「お母さん、ごめんね。ごめんね」僕は、母さんにしがみついておんおんと泣き声を上げて泣いていた。
僕は、自分の事ばっかりだった。
「僕がいじけて悲しくていっぱいになってる時だって、相手は僕にした事を忘れて笑ってる。何の支障もなく、毎日を過ごしてる……。楽しい時間もしっかり過ごしてるんだ。あいつの事なんか許すもんか」
とか、
「また髪が抜けた。ハゲ、坊主、死ねってまた言われる。僕はどうやって消えようか」
なんて事ばっかり考えていたんだ。あいつの向けたつまらないエネルギーが膨らんでいき、『僕』をどんどん追い込んでいった。
いつも一緒にいてくれた母が居ない夜、「何で助けたんだよ」と言ってしまった事を、もの凄く後悔した。あの時、母さんが抱きしめて言ってくれた言葉がはっきりと鮮明に思い浮かんだ。
「冗談じゃないわよ。私が好きで好きで、逢いたくて逢いたくてやっと生んだの。頼まれなくたって誰に頼んだって、何度でも助けるわよ。人がどう思ったっていいもん。私にとってあなたは宝物なんだから。今までこんな事以上の事をもっともっと、小さな体で乗り越えて来たんだから。誰よりも人一倍頑張って来たんだから。ちっともダメなんかじゃない」
小さい妹は夜泣きを何日もした。眠る瞬間まで、「ママがいない」と泣いていた。父は、家の事をいつも笑って、全部やってくれた。三人分の食事の他に幼稚園の妹のと、僕の学校の弁当も作ってくれた。ただ、「学校に行け」とは、結局、一言も言わなかった。僕が自分で、「よし。行けるぞ」と思える様になるまで、いつも待ってくれた。頭の中じゃ、しっかり分かって居たんだ。「休んじゃいけない。お父さんも仕事があるからぐずぐずして甘えてたらいけない」って。だけど、どうしても肩に力が入って入って仕方なかった。甘えてちゃダメだって何度も声に出したのに。何度も自分に言い聞かせたのに。
学校に着くと、いつも授業の最中だった。教室の前まで来て、戸を開けようとすると、教室の戸が、凄く凄く冷たくて、重たかった。
やっと開けると、一斉に、皆がこっちを振り返る。その目はみんな、のっぺらぼうのマネキンみたいで、いつもここで逃げ出したくなる。トイレに逃げたくなるんだ。
夏休みには、学校に行かなくて済む。
あと何日で夏休み、あと何日で……。
僕にとって、夏休みなんて、何の意味も無かった。
ほかに何があるでもない。
ただ、四十日間の安全が確保されただけのこと。
こころのなかは、からっぽだった。 |
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