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第1話
図書室。比較的賑やかな校内で異様なまでに静かなこの場所は、普段あまり立ち入らない俺にとって完全に校内とは別個の空間だった。そう、半年とふた月前までは。
俺が図書室によく来るようになったのは、青葉サチというクラスメイトと付き合い始めたことがきっかけだった。サチは静かな性格で、付き合う前は友人間での会話でほとんど話題にあがるもことのない、本当に目立たない子だった。転じて、俺のほうは自分で言うのもなんだけれど、クラスでもけっこう目立つほうだったと思う。付き合い始めたころは友人に「なんでお前が青葉と?」などとよく言われたものだった。それくらい俺らが付き合うには、校内での二人の立ち位置に温度差があったのだ。そんな青葉との出会いは俺にとってすごく衝撃的なものだった。
半年とふた月前、高校2年生の夏休みの宿題を控えた俺は部活帰りに参考図書を校内の図書室から探すことにした。時間もとうに夕暮れ時で、めったに図書室を使わない俺はそもそも図書室がこんな時間までやっているのか不安なくらいだった。行ってみると、外から室内の電気が点っていたのが確認できたので心を決めて扉を開いた。
中に入ってすぐ、図書委員の係の子と目が会った。クラスメイトの青葉サチ。当時、幼稚園来の知り合いという程度で、ほとんど話したことはなかった。とりあえず俺は軽く会釈をする。すると彼女も持っていた本を口に当て会釈をし返してくれた。
どうにも静かだった。室内は俺と係の青葉サチしかいない。その彼女は読書をしていて、室内は俺の足音くらいしか音は存在していなかった。ここまで静かだと、まるで彼女に自分の足音で自分の動向を全て知られてしまっているんじゃないかという気持ちになってくる。そもそも自分は夏休みの参考図書を探しに来たわけで、やましいことなど何ひとつないけれど、それでもやはり緊張した。そう、言うならば街中でパトカーにすれ違うあの時と似た感じだ。そんなことを考えて、自分は思ったよりも小心者なのかも知れないと、にわかに心の中で笑って少し余裕が出た。
目的の本を探すのにえらい時間がかかった。というかまだ自分のほしい本のコーナーすら探せていない。うちの学校の図書室はわりと立派で図書室というにはいささか広い。その上、図書室であるために室内の見取り図があるわけでもなく、その不親切さは図書室初心者の俺を大いに苦しめた。
「どんな本をお探しですか?」。
不意に声をかけられて少し驚いて振り向くと、そこには青葉サチがいた。なにも後ろから音も立てずに近寄ってくることないじゃないかと思ったが、そんなことを口にできる間柄でもなかったのでその言葉は口に出すギリギリで飲み込んだ。
「あぁ夏休みの宿題のさ、課題研究。あれの参考になりそうな本を探していたんだけどさ、なかなか見つからなくて。」
それなら良いのがありますよ。と彼女は即答して笑顔で案内してくれた。俺はそれにうなずいてついていった。それが自分のいた場所とあまりに反対の方だったので少し恥ずかしくなった。しかし、入った時は熱心に読書をしていたのに、俺があまりに室内を歩き回るものだから集中できなくなったのだろう。俺は申し訳ない気持ちだったが、彼女はそんな素振りを全く見せずにいてくれたので心が痛むことはあまりなかった。
「これがお勧めですね。」
彼女は本棚から一冊の本を俺に差し出す。俺は礼を言ってそれを受け取ると、パラパラと中身を見た。中には挿絵が程よく入っていて分かりやすく、要点がきれいにまとめてあるので、このまま写して提出しても良いんじゃないかというくらい課題研究に適した本だった。
「もしかして、この室内の本、全て網羅してるのかい?」
自分の口からすっと冗談が飛び出た。調子に乗ると思ったことをすぐに口にしてしまうのは俺の悪い癖だ。
「そんなことありませんよ。ここ、本いっぱいありますから。」
少し慌てたように胸の前で手を振って、俺の軽い冗談に真面目にそう答えた。そんな彼女が妙におかしく思えて笑ってしまう。彼女は少し恥ずかしそうな顔をしていた。
「借りていきますか?」
「あぁ、お願いするよ。」
俺はうなずくと彼女に本を渡した。彼女はその本を受け取るとカウンターのほうに向かっていく。俺は借りる際のプロセスを把握していなかったが、とりあえず彼女についていくことにした。
「期限は二週間です、遅れないでくださいね?」
「りょうかい。」
彼女は俺の返事を聞くと、紙のカードのようなものを俺に差し出した。
「これは?」
「工藤君の図書カードです。今度から本の貸し借りするときはこれを持ってきてくださいね。」
ふーん、こんな物があるのかと、俺は感心しながらもう使うことのないだろう図書カードを彼女の手から受けとった。
はずだった。でも、そのカードをまだ彼女は強く握りしめていて俺は受け取れなかった。そして、目の前の彼女は俯いていた。俺は状況がつかめず、どうしようか考える。
「青葉…?」
「あ…あの」
俺らは同時に口を開いた。俺は特別言いたいことがあるわけではないので彼女に譲る。
「あ…あの!」
腹をくくった、といったように彼女は口を開いた。
「工藤君は、その…好きな女の子とかいますか?」
「え…?」
いきなりそんなことを言われたものだからさすがに驚いた。つい、え?だなんて返してしまった。彼女は変わらず俯いたままだったが、その顔が真っ赤になっているのは髪の合間に見える耳の色ですぐにわかった。
こんな局面は初めてではなかった。公立にしては人数が多い学校だったし、運動部に所属していたこともあり、見ず知らずの後輩から告白されるのは少なくなかった。
「わっ…私、えぇと…私…ずっと前から工藤君のことが好きでした!」
顔をあげた青葉は、予想通り顔をすっかり林檎みたいに赤らめていた。俺のほうを向いているけれど恥ずかしいのか、目を合わせては逸らし、目を合わせては逸らし、それを繰り返していた。俺は図書カード越しに彼女の震えを感じた。内気な彼女がどれだけ勇気を出してこの一言を言ったかが強く伝わってきた。俺の方は面喰っているが、彼女にとってはこの瞬間はいきなりじゃない。きっとずっと待っていたんだろう。こんな機会を。俺と二人きりになるこんな瞬間を。
目の前の健気な少女を見て、この気持ちに応えたいと強く思った。それだけじゃない。
もう、俺は間違いなく青葉サチという女性に惹かれていたんだ。
俺は照れ隠しに頭をかく。
「明日、また本を借りに来るよ。図書カード持ってさ。」
そう言って俺は彼女から図書カードを受け取る。
「え…は、はい!」
その翌日、俺と青葉サチは付き合うことになった。
「もう半年以上前のことになるのか…」
どうやら俺は図書室の前で、昔のことを思い出しながら立ちつくしていたらしい。
「工藤…工藤じゃないか!」
「山根…?」
声のするほうへ振り返るとクラスメイトの山根ユウジがいた。部活も同じサッカー部で、クラスでもとりわけ仲の良い友人だ。
「何してんだ?こんなところで。」
「あぁ、本を代わりに返しに来たんだ。サチの本、アイツ返せないからってさ。」
俺は手に持っていた本を山根に向けて説明した。
「お…おぉそうか。そうだな。」
山根は少し言葉を濁らせる。そのせいで妙に気まずい空気になってしまう。そして、気まずさに耐えられなくなったのか、山根が口を開いた。
「あっあぁ!ごめんな!オレがこんなんじゃ駄目だよな!一番つらいのは、お前だし…。」
山根はわざとらしいくらい明るい態度で言った。
そう、サチはもう亡き人だった。
八日前、俺の誕生日プレゼントを買いに行くと言って出かけて、そのときに居眠り運転の車から猫をかばって交通事故で死んだ。それ以来、俺はサチの笑顔を見る事はできなくなってしまった。
「山根…悪いな。迷惑かけて。」
俺はあの日以来、部活動には一度も顔を出せていなかった。
「気にすんなって!最後の大会までまだ全然時間はある。みんなエースの 帰りを気長に待ってる。それまで、お前の空いた穴はオレが埋めといてやるよ。」
山根は大袈裟に明るくVサインをする。
「何言ってんだよ、ベンチに入れるかどうかって奴が。」
「おい、工藤!そりゃないぜ。」
俺の皮肉に泣きそうになってすがりつく山根。
「ありがとな、山根。」
俺がそう言うと山根は照れくさそうに笑う。いつもはやかましい奴だが、こういう時は本当に友達想いの優しい奴だ。俺は山根のそういうところがすごく好きだし、うらやましく思っていた。
「じゃあオレ先生呼んでくるから。」
俺の肩をポンとたたくと、山根は職員室の方へと走って行った。俺は先生を呼びに行った山根を後ろ姿が見えなくなるまでずっとその姿をみつめていた。
「さて、本返さないとな。」
俺は手に持った三冊を見つめる。そして、意を決して図書室に突入した。
図書室はやはり異様に静かだった。サチのいない図書室に来るのは半年とふた月ぶりのことだ。本棚に敷き詰められた本たちはまるで生き物のような威圧感があった。俺は、さっさと本の返却を済まそうとカウンターに向かう。すると、そこには図書委員の代わりに看板が置いてあった。
『ただいま、係の者は不在です。本の返却する方は本を返却ボックスに入れ、カードを置いておいてください。係不在時の本の貸し出しはしていません。』
俺はその看板に従い、三冊の本をボックスに入れ、“青葉サチ”と書かれた図書カードをカウンターに置いた。
図書室には俺以外誰もいなかった。誰もいない図書室はすごく不思議な空間で、恐怖だけでなく、世界に一人だけでいる満足感のようなものがあった。俺は意味もなく、図書室の中を少し歩き回ることにした、まさにその時だった。
リリィーン
誰もいないと思っていた空間から突然物音が鳴ったので驚いて咄嗟に身構えた。しかし、音の先には誰かがいるわけでもない。
「何の音だろう…鈴の音?」
どこか聞き覚えのある音色だった。少しの間考えてみたけれど、その音の正体は思い出せなかった。
注意深く見てみると、音のした方に一冊の本が落ちていた。俺はそいつを拾い上げて調べてみる。が、本には特別鈴のような音が出る物がついている様子はなかった。
「川畑サトシの川畑論…。」
俺はその本のタイトルを読み上げて、そういえば、俺はこの本を知っていることに気付いた。サチと付き合い始めたときに、ふと図書室内で一番人気の無い本は何かという質問したら、サチが持ってきたのが確かこの本だった。サチいわく、「名前に面白い横文字とかがあるわけでもなくて、厚さもすごい中途半端だし、だから笑いを取ろうとして手に取る人もいなくて、場所も下から二段目の右から七冊目っていう中途半端なとこだから全然人気がないの。手に取っている人を見たことすらないよ。」らしい。俺はせっかくだから最優秀不人気賞を獲得した本をパラパラめくってみることにする。
「あれ…?」
軽く流すようにページをめくっていたら、余白部分に落書きが書いてあるぺージがあった。ギリギリ読めるくらい酷い字だが、とりあえず日本語だったので解読を試みることにする。
『お久しぶりです。げんきにしていますか?くどうくん。青葉サチ 4月20日』
嘘だ…ろ…? |
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