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第3話
自分は今、どんな顔で目の前の男を睨んでいるのだろう。ワタルが、今にも吹き出しそうな顔で悠希(ゆうき)を見ている。莉菜(りな)を消したと言ったワタルが、なぜ、そんな顔で自分を見ているのか、悠希にとっては、それすらもわけのわからないことだった。
突然明るい笑顔で現れて、ミクを非情に蹴り飛ばし、仕舞いには莉菜を消したのは自分だと明かしてきた。
何なんだ、こいつは。目的は一体……?
「まぁ、そない怖い顔せんと。別に仕事やし」
悪びれない様子に無性に腹が立って仕方ない。莉菜を消したことに対しても。飄々とした態度にも。
「いやぁ、怒るのも無理ないとは思うけどな。でもな、いちいちそないなこと気ぃしてたら、仕事なんか出来へんねや。なぁ、ミク?」
ワタルはミクの襟を掴み上げ、無理矢理立ち上がらせようとする。しかし、先程の蹴りのダメージが大きいのだろう、ワタルが手を離すとそのまま力なく座りこんでしまった。
「われ。何してくれたかわかっとるよなぁ? わしの仕事がパーになっとんねん」
しゃがみこんで、ミクに顔を近づける。それでもミクは怯えることなく、余裕にさえ見える。
「私は、もともとこの時空間に仕事があってきました。無闇に時空間を移動してたわけでもないですし、直接時空間を変えるようなことはしていません。だから、調律師の掟には触れていないはずです」
「屁理屈ばっかぬかしやがって」
ワタルは舌打ちしながらも、意味有りげな含み笑いを見せた。
「次は、関川健仁(せきかわたけひと)でも消すつもりやろ」
カッと目を見開いてミクは驚いた顔を見せるが、それは悠希も同様だ。『健仁を消す』という言葉に耳を疑った。何を言っているのか話についていけなかった。
ただ、どうやらミクが何か罪を犯し、そのためにワタルはここに来たらしいことはわかった。やはり、20年前に行き、赤ん坊の莉菜を三橋家に届けた件がまずかったのだろうか。ワタルの仕事を台無しにしてしまったようだし、莉菜を取り戻そうとしたことが時空間を歪めてしまったのか。女の子であるミクを思い切り蹴り飛ばしたくらいだから、悠希たちは、してはいけないことをしてしまったのかもしれない。
そもそも、わからないのはミクの目的についてだ。ミクは莉菜を取り戻すと言っただけで、どうしてここに来たのかは一切話していない。もしかしたら、莉菜の件のほかにも目的があるのかもしれない。
それが、健仁を消すこと――? そんなことはあって欲しくないと強く思った。
俺はどれだけ単純なんだ。よく考えれば、ミクが不審極まりないことなど、すぐにわかったはずなのに。そのくらい、莉菜が消えたことに動揺していたらしい。
「おい、平悠希。なんも知らんと、こいつに協力しとったんか。……って、話さへんだけか、こいつが。全く、そういうとこは誰に似たんかなぁ?」
ワタルはそう言うと悠希の腰を指差した。
「それ、莉菜ちゃんのやろ? 不思議だと思わんのかいな。ほかは、記憶も持ち物も全部消えとるのに、それだけが残っとるっちゅうのは」
確かにそうだ。しかし、悠希は無意識に『莉菜の物』と思い、失くさぬように大切にしていた。本当に俺はどうかしている。
ワタルは、ふいにミクのリボンの端を引っ張り上げて抜き取ると、悠希に投げつけた。
「それ、何やと思う?」
言うまでもない。これはただのリボンだ、と言いかけて、悠希は目を疑った。
淡い赤だと思っていたが、よく見ると模様――チェック柄が施されており、本当は色の褪せた赤だった。拾い上げたリボンに触れると、それはフリース素材で出来ていて、かなり使い込んでいるらしく、生地が薄くなってしまっている。そして、端のタグには見慣れた文字が手書きで書き込まれている。
「RINA.M……? 莉菜のマフラーだ……」
それは紛れもなく、今自分が持っているものと同じものだった。長さや幅は違うから、きっと作り変えたのだろう。それらしき形跡もある。
「それがなくならへんかったんは、未来でミクが持っとったからや。わしたち、時間調律師は、元いた時空間との繋がりを絶って仕事をしとるっちゅうわけや。そうせな、わしたちの時間も変えられてしまうことがあるんでな」
時間調律をする人が、消えてしまっては困るということか。
「でも、なんでミクが莉菜のマフラーを?」
もしかしたら、未来で莉菜とミクの接点があるのかもしれない。しかも、わざわざリボンに作り変えてまで、莉菜のマフラーを所持する理由がある。話がわかってきたらしい悠希に、ワタルはにんまりと笑って答える。
「なんでミクが持っとるかっちゅうと……。直接、われの目で確かめたほうがええんとちがうか? なんぼ一般人でも知る権利はあるし。ここまで首を突っ込ませておいて、はい、さいなら、いうのも、ちぃとばかしえげつないし、な」
呆然と話を聞いていた悠希の耳に、ずるずると何かが擦れるような音が聞こえてきた。ミクは、ワタルが歩くのを阻止しようと右足を掴み、引きずられていた。
待って下さい、と蚊のなくような声で呟くミクは、なぜか謝っているように見えた。何に対してかはわからない。
すると、ワタルはもう一方の足を上げ、ゆっくりとミクに近づける。
「やめろっ!」
そのままミクを蹴りつけそうな雰囲気のワタルに思わず叫んでいた。悠希は、ミクを守ってやりたかった。自分の所為でひどい目に遭っているようで、見ていられない。
ミクは手を離して、何とか自力で立ち上がるも、未だふらついているようだ。悠希は、ミクを背負い、ワタルをキッと強く睨みつけた。すると、ワタルは何か面白いようなものを見る目をして言う。
「じゃ、3人でええか。遅れんようについて来ぃや」
部屋の扉を開けると、あるはずの廊下は消え失せ、真っ暗な闇に繋がっていた。
あぁ、俺はいつからこんなになっちまったんだ。
関川健仁は安い発泡酒をぐい飲みし、灯りも点けずに暗がりに浸っていた。この部屋で唯一高価なデジタル時計も、安っぽい部屋の空気に包まれ、すっかり埃を被っている。そういえば、これをくれたのもアイツだった。
2023年 11月3日 FRI. PM8:14
今年で三十路を迎えたというのに、健仁は定職にもつかず、アルバイトで食い繋いでいた。そして今日、3つ掛け持ちしていた内、2つのバイトをクビになってしまった。
さて、次はどうすっかなぁ。
「うちの会社で働けばいい」
2時間も前の悠希との会話が思い出される。
「は、同情してんのか?」
「そんなんじゃない」
「じゃあ、なんだよ?」
悠希は言葉に詰まり、俯いて無言を通した。それが何を意味するのかも、健仁にはわかりきっていたことだった。
「俺にはな、お前みてぇに頭もねぇ、立派な職もねぇ、金もねぇ、美人の奥さんもいねぇ、頼れる家族もいねぇ」
「だから、俺たちを頼ればいいだろ」
当たり前のようにそんなことを言い出す奴に、苛立ちさえ覚える。
「今更、そんなこと俺がすると思うか」
「それを説得しに来てるんだ。みんな、待ってる」
健仁は何も言えず、悠希の真っ直ぐな目から逃れるように目をそらした。そのままだと、首を縦に振ってしまいそうだった。
「お前は、ものをはっきり言わねぇよな、さっきからうちで働けばいいの一点張りで」
奴は驚いたらしかった。
「今に始まったことじゃねぇが、昔っからそうだよな。なんだか、上辺だけで話してるみてぇだ」
高校の頃、いつまで経っても初対面のような態度に、違和感があった。でも、付き合ううちに、そういう奴なのだと理解した。
「ごめん。でも……」
「うるせぇな、ぐちぐちぐちぐち! 結局お前は俺を見下してんだ! 大学の先輩たちと会社を立ち上げて、順調なんだろ! 俺なんか相手にしてらんねぇだろ!」
いつのまにか興奮して凄んでしまい、肩で息をしていた。
「……ごめん」
「それも高いとこにいる奴が言う台詞だっつの。ほらっ、帰れ」
強引に外まで連れて行き、悠希を追い出す。
「また来るから」
「同情するなら金をくれって、昔は言ったけどな、俺にとっちゃ同情されるくらいなら死んだほうがマシだ」
奴がここを訪ねて来るのは、もう5度目だった。お互い強情なため、いつも話がまとまらずに終わってしまう。
健仁の人生が狂いはじめたのは大学2年の秋だった。
父親が亡くなったのだ。もともと病気持ちだったため、覚悟は出来ていたことだったが、悲しみに暮れる暇などは少しもなかった。なぜなら、父は借金を遺していたのだ。それも、すぐに用意出来るような金額ではない。苦渋の決断だったが、周りの誰にも言わずに大学を辞めた。借金の返済のため、兄と2人で、一生懸命働いて、働いて、働いて、誰の手も借りず、働き倒した。他人との付き合いを削り、周りには誰もいなくなっていた。それなりの額を返しているものの、利子に追いつかない。それでも、諦めることなく兄と2人でぼろぼろになりながら稼いだ。肉体的にも、精神的にも追い詰められていた。
そんな折、兄が逝った。過労死だった。ごくわずかだったが、兄がかけてくれていた生命保険と今まで稼いだ分を合わせて借金返済地獄から抜け出せた。だが、達成感など皆無だった。
そう、親父が兄を殺した。そして、俺は生き残った。6年を棒に振り、残るものは何一つなかった。それから今までアルバイト暮らしだ。
缶を口につけ思い切り傾けても、酒は一滴も流れてこない。これからの先のことを思うとため息しか出で来ない。
『うちの会社で働けばいい』
とっさに耳を塞ぐ。奴の声など聞きたくない。こんな俺にも昔のよしみで、手を差し伸べてくれるお人好しなんて。
『みんな、待ってる』
「うるせぇ! うるせぇ、うるせぇ!」
どんなに喚いても、奴は耳元でささやく。
怖い。腹を割って話をしない奴が。話をすることによって奴から軽蔑されるのが。奴だけじゃない。みんなから軽蔑されるのが。これから彼らを頼ることによって、不幸をもたらしてしまうことが。
嫌だ。全部嫌だ。もう何もかもが信じられない。
怖い、怖い、怖い。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「いやだぁあああああ!!」
その悲痛な叫び声は、暗い部屋に寂しく響いた。
夜8時48分。
ただいま、と悠希が小さく呟き革靴を脱ぐ間に、思い切り床を踏みつけるような足音が聞こえる。リビングの扉が勢いよく開き、そこから小さな女の子が顔を出す。
「おかえり、お父さん」
悠希は可愛い娘の出迎えに、思わず顔がほころびる。
「ただいま、みく」
「あ、おかえり。ご飯は?」
寛いでいたであろう莉菜が、急いで立ち上がりエプロンを着ける。
「食べる」
「みく、手伝って」
はーい、と小さい歩幅でとことこ歩き、母親である莉菜の元へと向かう。
悠希が遅めの夕食を終える頃には、みくはソファの上でうつらうつらしていた。悠希が黙ってみていると、遂に力尽きて仰向けに倒れた。
「あ、寝た」
「今日は頑張って起きて待ってるって言ってたから」
「あの体勢でよく寝られるな」
足をソファからはみ出させ、上半身しか乗っかっていない。そのまま、足から床に落ちてしまいそうだ。
「じゃあ、ベッドに寝かせてきて」
「えー、まだ見ていたい」
「面白がってないでよ、お父さん?」
仕方なく立ち上がり、みくを抱えて寝室へと向かった。昼間はどんなに活発に動いていて手が付けられなくても、寝ている間なら軽々と持ち上げられる。途中で起きることもなく、布団に寝かしつけると、みくは静かに寝息を立てていた。
悠希は足音を忍ばせて寝室から出ると、リビングに少し顔を出して「ちょっと一服してくる」と報告した。莉菜は仕方なさ気に、はいはいと答えた。
「関川くんのこと、大変なのはわかるけど。ほどほどにしてね」
聞きながら煙草とライターを上着のポケットから取り出して、外へ出る。部屋が暖かかった所為か、外は肌寒く感じられる。
5階建てマンションの3階から気だるそうに階段を降りて表に出ると、フェンスの近くで煙草に火をつける。煙を吐き出せば今の気持ちとは裏腹に、上へ上へと立ち昇っていく。悠希が煙草を吸うときは、決まって嫌なことがあるときだと、莉菜は知っていた。
健仁は変わってしまった。いや、それは自分も同じかもしれない。生きていくうえで変わらないものなど、何一つないのだから。
悠希は大学を卒業した後、製造業の中小企業へと就職した。そこで1年働き、その後大学の先輩たちと通信業の会社を設立し、24歳で莉菜と結婚した。娘のみくを授かり、興した会社も今のところ軌道に乗っている。
『同情してんのか?』
断じて違う。ただ、健仁を助けたいだけだ。大学2年のとき、突然姿を消してから心配していたが、まさか父親の遺した借金を返済していたとは。その時、助けられなかったのだから、今は出来ることをしてあげたい。
『上辺だけで話してるみてぇだ』
確かに、自分から積極的に何かを話そうとするタイプではない。人見知りも激しい方だ。悠希自身、それはわかっていた。だが、親しい仲なら別だ。そんなことはないはずだ。
『俺なんか相手にしてらんねぇだろ!』
高校のときと比べて、健仁は本当に変わってしまった。いるだけでその場を明るくさせていた彼は、人間不信になってしまい、もはや別人のようだった。
もう、昔のようにはなれないのか。
――グサッ
異変に気が付いたのはその音ではなく、腹の中に冷たい物が通る――ナイフが刺さる感覚だった。そこから、白いワイシャツは気味が悪いほどに赤に染まっていく。目の前にいた人物と目が合う――
「たけ、ひと……」
健仁は静かに悠希の腹からナイフを抜き、倒れていく様子を見据えていた。
「……これが、お前の未来や」
そんなことを言われても、ショックで何も言えない。14年後の将来、俺は莉菜と家庭を持ち、仕事も上手くいっている。それなのに、いま一番仲がよい友人に殺されるのだ。
3人はマンションの屋上からその様子を見ていた。重たい空気が圧し掛かる。
「ミクは、俺の娘ってことか……?」
だから、ミクは莉菜のマフラーを大事に持っていた。若くして時間調律師として働くミクの支えは、家族との繋がりがあるこれだったのかもしれない。
今、ミクを背負っていて良かったとつくづく思った。もし、顔を見て話せる状況だったら、何も言ってやれないし、向こうも何も言えないだろう。
「そうや。ここでお前が死んだ後、ミクは稼ぐために時間調律師になるっちゅうわけや。それが、半年前」
わざわざ、自分が存在していた証を消し、母が生きる時空間と繋がりを絶ってまで。
「ところが、わしとの仕事で莉菜ちゃんが消えるのを知ったんやな。別に時空間とは繋がっとらんから、こいつが消える心配はないんやけど、何を思ったかは大方予想はつくわ。だから、母が消されるのを阻止しようと、父親であるお前のところに攻めて来よったっちゅうことや。でも、それは許されることやない」
自分の母親が消えると知り、そして助けられるなら助けたいと思うのは当然のことだ。時空から切り離された自分自身には関係なくとも、ミクはそう思ったのだろう。
「……俺の所為だな」
悠希が亡くなってからは、莉菜もミクも相当な苦労を強いられるだろう。経済的に苦しい状況に追いやられ、仕舞いにはミクがこの年で働きに出るのだ。最初に会った時、『若いのに、苦労してんだな』という悠希の言葉にわずかな反応を見せたのは、これがあったからだろう。だとしたら、とても悪いことをしてしまった。
「心配はいらん」
ワタルは、悠希の顔の前に手をかざし、目を伏せさせた。
「せっかくぜーんぶ知ったのに、ごめんなぁ。関わった一般人には、その時の記憶を消すのが決まりなんや。その後の時空間に歪みが出来んようにな」
すーっと、周りのものが遠ざかっていくような感覚の後、ひどい睡魔に襲われる。
「それじゃ、さいなら」
耳元で囁かれた気がしたが、それすらもあやふやだ。ミクを背負っている重みさえ感じられない。
「ごめんなさい」
最後に、そう言ったミクの声が、はっきりと聞こえた。 |
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