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第1話
悲しみはたおれる。
たおれ始めたドミノのように止まらずに、ずっとたおれ続ける。
僕はそんな人生をいま歩んでいるのではないかと思う。
あの日、僕は大切な人を失った。蝋燭に息を吹きかけて消える、強くて弱い火のように、あっけなく。
目を覚まし、自分が生きているということを実感する。ここに来て一ヶ月間。朝、目が覚めると毎日確認する「生きている」という当たり前の実感。
僕は病院のベッドで仰向けになって、真っ白な天井を見て、息をしている。感じるものは何も無い。家族の顔も、医者や看護師の顔も、窓から見える世界を見ても感じるものは何も無い。
僕はベッドから起き上がり、外の天気が良いのを確認すると、外に出た。
鼻から息を吸う。少し冷たい空気が僕の肺に入り、そしてゆっくりと口から出て行く、景色は変わらない。ただ何故か景色が曇って見える。外の天気は曇ってはいない、なのに僕の目に映る外は消せない膜のようなものが瞳を覆い、曇って見える。
なにをしていても、その曇りは消えることがなく、自分の目に映るものすべてを曇らせ、世界に映るものすべてを新鮮に感じなくなってしまった。そんな自分の曇りは徐々に心にまで侵食していくよう感覚に陥る。なぜ僕だけが助かったのか、なぜ僕は生きているのか、そんな考えが入院中に僕を苦しめて世界が曇って見えるようにしてしまい、退院してからも日常生活の中でも僕を苦しめた。
僕は退院してすぐに学校を辞めようとした。両親に反対されたが、僕はどうしても学校に身を置くことができなかった。
「お前が生き残って、大樹君も沙希ちゃんも喜んでいるはずだ。なのに、何で海斗が苦しむ。あれは事故だった、そうだろ?」
父が僕に必死にそう言った。
「そうじゃないんだ」と僕は言った。僕は疲れていた。世界が曇って見え、新鮮味を感じず、感動もできない。そんな自分の存在すら身を定められないまま、流されながら生活するのに疲れていた。そして何より父が言ったように二人の存在が大きかった。僕は二人のことが大好きだったし、今でも二人が僕の中で、リアリティーをもって存在していたことが僕にとって唯一の新鮮な光景だったからだ。
それから僕は断固として意見を曲げず、強引に学校を辞めた。そして母の勧めで、古くからの母の友人の裕子という女性が営んでいる農業を手伝うことになった。
その女性は夫と二人で農業をしながら、まじめに働く代わりに無料で農業を教えてくれると言うのだった。広い土地を二人で行うのは難しく、たくさんの手伝いが必要だったので、無料で住ませる代わりに農業を手伝わせている、と母から聞いた。
家を出る日の朝、僕は両親に背を向けてから一度も振り返らずに進んだ。それは僕の中まだ少なからず迷いがあったことでもあったし、大樹と沙希と一緒にいたこの場所から離れるうちに、僕の中に存在している二人が、僕の脳裏から徐々に消えていくのを僕は想像し、とても不安になった。
僕はバスに乗って裕子さんの家に向かう途中、大樹と沙希のことを思い出した。その記憶は薄れていなくて、僕は目を閉じた。
そこは獅子座流星群が見える綺麗な星空だった。十一月の寒さで手足がかじかみ、僕らは震えながら空を見上げ、そして流星群見た。
僕たちの見ている空で無数の星が流れ、僕らはそれこそ寒さなど忘れるぐらい、会話も忘れるぐらい流星群に見入っていた。一瞬だけ光っては消え、光っては消え、僕らの見たことのない世界が空に広がっていた。
「寒いね」沙希が静寂を破るように言った。
「もう冬だから当たり前だろ?」と僕が言うと、大樹が冬は嫌いだと言った。
「冬は寒いし、厚着はしなきゃいけないし、嫌なことばかりだ。それに学校に行くのも疲れるし、服を着るのも疲れるし」
「お前はただの怠け者だよ」と僕と沙希がほぼ同時に言った。
「いや俺は違う、怠けているんじゃなくて体力の温存をしているのさ」大樹がきっぱりとした口調で言った。
「どういう意味?」沙希は疑問を投げかけるように、大樹と僕を交互に見た。
「たとえば、今ここで流星群が地上に向かって落ちてくるとする。そんな時に普通の奴らは逃げるはずだ。けど俺はそんなことはしない」
「じゃあどうするの?」と僕が訊ねた。
「俺はここに残って、隕石を止めようとするね。だって逃げたって助かりはしないんだから」と彼は勝ち誇ったかのように言い、それを聞いた僕と沙希は顔を見合わせ笑った。
「スーパーマンにでもなる気かい?」
「馬鹿言うなよ、奴は人間じゃない」と大樹が真顔で言う。
「そんなこと言ったら大樹だって人間じゃないないだろ、隕石を止めたら」僕がそう言うと沙希も右と同じく、と僕のことを指差した。
「確かにそれはそうだけど、俺は現実として考えて、隕石を止められないことぐらい分かって言っているよ。けどそうじゃないんだ。俺が言いたいのは、最後まで生きる希望を捨てたくはないってことなんだ。どんなに危機的な状態だって俺は逃げたくはないんだ」
「戦うって隕石と?」沙希が首を傾けるように言った。
「そうだよ、俺は戦う。逃げたくはない絶対」そう言って大樹はまた空を見上げる。
「なんの意思表示だか、まったくわかんない」と沙希が独り言のように呟き空を見上げる。
そして僕は二人を交互に見てから、遅れて空を見上げる。寒さの中に三人は存在し会話をしている。それは僕にとっては消えない存在であり、仕事に就いても、結婚しても、このまま三人の関係は変わらないと思っていた。いま見ている流れ星のように一瞬にして消えるなんて思っても見なかった。
彼は言った「俺は逃げたくない」と。隕石が落ちてこようと、俺は最後まで生きることを考えると。生きることを捨てた、というのは彼にとって逃げることと同じことなのかもしれない。だから僕は彼が言ったように、いま逃げずに僕は存在しているのかもしれない。
*
帰り道、真っ暗な道に今にも消えそうな薄暗い街灯が頼りなく灯っている。辺りは全くといっていいほど静かで、冷たい風が吹き、枝葉が揺れる音だけがする。
僕らは頼りない街灯を目印に家に向かって歩いていた。
「俺らの存在を刻まないか?」大樹が唐突にそう言った。
少しの沈黙があり「存在?」と僕が言って沙希の方を向き、沙希が「刻む?」と言って僕の方を見た。
「そうだよ、刻もう」大樹が満面の笑みで僕と沙希を見た。
「刻むって、落書きのこと?」僕が大樹に訊く。
「言い方を変えればそういうことになるのかな?」
「嫌よそんなの。見つかったら怒られるじゃない」沙希が睨みつけるように大樹に言う。
「大丈夫だよ。こんな時間に誰も外にはいないよ」大樹はそう言って自分のカバンから、黄色いキャップのスプレー缶と緑の油性マジックを取り出した。
「おいおい、最初から落書きする準備はできていたのかよ」僕はそう言ってため息を吐いた。
「いや、いま思いついたことだけど」
「どこのどいつが計画もしていないのに、スプレーとマジックをいつも常備しているのよ」沙希もため息を吐きながら言った。
「俺は計画では行動しない人間なんだよ。まぁ、隕石を止めようとする人間はそのぐらいの想定をしておかなきゃな」とぼけるようにして言った大樹だが、僕は心の中で本当に大樹が思いついたことのように見えた。けれど、それと同じぐらい大樹が計画をしていたのではないかという疑惑も無いわけでもなかった。大樹は 計算してこのタイミングで言ったのか、それとも思いつきで言ったのかがわからないことが多々あって、そのときいつも僕はこうやって考えているのが多かった。それでも、いまもそれが思いつきなのか計算なのか分からないままだった。
それから僕と沙希は渋々、大樹についていくことにした。
僕らが刻む場所にしたのは、今は誰も住んでいない古いアパートだった。真夜中だというのに、外灯が多く点いていて周りは異様に明るかった。なにか、いままで通ってきた道とは違った空気が僕らを包んでいた。
「ここは自殺が多い所なんだけど、二人とも知ってたか?」
着いていきなり大樹が言った。
「冗談はやめてよ」沙希が小さな声で怯えるように言う。
「冗談じゃないよ」大樹が沙希にそう言った。
この場所は僕も知っていた。最近ニュースなどで有名になっている自殺をする人が多いアパートだった。それもほとんどが僕らと同じぐらいの年齢の学生が多い場所だ。
「僕と同じぐらいの歳の人がここで多く自殺している、だからここに来た」真剣な顔で大樹が言った。
「そうして?」僕は妙に落ち着いていた。沙希は僕の腕をしっかりと掴んで必死で立っていた。そんな中で僕は大機と同じように真剣な顔で大樹にそう訊ねた。
「生きている存在をここで刻めば何かが変わると思ったからさ」大樹が一瞬の迷いも無く、息継ぎもしないで言った。
「もしそれが意味を持たないとしても?」
「意味を持たないとしてもさ」そう言って大樹はアパートの外壁の一面にマジックとスプレーで向日葵の絵を描いた。
綺麗な向日葵だった。ちょうど大樹が描いた落書きに、外灯が当たり鮮やかな絵が僕の目の前に広がっていた。そして僕らはなぜか落書きに無意識に触れた。ざらざらしたコンクリートは冷たかった。けれど落書きされた場所だけが小さな温かみを感じ、僕らは目を瞑り、願った「一人でも多く生きてほしい」と。
*
目を開け僕は現実の世界に戻る。そしてこの後のことは思い出すのをやめた。なぜなら僕が生きてこの世の中に存在しているように、この後には悲しみしか存在しないからだ。 |
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