2014年11月10日
11月10日 南三陸町出身 田畑祐梨さん1
今週は、東日本大震災を語り継ぐ、大学生の取り組みです。
静岡県内の大学に通う大学一年生、田畑祐梨さんは、宮城県南三陸町の出身。
ゆうりさんは、地元の高校に通っていた2013年春に、高校生による語り部の団体「まずもって」を設立しました。「まずもって」とは、地元の言葉で、「とりあえずお話するので、聞いてください」という意味。活動の原点は、中学3年の終わりに起こった、東日本大震災の経験です。
◆中学三年の卒業式前日に・・・
2011年3月11日はわたしの中学校三年生の卒業式の前の日で、その日も卒業式の練習をしているときに地震が起こった。みんな、叫んだり、泣いている子もいれば倒れている子もいて、お互い励ましたり気づかったりしていて。その後体育館の中に入れられて、そのとき初めて、卒業式に座るはずだった一人の時間を持つことができて、その時に「お母さん大丈夫かな、家は大丈夫かな」と思って、過呼吸になってしまって。そしたら、さっきまでわたしを励ましてくれていた友達が、今度はわたしを励ましてくれて。わたしはその友達の声を聞かずにずっと「お母さん大丈夫かな」と言っていて。
電気も通っていなかったので、校長先生が拡声器で「津波が来ました」ということを伝えていて。津波がどういうものかもわかっていなかったし、ほんとうにパニックになっていて。その間も友達はずっと励ましてくれいて。その友達の声が変だなと思って友達の顔を見たら、友達も泣いていた。その時に初めて「わたしだけじゃない、みんながそうなのに、わたしだけがこんな迷惑をかけていたらダメだと思って、ようやく我に返って、落ち着きました。
そのときにお母さんが来て、お母さんは普段は本当に怖い人で、鬼母というか魔女というか、本当に怖い人なんだけど、そのお母さんが泣きながら来て抱きしめてくれて。わたしが物心ついてから始めて抱きしめてくれて。「どうしたの?」と聞いたら、「おじいちゃんが死んだかもしれない」と。わたしが通っていた中学校は南三陸の志津川地区が全部見えるところで、その高台からお母さんは津波が押し寄せてくるのを見ていて、おじいちゃんは志津川病院の4階に入院していたんだけど、身体が不自由で人の助けがないと動けない状態だったから、お母さんは病院に津波が押し寄せてくるのを見て、ただおじいちゃんの名前を叫ぶことしかできなかった、と。それを聞いてわたしもショックで泣いてしまって。でもお母さんがすぐに「お母さんは家からお米を持ってきたから、お米を食べさせる。だからあなたはちゃんと先生の言うこと聞いてなさいよ」と言って、すぐ家庭科室で炊き出しを始めて。そこからわたしの避難所生活が始まった。
そんな中で、わたしを励ましてくれていた友達が街を出て行ってしまったり、すごくショックだったけど、その後、たくさんのボランティアの方や自衛隊の方が入られて、道がきれいになって、ライフラインも通るようになって、安否確認もできるようになって、おじいちゃんが助かっていることを知って、ほんとに家族全員で喜んだ。
でも、わたしの恩師は亡くなってしまった。わたしはその恩師に、伝えたいことをなにも伝えないまま別れてしまったので、それを後悔していて。本当にいまでも毎日後悔しているので、ほかの人には同じような後悔はしてほしくないなあと思って、語り部ではそのことを話している。
田畑さんは中学3年の終わりに東日本大震災で被災。
高校生のとき「まずもって」の活動を始めて、大学生になった現在は、「Action is a Message」という団体の代表として、語り部を続けています。
震災当時、何が起こったのか、改めて震災の記憶をこうして語り継いでいくことは大事だと気付かされるお話でした。その語り部を、大学生になった今でも続けている、そのモチベーションはどこにあるのか、明日以降、お伝えします。
南三陸町 高校生語り部「まずもって」ブログ
静岡県内の大学に通う大学一年生、田畑祐梨さんは、宮城県南三陸町の出身。
ゆうりさんは、地元の高校に通っていた2013年春に、高校生による語り部の団体「まずもって」を設立しました。「まずもって」とは、地元の言葉で、「とりあえずお話するので、聞いてください」という意味。活動の原点は、中学3年の終わりに起こった、東日本大震災の経験です。
◆中学三年の卒業式前日に・・・
2011年3月11日はわたしの中学校三年生の卒業式の前の日で、その日も卒業式の練習をしているときに地震が起こった。みんな、叫んだり、泣いている子もいれば倒れている子もいて、お互い励ましたり気づかったりしていて。その後体育館の中に入れられて、そのとき初めて、卒業式に座るはずだった一人の時間を持つことができて、その時に「お母さん大丈夫かな、家は大丈夫かな」と思って、過呼吸になってしまって。そしたら、さっきまでわたしを励ましてくれていた友達が、今度はわたしを励ましてくれて。わたしはその友達の声を聞かずにずっと「お母さん大丈夫かな」と言っていて。
電気も通っていなかったので、校長先生が拡声器で「津波が来ました」ということを伝えていて。津波がどういうものかもわかっていなかったし、ほんとうにパニックになっていて。その間も友達はずっと励ましてくれいて。その友達の声が変だなと思って友達の顔を見たら、友達も泣いていた。その時に初めて「わたしだけじゃない、みんながそうなのに、わたしだけがこんな迷惑をかけていたらダメだと思って、ようやく我に返って、落ち着きました。
そのときにお母さんが来て、お母さんは普段は本当に怖い人で、鬼母というか魔女というか、本当に怖い人なんだけど、そのお母さんが泣きながら来て抱きしめてくれて。わたしが物心ついてから始めて抱きしめてくれて。「どうしたの?」と聞いたら、「おじいちゃんが死んだかもしれない」と。わたしが通っていた中学校は南三陸の志津川地区が全部見えるところで、その高台からお母さんは津波が押し寄せてくるのを見ていて、おじいちゃんは志津川病院の4階に入院していたんだけど、身体が不自由で人の助けがないと動けない状態だったから、お母さんは病院に津波が押し寄せてくるのを見て、ただおじいちゃんの名前を叫ぶことしかできなかった、と。それを聞いてわたしもショックで泣いてしまって。でもお母さんがすぐに「お母さんは家からお米を持ってきたから、お米を食べさせる。だからあなたはちゃんと先生の言うこと聞いてなさいよ」と言って、すぐ家庭科室で炊き出しを始めて。そこからわたしの避難所生活が始まった。
そんな中で、わたしを励ましてくれていた友達が街を出て行ってしまったり、すごくショックだったけど、その後、たくさんのボランティアの方や自衛隊の方が入られて、道がきれいになって、ライフラインも通るようになって、安否確認もできるようになって、おじいちゃんが助かっていることを知って、ほんとに家族全員で喜んだ。
でも、わたしの恩師は亡くなってしまった。わたしはその恩師に、伝えたいことをなにも伝えないまま別れてしまったので、それを後悔していて。本当にいまでも毎日後悔しているので、ほかの人には同じような後悔はしてほしくないなあと思って、語り部ではそのことを話している。
田畑さんは中学3年の終わりに東日本大震災で被災。
高校生のとき「まずもって」の活動を始めて、大学生になった現在は、「Action is a Message」という団体の代表として、語り部を続けています。
震災当時、何が起こったのか、改めて震災の記憶をこうして語り継いでいくことは大事だと気付かされるお話でした。その語り部を、大学生になった今でも続けている、そのモチベーションはどこにあるのか、明日以降、お伝えします。
南三陸町 高校生語り部「まずもって」ブログ