2015年1月26日

1月26日 被災地を救った「紙の建築」〜建築家・坂茂1

今朝は、世界的建築家・坂茂さんの被災地支援について、お伝えします。

去年3月、建築界のノーベル賞と言われる「プリツカー賞」を受賞した坂さんは、世界各国で革新的な建築を手掛けながら、東日本大震災をはじめ被災地での支援活動を続けています。宮城県・女川町に、まもなく復活するJR女川駅の駅舎も、坂さんの設計によるものです。

今週お届けするのは、先日東京都内で行われたシンポジウムから、坂茂さんのトークセッションの模様です。坂さんの代名詞ともいえる「紙を使った建築」のお話です。

◆紙管で建築を作る
<聞き手:高橋万里恵>
〜坂さんといえば、阪神淡路大震災や東日本大震災の被災地でも活躍した「紙」を使った建築が有名ですよね。

坂:紙と言っても再生紙(紙管)。1986年、まだエコやリサイクルという言葉が言われていなかった時。faxの紙の芯や建築家が使うトレーシングペーパーの芯に紙管が使われていて、モノを捨てるのが苦手なのでそれを活かして天井や壁を作ったところ思った以上に強かったので、これを建築の構造として使う開発を始めた。

〜紙って燃えやすいし雨にぬれると柔らかくなるイメージがありますが大丈夫なのでしょうか。

坂:みなさんそう思われるが、オレンジジュースや牛乳のパックは紙。紙は木と違って工業製品なので防水や不燃の加工がしてある。家に使う壁紙も不燃加工がしてある。工業製品だから防水や不燃の加工は簡単にできる。木の建物でも地震に強いもの、紙で作っても地震で壊れないものは作れる。そう考えると建築の強度や耐久性は材料の強度とは関係ないことが分かる。論理的に、木よりも弱い紙を使っても構造計算をちゃんとすれば、安全な建築ができるということは理論上分かっていたのでそれを実践して、国交省の許可を取って実証している。より弱い、身の回りにある材料を使っても安全な建築を作れるという信念のもとに開発を始めた。


坂さんがおっしゃる「紙管(しかん)」。これは、何重にも紙をまいた堅い筒というイメージ。30枚の紙を使い15ミリの厚さにしたものです。

坂さんは、自ら開発した紙の建築材を使い、まず東アフリカ・ルワンダの難民キャンプのためのシェルター作りを手掛けました。そしてその翌年。紙の建築は日本の大災害でも活用されます。95年の阪神淡路大震災です。



◆難民たちのための教会を
坂:あれだけの大変な災害があって、何かお手伝いしたいと思ったがどこに行っていいか分からなかった。その時たまたま新聞で、日本政府が初めて受け入れたボートピープルと呼ばれるベトナムの難民の人たちの帰還センターが神戸にあった。キリスト教の人たちが多く、地元・長田区の教会には被災した信者たちが集まっているというのを知った。日本の一般の被災者も大変な思いをしているが、いわゆるマイノリティの人たちはもっと大変な思いをしているだろうと、長田区にあるカトリック教会へ行き、お金集めと学生集めをして僕らの手で教会を作り始めた。2〜3年使えればいいよということだったが、あまりに出来が良く信者たちも気に入ってくれて10年間使われた。その後は台湾で地震があり、解体して台湾の被災地で再建して使われている。今はパーマネント(永遠)な教会・兼コミュニティセンターとして神戸から20年が経過した今もみんなに愛されている。そこで考えたのが、何が仮設で何がパーマネントなのか。さっきのようにコンクリートで作っても地震で壊れる。でも紙で作ってもみんなが愛しさえすればパーマネントになりうる。何が仮設か何がパーマネントかというのは、コンクリートか紙かではなく建築が人に愛されるかどうか。それで長く残るか短期間で残るかの違いということ。


坂さんはこのほか、インド、トルコ、スリランカ、中国四川でも支援を行い、2011年2月の大地震で倒壊した、ニュージーランド・クライストチャーチの大聖堂も「紙の教会」として設計しています。

そして、クライストチャーチの大地震の直後に東日本大震災が発生。紙の建築はここでも大きな役割を果たすことになります。この続きは明日のこの時間にお届けします。

2015年1月22日

1月22日 阪神淡路大震災遺児 小島汀さんのメッセージ

今週は、阪神淡路大震災の遺児のメッセージです。

阪神淡路大震災の遺児・孤児をサポートしてきた「あしなが育英会」主催する講演会の模様から、昨日に引き続き、小島汀さんのお話です。震災当時は3歳だった小島さん。兵庫県芦屋市で被災し、お父さんを亡くしました。高校は環境防災科に進み、その後大学に進学。この春に就職することが決まっています。また、あしなが育英会を通じて、海外の災害の被災者とも交流を重ね、東日本大震災以降は、東北でもボランティア活動を続けてきました。

◆この20年の支えを今度は東北にいかしたい
東北には何回か行っていたが、1週間ぐらいが限度でなかなか仲良くなったぐらいに帰っちゃうという状態が続いて寂しくて。自分は長い目でサポートしてくれたのがうれしかったので、長期的に行きたいなという思いを持って、石巻の雄勝町の沿岸の地域で生活をしながら、中学生の授業の補助に入ったり、仮設住宅に行ったり、ボランティアの受け入れをしたりしていた。実際に自分に何ができたのかはよくわからないけど、「神戸から来たよ」というと、心を開いてくださるかたもいて、誰かを勇気づけるきっかけになったんじゃないかと、わたしも支えられている。またこういうふうに講演会の機会を作ってくださって、震災の経験や想いを語るというのはすごう勇気がいることだけど、繰り返し語ることで自分の想いが整理されていくことは、自分にとってよかったと思っている。
東北の震災も神戸の震災も、なかったらよかったなと思うけど、この20年間を振り返るとわたしにとっては出会いの連続で、支えてくれた人もそうだし、わたしがなにかをしたいなと思って動いた結果誰かが喜んでくれたり。(震災で亡くなった)お父さんが引き寄せてくれたというか、お父さんがくれた最後の宝物なんじゃないかと、いつも思っている。

わたしはこの春大学を卒業して、ウェディングプランナーになる。大学からは自分の好きなことをやろうときめて、自分のやりたいことを見つけた。自分はいままでの経験を通して、人と出会うこと、人と話すことが大好き。この人と出会ってよかったなと感じたり、この人と出会うために頑張ろうと目標を持ってやってきたりしたので、「出会ってよかったなと思える人になること」がわたしのいまの目標。ウェディングプランナーになっても、結婚式をするカップルだけでなく、まわりのお友達も楽しませることができるような、脇役ではあるけど笑顔を与えられるようなプランナーになりたい。自分がなにをどうしようでなく、自分が元気で働いていることが、お母さんやまわりの人に感謝の想いを伝えられることなんじゃないか、それが最大の親孝行なんじゃないかと。いまは残りの大学生活を満喫しつつ、頑張りたいと思っている。

  
今朝は阪神淡路大震災で親を亡くした、震災遺児のメッセージでした。

あしなが育英会では、仙台、石巻、陸前高田にそれぞれ「レインボーハウス」を設立。震災遺児・孤児の見守りや心のケアを行っています。また子どもたちの遊び相手、通称「ファシリテーター」も随時募集しています。関心のある方は、あしなが育英会のオフィシャルサイトをご確認の上、あしなが・東北事務所にお問い合わせください。
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パーソナリティ 鈴村健一

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