2015年6月3日

6月3日 仙石線全線開業・沿線のいま3


5月30日、東松島市・野蒜駅前では仙石線の復旧を祝うイベントが開かれ、地元生産者やお店、観光施設の方々が様々なブースでイベントを盛り上げました。

その一つが、奥松島縄文村歴史資料館。野蒜駅から5キロほどの距離、東松島市の宮戸島にある施設です。「奥松島」と呼ばれるこの地域、実は縄文時代の遺跡が数多く残っていて、考古学的にも、防災の観点からも、非常に価値の高い場所なんです。歴史資料館の館長で、学芸員の菅原弘樹さんに伺いました。

◆縄文人に学ぶ防災
宮戸島では、室浜、大浜、月浜は外洋に面している。集落としてはおそらく江戸時代以降に出来たと考えられていて、海のそばに集落があった。それに対して里浜貝塚のある里浜は内湾に面している。今回の震災でも直接津波を受けていない。しかも里浜は10mくらい高いところに集落があった。これは表の3つの浜とは明らかに違う。それは実は縄文人が住んでいた遺跡の上にある。縄文人がすんでからずっと現代まで先祖代々受け継いだことによって、今回震災の被害が非常に少なかった。改めて縄文人が住んでいたところは安全だということが分かった。全国的に見ても震災被害を受けた青森から茨城まで、貝塚は480ほどあるがその中で今回の津波をかぶったところはない。縄文人は、どの縄文人もみんな高いところに住んでいた。今回の震災を受けたキーワードとして、職住分立が完全にできていた。縄文人も低いところで貝を取り魚を獲り、塩を作っていた。ただ住むところは海を臨む高台だった。山を切り開いて平らにして竪穴住居を作り、周りには里山があり、山の木を管理しながら、海を見下ろす高台にいて魚介類を下に撮りに行く。徹底した職住分離ができていた。今各地で高台移転ということで造成工事が行われているが、そうすると必ず遺跡にぶつかる。漁業をする上で便利なところということで、みなさん海岸に住むのだが、安全なところは海を見下ろす近くの山。集落のそばには昔の記念碑があって、そこの集落の人は、昔津波で亡くなった人がいるから津波が来る状況になったら必ずそこより高いところに逃げた。いつの時代か分からないが、その言い伝えや石碑に従って地域の人たちは逃げた。宮戸島には1000人の人がいたが、10人が亡くなった。その多くは仕事で野蒜でなくなったり、鹿浜で亡くなった。集落で亡くなった人は1人だけ。伝えていかなければいけない。島全体が防災教育の場になる。島としてはこの玄関口である野蒜が震災後のまま、仙石線が止まっていたままだった。それが動き出したということは野蒜、宮戸島にとっても大きい。地域にとっても、よそから来た人にとっても復興を感じ取ってもらえるのではないか。電車が通り、復興状況を見てもらえるのは大きな大きな一歩だと思う。ぜひ宮戸島まで来てもらいたい。宮戸島はいいところ。「奥」松島ですから。そういう自然がそのまま残っていて、観光地ではない本当の松島の姿が残っているのでそれをぜひ見に来てほしい。


そもそも宮城県は、全国で3番目に貝塚が多く、その3分の1が松島湾沿岸にあります。特に奥松島・宮戸島は6800年前、松島湾沿岸の人々の拠点的な集落だったそうです。そしてその発掘は、全体の1%ほどしか終わっておらず、まだまだこのあたりには私たちの先祖が残した、たくさんのメッセージが眠っていると考えられています。

奥松島縄文村歴史資料館

2015年6月2日

6月2日 仙石線全線開業・沿線のいま2

引き続き、全線復旧したJR仙石線の沿線、宮城県東松島市からのレポートです。

取材したのは、仙石線・野蒜駅周辺、野蒜地区です。津波でおよそ500人の方が犠牲となり、駅舎は全壊。新しい駅は、内陸の高台に移設されました。現在、新しい駅舎周辺では、仮設住宅から集団移転する方のための宅地造成が進められています。東松島市 復興政策課、五野井盛夫さんの話です。

◆階段を一つ一つあがるように
野蒜地域というのは特徴的で、三方を海に囲まれている。太平洋側と松島湾側で海に面している。丘陵地以外は低地で、ほとんどが住居地域だった。そこに津波が来た。高さ10mと言われているが、それで逃げ後れてなくなった方が多かった。そういう中で町づくり構想を立てる中で、全部を高台に建てたいという願望はあったが、住宅・市営住宅だけでなく公共公益施設となる市民センターや集会所、学校や保育施設や派出所や郵便局、高齢者の施設などを全て一体的に丘陵地に造成するということになるわけで、その中で交通体系のJRも一体的に高台に駅を移転するということで一つの町を作っている、という想いはある。そういう中で工事の事業は途中。住宅の引き渡しもJRが開業してから1年後にはじまる。そこから住宅を建てて、商店が出来るまでは一定の時間がかかるだろうなと思う。きょうJRが走ったのは一つのポイント。階段を上がって行くように一つの段階を超えたという想いです。


高台を切り開いた土地が、住民へ引き渡されるのは、来年の7月から。これはあくまで「土地の引き渡し」で、家を建てるのはそれ以降となります。町全体で宅地引き渡しが終わり、公共施設などが完成するのは、2017年4月になると言います。インフラの整備が進む一方、町づくりは、まだまだ、これからです。

◆必要なのは人材と時間
仕事を進めていて、何一つ復興事業が終わっていないと思う。駅が完成したが全てが終わっているわけではない。これからもどんどん進めなければいけないことがたくさんある。そういう意味で考えると、これから必要なのは人材と時間。震災からどんどん時間が過ぎている。元に戻すのにどれくらいかかるのかと考えてしまう。私の野蒜の昔からのイメージは、白い砂浜と緑の松林。そこまで復元するにはすごい時間がかかるのかなと思う。白い砂浜に戻しても脇で工事が行われていて重機があったら風光明媚には見えない。そのあたりも早く終えていかないと私は、白い砂浜には見えないと思っている。まだそこまで行っていない。被災者の移転先をとにかく作ることが重要課題だが、それをあわせて、松が生えて立派になるには30年くらいかかる。戻ってほしいですよね。考えて行かなければ行けないです。


東松島市の五野井さんは、町づくりの計画について、少しでも前倒しして行きたい、ともおっしゃっていました。新しい野蒜駅は、ちょっと急な坂を登る必要があります。お年寄りの方には少し負担が大きい印象がありました。駅周辺の高台に、集団移転が進まないことには、駅の利用もなかなか増えないことも考えられます。五野井さんの言う「人材と時間」。まだまだ様々なサポートが必要です。

あしたも全線復旧した仙石線沿線から、人々の声をお伝えします。
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パーソナリティ 鈴村健一

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