2015年6月3日
6月3日 仙石線全線開業・沿線のいま3
![](/cms/thumbnails/61/61588533adc2e91cbc91d995c04a77f3.jpg)
![](/cms/thumbnails/49/49c8e37730821a2a1b306a1d48ab550f.jpg)
5月30日、東松島市・野蒜駅前では仙石線の復旧を祝うイベントが開かれ、地元生産者やお店、観光施設の方々が様々なブースでイベントを盛り上げました。
その一つが、奥松島縄文村歴史資料館。野蒜駅から5キロほどの距離、東松島市の宮戸島にある施設です。「奥松島」と呼ばれるこの地域、実は縄文時代の遺跡が数多く残っていて、考古学的にも、防災の観点からも、非常に価値の高い場所なんです。歴史資料館の館長で、学芸員の菅原弘樹さんに伺いました。
![](/cms/thumbnails/c3/c3550a3b4448556f413a147ee200c169.jpg)
◆縄文人に学ぶ防災
宮戸島では、室浜、大浜、月浜は外洋に面している。集落としてはおそらく江戸時代以降に出来たと考えられていて、海のそばに集落があった。それに対して里浜貝塚のある里浜は内湾に面している。今回の震災でも直接津波を受けていない。しかも里浜は10mくらい高いところに集落があった。これは表の3つの浜とは明らかに違う。それは実は縄文人が住んでいた遺跡の上にある。縄文人がすんでからずっと現代まで先祖代々受け継いだことによって、今回震災の被害が非常に少なかった。改めて縄文人が住んでいたところは安全だということが分かった。全国的に見ても震災被害を受けた青森から茨城まで、貝塚は480ほどあるがその中で今回の津波をかぶったところはない。縄文人は、どの縄文人もみんな高いところに住んでいた。今回の震災を受けたキーワードとして、職住分立が完全にできていた。縄文人も低いところで貝を取り魚を獲り、塩を作っていた。ただ住むところは海を臨む高台だった。山を切り開いて平らにして竪穴住居を作り、周りには里山があり、山の木を管理しながら、海を見下ろす高台にいて魚介類を下に撮りに行く。徹底した職住分離ができていた。今各地で高台移転ということで造成工事が行われているが、そうすると必ず遺跡にぶつかる。漁業をする上で便利なところということで、みなさん海岸に住むのだが、安全なところは海を見下ろす近くの山。集落のそばには昔の記念碑があって、そこの集落の人は、昔津波で亡くなった人がいるから津波が来る状況になったら必ずそこより高いところに逃げた。いつの時代か分からないが、その言い伝えや石碑に従って地域の人たちは逃げた。宮戸島には1000人の人がいたが、10人が亡くなった。その多くは仕事で野蒜でなくなったり、鹿浜で亡くなった。集落で亡くなった人は1人だけ。伝えていかなければいけない。島全体が防災教育の場になる。島としてはこの玄関口である野蒜が震災後のまま、仙石線が止まっていたままだった。それが動き出したということは野蒜、宮戸島にとっても大きい。地域にとっても、よそから来た人にとっても復興を感じ取ってもらえるのではないか。電車が通り、復興状況を見てもらえるのは大きな大きな一歩だと思う。ぜひ宮戸島まで来てもらいたい。宮戸島はいいところ。「奥」松島ですから。そういう自然がそのまま残っていて、観光地ではない本当の松島の姿が残っているのでそれをぜひ見に来てほしい。
![](/cms/thumbnails/f6/f6fbac0ac071b8aa4e651b63f1fe4290.jpg)
そもそも宮城県は、全国で3番目に貝塚が多く、その3分の1が松島湾沿岸にあります。特に奥松島・宮戸島は6800年前、松島湾沿岸の人々の拠点的な集落だったそうです。そしてその発掘は、全体の1%ほどしか終わっておらず、まだまだこのあたりには私たちの先祖が残した、たくさんのメッセージが眠っていると考えられています。
奥松島縄文村歴史資料館