2015年7月13日

7月13日 いわき市「たまごの郷」(1)

今日と明日は、福島県いわき市の「たまごの郷」からのレポートです。

直営の養鶏場から届く新鮮な卵と、その卵を使ったスイーツが人気の「たまごの郷」。お店を手掛けるのは、大柿純一さんです。大柿さんは、原発事故の影響で全町民避難が続く、福島県大熊町の出身。自宅は、福島第一原発からおよそ5キロのところにあり、お父様の代から受け継いだ養鶏場では、およそ10万羽のニワトリを飼育、卵を使ったスイーツも地元の方たちに愛されていました。

◆震災当時は次の日には帰れるかと・・・
大熊町というところで、親の代、50年ほど前から営業をしている。もともとは養鶏所が本業だが、15年ほど前からお菓子の製造販売を始めた。
震災当日は確定申告で役場にいて、大きな揺れが来た。お店に行ったり、農場に行ったりしたがひどい状態。農場もエサのタンクが曲がって、エサも水もやれない状況で。それに対処していたら、すぐに避難しなさいという避難命令が出て、自分の車で三春の避難所に避難した。そのときには、次の日ぐらいには(自宅に)戻ってこられるんだろうと思っていた。それは町民の人もほとんどの人は、2〜3日で戻れると思っていたと思う。2〜3日だったら、鶏たちもなんとか大丈夫だろうと思って、避難した。
避難所についたのが、次の日のお昼ぐらいで、その後3時ぐらいに爆発した映像がテレビで流れて、これでは帰れなくなるんじゃないかなと。

  
結局大柿さんは、従業員を全員解雇して、奥さんの実家がある茨城県で避難生活を送ることになりました。でも、そこであきらめないのが、大柿さんのすごいところ。避難生活を始めた直後から、農場とお店の再開に向けて動き出します。

そして震災から3年を経た昨年、いわき市内で養鶏場を再開。昨年5月には、卵の直売とスイーツの販売を手掛ける「たまごの郷」のリニューアルオープンにこぎつけました。

◆養鶏場ができる場所を求めて
(原発が)爆発したときからすぐに、とにかく養鶏場をまたやるつもりでいた。だから、日本全国、とくに関東を中心に、養鶏場ができる場所を探すというのが、日課だった。一つは、親父から引き継いだ仕事を自分の代で終わりにしたくないという思い、あとは跡継ぎの息子がいたということもある。だいたい40か所くらい探して回ったが、養鶏場ができるば所はそんなにない。そんな中、(福島県いわき市で)たまたま養鶏場をやっていた人から、売ってもいいですよという話が持ちかけられた。いわきで養鶏場を再開できたのは、大変幸運だった。遠いところだと知り合いもいなくて、なにかと不安だが、いわきなら(自分の故郷の大熊から)避難してきた人もたくさんいて、「以前は(大熊町の)お店に行ってたんだよ」「再開できてよかったね、楽しみにしていたよ」という声を聞くとうれしくなる。鶏の数はいまは1万2000羽で、ピークに比べると10分の1.もう少し増やしたい。
最初オープンのころは、お菓子は売れたが卵が全く売れなかった。それが1年経ってみると、お菓子の売り上げは変わらないが、卵の売り上げは3〜4倍になった。思ったほど風評被害が少なかったという印象。最初のころは「(放射能の影響は)大丈夫なの?」というと問い合わせもあったが、最近は全くといっていいほどない。毎月のように、卵だけでなく、エサ、水に至るまで、いろいろなものの放射能検査をしている。



1番人気の「えっぐプリン」のほかにも、ふわふわ生地の「ロールケーキ」や卵たっぷりの「かすてら」など、お店には自慢のスイーツが並んでいます。

店内には、フリードリンクのカフェスペースも設けました。
「被災した人たちが気軽におしゃべりできる憩いの場になれば」という思いからこのカフェスペースをつくったそう。

2015年7月10日

7月10日 ふたば未来学園(4)


今週は「ふたば未来学園」からのレポートです。正式名称は「福島県立ふたば未来学園高等学校」。原発のある双葉郡8町村の要望でこの4月に開校し、現在は一年生のみ152名が在籍しています。生徒のおよそ半数は自宅や仮設住宅から通い、残りの半数は、学校近くの寄宿舎で生活をしています。

4月からこの学校に通う生徒さんたちにも、話を聞くことができました。どんな思いでこの学校を選んだのでしょうか。


◆「将来は津波や地震に耐えられる建物を作りたい」
双葉郡富岡町出身、井出大雅です。
当時は小学校5年生で震災があったが、震災があったときはパニック状態で、親とか周りの人に助けられてここまで来ました。いまは高校生になったので、これからは両親や周りの人などお世話になった人たちに恩返しをしたいと考えています。この学校は一期生だから、これから自分たちが伝統を築くという意味で、この学校を選びました。さらに海外研修もあると聞いたのでここを選びました。
故郷は誇りです。自慢したい街ですね。いまは双葉郡は全滅というか帰れない状態ですが、将来双葉地区の仕事に就きたいです。測量士穂になって、津波や地震にも耐えられる建物を作りたいと考えています。まずは双葉郡をよくして、さらに福島県全体もよくしたい。そういう目標を持って頑張っています。」


◆「将来は医者になろうと考えています」
双葉郡富岡町の出身、山田拓甫君です。
富岡町から避難して、各地の避難所や知り合いの家を転々としたが、避難している4年間は故郷から離れることに悲しみを全く感じなかったんです。見ないようにしていたというか、それよりももっとやるべきことがあったというか。僕は長男なので、家族を引っ張るというか、常に前を向いていなければいけなかったんです。弟たちが駄々をこねたり、わがままを言ったりするので、自分はそういうことは言えませんでした。
中三で進路を考えるとき、故郷を失った喪失感が強く表れるようになってきて。自分の夢について考えたとき、人助けをするのに幸せを感じると気付き、それを生かせる仕事はなにかと考えたら、一番しっくりきたのが「医者」でした。いま自分は医者になろうと考えています。学力などはまだ足りないですが、それに向かって目標も見つかった。いまは帰れませんが、自分を育ててくれた故郷に対する恩返しができたらなと思っています。



最後は副校長、南郷市兵さんです。

◆「ここから新しいものを作っていくのが、僕の役割」
福島から初めていかないとな、と思っています。僕は日本全国の教育を考える文部科学省にいたが、福島の人たち、福島の中学生高校生から教えてもらうことがすごく多い4年間だった。ここから新しいものを作っていくのが、僕の役割だと思っています。
全国や世界に教育の復興と地域づくりのモデルとして発信する。これは双葉郡の教育長さんたちが教育復興ビジョンの中で書いた言葉だが「変革は遠いところ、弱いところ、小さいところから」という言葉があるが、この厳しいところから全国のモデルをつくっていきたいし、いまの生徒たちの活躍をみると、「できる」と確信しています。



「福島県立ふたば未来学園」学生たちの声と、副校長、南郷市兵さんでした。

ふたば未来学園は、双葉郡にある既存の高校の伝統を受け継いで、バドミントンやサッカーなど、スポーツもさかんです。今後、全国大会などで「ふたば未来学園」の名前を耳にするかもしれません。

「ふたば未来学園」Facebook
  
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パーソナリティ 鈴村健一

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