2015年8月17日
8月17日 石巻市 大川小学校のいま
今朝は、中西哲生のレポートです。
取材したのは宮城県石巻市 大川小学校。
全校児童108名のうち74名が死亡・行方不明となり、教職員の方も10人が亡くなった場所です。まだ下校前、学校の管理下にありながら、これほどの犠牲が出てしまったのは、大川小学校だけだと言います。そしてこの件は今も、「なぜ助けられなかったのか」という疑問が残ったままです。
現場を案内してくれたのは、津波を受けた大川小学校の旧校舎で、語り部を続ける、「小さな命を考える会」代表の佐藤敏郎さん。ここで亡くなった小学6年生・佐藤みずほさんの、お父さんです。
◆なぜ、大川小の児童たちは避難できなかったのか
津波は色んなモノを巻き込んできたわけで、2時46分に大きな揺れがあって、3時33分ごろに富士川という細い川が溢れたみたいです。ここまではこないだろうという方が多かったんですが、そこから溢れたのを見て「これはまずい」逃げた人は助かっている。そして北上川は、北上川の上に架かっている橋に色んなモノがせき止められ堰になり、波がたまってたまって、ドンと来たのが3時37分です。だから一気に(津波が)来たんですよね。ここ(大川小)に来た時は8m近くと言われている。2階の天井ギリギリまで。そこに体育館があったんですが木っ端みじんです。海から4km離れていて体育館がこれだけ破壊されたのは今回の震災では他に無いと思う。このように山に囲まれていて、地震から51分あったわけです。親としてみればなんとかならなかったのかという思いがある。体育館の裏ではシイタケ栽培を毎年行っていた山があるんです。しかも当時は3月なので草も生えていないし、しいたけ栽培は毎年3月はじめにやっていて、子どもたちは毎年登っていた場所。ほんのちょっと登っていたら助かったんです。だから選択肢はなかったわけではなくて、迎えに来たお母さん達も「先生、津波が来るから山に逃げてね」と言っているし、子どもたちも「先生、山に逃げよう」と訴えている。先生方の中にも「逃げよう」という意見があったみたい。しかし組織として意思決定に繋がらなかった、共有できなかったのが問題だと思っている。あの山に登れるか登れないというより、なぜ動かなかったのかというのをしっかり真ん中にして考えたいと思っている。私は教員だったので先生方みんなは知り合いで、間違いなく一生懸命だったと思う。一生懸命だったけれども動けなかった、助けられなかったということはしっかり向き合わなければならないと思っている。どんなに先生達は後悔したかと思う。なんらかの理由で校庭にとどまってしまい、動き始めたらすぐに津波が来た。しかも川に向かってしまっていて、さらに行き止まりのところに行ってしまって、あのへんで押しつぶされて子どもたちは見つかった。だからそれが悔しいというか。ちゃんと考えて行きたいなと思うところ。なんらかの理由があったはずだし。
佐藤さんは震災当時、おとなり女川町の中学校の先生でした。同じ「先生」という立場。そして「遺族」としての辛い想い。本当に大きな葛藤を抱えながら、過ごされて来たと言います。
◆命たちに意味づけをしたい
たくさん全国の方がいらっしゃって手を合わせて祈ってくれるのをとてもありがたいと思うのと同時に、そっとしておいてほしいという想いが無いわけではない。私自身もそのあいだで4年半は迷っていたところがある。(生かされている意味をどうとらえてらっしゃるか)去年1年前くらいからは、あの命達に意味づけをしたい。未来につながるような意味付けをしたい。それは私たち生かされているものの役割のような気がする。いろんな話をする時も、ここに子どもが居ると思って話せば間違った方には行かないと思う。今日も一緒に居ると思って話せば。そんな風に、整理じゃないですけど、言葉にするようになりましたね。
佐藤さんの次女・佐藤みずほさんは当時小学校6年生。いまも校舎の中には、みずほさんや、児童の名札が残っています。大川小からのレポートは、また9月にお伝えします。
取材したのは宮城県石巻市 大川小学校。
全校児童108名のうち74名が死亡・行方不明となり、教職員の方も10人が亡くなった場所です。まだ下校前、学校の管理下にありながら、これほどの犠牲が出てしまったのは、大川小学校だけだと言います。そしてこの件は今も、「なぜ助けられなかったのか」という疑問が残ったままです。
現場を案内してくれたのは、津波を受けた大川小学校の旧校舎で、語り部を続ける、「小さな命を考える会」代表の佐藤敏郎さん。ここで亡くなった小学6年生・佐藤みずほさんの、お父さんです。
◆なぜ、大川小の児童たちは避難できなかったのか
津波は色んなモノを巻き込んできたわけで、2時46分に大きな揺れがあって、3時33分ごろに富士川という細い川が溢れたみたいです。ここまではこないだろうという方が多かったんですが、そこから溢れたのを見て「これはまずい」逃げた人は助かっている。そして北上川は、北上川の上に架かっている橋に色んなモノがせき止められ堰になり、波がたまってたまって、ドンと来たのが3時37分です。だから一気に(津波が)来たんですよね。ここ(大川小)に来た時は8m近くと言われている。2階の天井ギリギリまで。そこに体育館があったんですが木っ端みじんです。海から4km離れていて体育館がこれだけ破壊されたのは今回の震災では他に無いと思う。このように山に囲まれていて、地震から51分あったわけです。親としてみればなんとかならなかったのかという思いがある。体育館の裏ではシイタケ栽培を毎年行っていた山があるんです。しかも当時は3月なので草も生えていないし、しいたけ栽培は毎年3月はじめにやっていて、子どもたちは毎年登っていた場所。ほんのちょっと登っていたら助かったんです。だから選択肢はなかったわけではなくて、迎えに来たお母さん達も「先生、津波が来るから山に逃げてね」と言っているし、子どもたちも「先生、山に逃げよう」と訴えている。先生方の中にも「逃げよう」という意見があったみたい。しかし組織として意思決定に繋がらなかった、共有できなかったのが問題だと思っている。あの山に登れるか登れないというより、なぜ動かなかったのかというのをしっかり真ん中にして考えたいと思っている。私は教員だったので先生方みんなは知り合いで、間違いなく一生懸命だったと思う。一生懸命だったけれども動けなかった、助けられなかったということはしっかり向き合わなければならないと思っている。どんなに先生達は後悔したかと思う。なんらかの理由で校庭にとどまってしまい、動き始めたらすぐに津波が来た。しかも川に向かってしまっていて、さらに行き止まりのところに行ってしまって、あのへんで押しつぶされて子どもたちは見つかった。だからそれが悔しいというか。ちゃんと考えて行きたいなと思うところ。なんらかの理由があったはずだし。
佐藤さんは震災当時、おとなり女川町の中学校の先生でした。同じ「先生」という立場。そして「遺族」としての辛い想い。本当に大きな葛藤を抱えながら、過ごされて来たと言います。
◆命たちに意味づけをしたい
たくさん全国の方がいらっしゃって手を合わせて祈ってくれるのをとてもありがたいと思うのと同時に、そっとしておいてほしいという想いが無いわけではない。私自身もそのあいだで4年半は迷っていたところがある。(生かされている意味をどうとらえてらっしゃるか)去年1年前くらいからは、あの命達に意味づけをしたい。未来につながるような意味付けをしたい。それは私たち生かされているものの役割のような気がする。いろんな話をする時も、ここに子どもが居ると思って話せば間違った方には行かないと思う。今日も一緒に居ると思って話せば。そんな風に、整理じゃないですけど、言葉にするようになりましたね。
佐藤さんの次女・佐藤みずほさんは当時小学校6年生。いまも校舎の中には、みずほさんや、児童の名札が残っています。大川小からのレポートは、また9月にお伝えします。