2015年8月22日

8月21日 STAND UP SUMMIT2015

今朝は、8月11日、東京ビッグサイトで行われた『STAND UP SUMMIT 2015』の模様をお送りします。
このイベントは、これからの復興を担う若者たちが中心となる参加型の復興支援イベントで、「未来は自分たちで創っていく!」という想いのもと、東北、東京、海外から350名の中・高・大学生が集まりました。

その中から岩手・宮城・福島を代表する6名の生徒たちが壇上にあがり、震災当時のことから、故郷の今、そして復興への想いを語ってくれました。

また特別講師としてお迎えした、大きな夢を実現させ続けている、トップアスリート、車いすテニスプレーヤーの国枝慎吾さんからのメッセージとともに、お伝えします。

●岩手県 宮古第一中学 荒川泰青くん 中学3年
岩手県宮古市は震災で甚大な被害を受けた町です。震災当時僕は小3の3学期で自宅は1階はすべて浸水しました。津波が来たときは雪が降っていたが、夜になって町のすべてが停電だったので空の星がすごくよく見えた。普通ならキレイとか、電気のありがたみを知るという感じだと思うが、その時はおびただしい星の数があって、死んだ人が星になったかのようで不気味だった。中には家族を失って、神様私たちに何をしたのと泣きながらうずくまっている人もいて、小学校4年生でありながら「死ぬかもしれない」という場面に直面してしまいました。
しかし今の宮古市は4年経って復興しきれてないところもありますが、だんだんと昔の街並みを取り戻して、それから岩手県は来年2016年には国体が行われることになりました。震災で5年しか経ってないのに国体ができるのはすごいことだと思うし、英語が好きですごく勉強しているので、東京オリンピックでは選手でなくても、外国人の方の通訳をしたり、震災のことを伝えたりして、復興に協力できればと思っています。 

●福島県 東日本国際大学付属昌平高校 猪狩晴絵さん 高校2年
私は現在いわき市に住んでいます。私が住んでいるところは市街地なんですが、いわきの沿岸部の四ツ倉というとこでは、そこの中学校では津波で流されてしまったご遺体がサッカーのゴールネットに引っかかってなかなか学校が再開できなかったり、近くの蟹洗温泉では露天風呂に入られていた方がそのまま流されてしまったという話も聞いています。
私は幼い頃浪江町という、今は原発事故で入れない区域に住んでいたのですが、立ち入ってよい地域に行ったことがあるんですけど、ニュースとかでよく防護服を着て入るのを見たことがあると思うが、あの空間は行ってもらわないとわからないんじゃないかなと思います。今でも甲状腺の検査を福島県民の方は定期的に行っていて、それが続くのかなってなんとなく日々の生活の中で思ったりしています。福島の現状をこれからも伝え続けていきたいです

●国枝慎吾さん
自分自身の体験になってしますが、最初にテニスをはじめて世界ナンバー1をはじめてみたのが高1のときだった。その時僕はあんな風にはなれないなーと思ったんです。ただ同じ舞台で、勝てはしないにしろプレイしたいなと思ったのが最初の僕が車いすテニスに対する夢でした。一歩ずつ練習してきて、3年後、そのナンバー1の選手とプレイすることがありました。その時は6−0,6−0で負けました。その次にプレイした時は3ゲームとれました。その次は1セットとれました。やっぱり努力を積み重ねているうちに自分自身のレベルが知らず知らずのうちにあがっていき、5年後ぐらいについに逆転することができました。途中であきらめるんじゃなくて、やっぱり諦めるっていう行為は、全力で取り組んでからだな、というのをこのテニスを通じて感じたので、みんなにも、人間の可能性はやってみないとわかんないんだぞ、というのを伝えたいですね


この他、東北3県の学生からは、震災前は魚介を専門とした商店街が立ち並んでいた街が今はガレキも撤去され、更地になって、面影もない。復興なんてしていない。被災3県の現地にいって、そんな今の東北の現状をしっかり目に焼き付けてもらいたい という声が数多く寄せられました。

またこの日は、東北の学生だけでなく、東京、そして海外からの留学生も集まり、これからの復興支援のかたちや、2020年までに私たちにできることなどが議論されました。

イベントの様子はコチラのページにて、後日報告されます。

2015年8月22日

8月20日 写真家 畠山直哉さん(3)


写真家、畠山直哉さんは、石灰石鉱山の採掘現場や、鉱山の爆破の瞬間をとらえた写真集など数々の作品群を発表。日本を代表する写真家の一人として活躍しています。

そんな畠山さんの故郷・岩手県陸前高田は、東日本大震災とその後の津波で甚大な被害を受けました。震災から4年半。宅地の造成や防潮堤工事など、いま街は大きくその姿を変えようとしています。

◆この惨事をどう未来に伝えるか
津波の被害があった建物の、どれを壊してどれを遺すかという判断は結構大変だった。いまでも大変なことが続いているところもある。例えば広島のドームも時間が経ったら「これは遺すべきだ」という意見が大勢を占めたという。でも今あれがなかったら…と考えるとちょっと怖い。あれがなかったどうやって広島の惨事を想いだせばいいのだろうという気持ちになる。それと同じように、廃墟でもいいからそこになにかがある、そのことで過去と現在がかろうじてつながり、思い出すことができる。そういう仕組みはやはり必要だと思う。


白砂青松。白い砂浜と青い松が広がる景勝地、高田松原もほぼすべて流された陸前高田。震災前の街の姿を取り戻すことは、容易なことではないと畠山さんは言います。

◆ノスタルジーにあふれた空間
どんな街にしたいかという勉強会が2011年、12年には結構あった。例えば古い町並み、江戸時代の街道とかが僕が生まれ育った街には残っていた。その街道とは特殊なかぎ型をしている。話によると、敵が襲ってきたときにかぎ型の街道の影になって、姿を隠せる、そういうデザインだったという話があった。非常になじみ深い空間だった。それを同じように、かぎ型の街道を盛り土の上に再現すべきだという意見もあるのはわかる。これも外国にいったときの話しだが、最近の僕の陸前高田の写真を見せたら、こういう大規模な土木工事を行わずに、以前の平和な街の姿を再現し、そこに都会から人を観光のために呼ぶことがどうしてできないのか、と言われたことがある。つまり、ノスタルジーをそのままデザインして、ノスタルジーにあふれた空間はとても居心地がいいものだから、そこに積極的に都会から観光客を呼べば、街の活性化につながるのではと。そんなコンクリートとか防潮堤とか、山を切るとか木を伐採するとかはやめて、昔のような街を作り直すという発想がどうしてないのかと、アメリカのヒューストンで言われたことがある。でも、いま陸前高田の土地の上に立ってみたら、それはあまりに夢のような話だというのが理解できるのではないだろうか。そういった、江戸時代、明治時代の街並みを再現するというのは、博物館のようにしてしまうということ。日本の何か所で、山間のすごく古い集落で博物館のようにしている例があるが、それは実際そこに資源があったから。僕たちの街はそれをすべて波でさらわれてしまったから、ゼロから博物館の展示品をつくるということはお金がかかりすぎる。よっぽど観光客が来てくれるという自信がないかぎり、それはできない。


東北の沿岸部の中でも、陸前高田は特に津波の被害が広範囲に及んだ地域です。
畠山さんのお話からは、大規模な土木工事で故郷のかたちが大きく変わる、その戸惑いも感じます。


畠山さんが撮った震災後の陸前高田の写真は、写真集「気仙川」と陸前高田「2011-2014」にまとめられています。
また、畠山さんの創作の様子を追ったドキュメンタリー映画「未来をなぞる、写真家・畠山直哉」が現在渋谷の「シアター・イメージフォーラム」で公開されています。

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パーソナリティ 鈴村健一

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