2015年9月2日

9月2日 「3.11を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう」(2)

昨日に続き、東北の震災を語り、そこから学ぶ取り組みをご紹介します。
キッズナウジャパンが主催する講演会 「3.11を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう」。宮城県東松島市出身の3人の高校生が、震災の記憶を語り、首都圏の学生たちと「震災や防災」について一緒に考えるプログラムです。
  
今日はその中から、石巻高校1年、津田穂乃果さんと、石巻西高校1年、相澤朱音さんの震災体験です。震災当時、二人はともに、大曲小学校5年生でした。

◆津田穂乃果さん
東日本大震災のとき自分は授業中で、音楽室にいた。でっかい揺れが来てピアノの下に隠れたが、そのピアノが車輪付きで動いて。あれは危ないからピアノの下に隠れるのはやめたほうがいいです。
弟が二人いて、当時は小3と小1だった。実家が沿岸から200メートルのところにあったので、そのまま内陸の祖母の家に逃げました。あとで「家が津波で流された」というのを聞いて、自営業をやっていたので、会社も家も流されて、家の中がごたごたして、お父さんとお母さんは忙しそうで、弟たちも不安そうで、その狭間でいろいろな葛藤があって、そのストレスを小学校でぶつけていました。
震災を受けていないところからメッセージをもらったが、「頑張ってください」と書いてある。その「頑張ってください」が素直に受け取れなくて。「頑張っているのにこれ以上なにを頑張ればいいの」という気持ちに当時なったりしました。

◆相澤朱音さん
わたしの母もすぐに迎えに来てくれて、当時住んでいた家が海から100メートルもないところにあったので、すぐに避難しました。二日後ぐらいに、家もすべてなくなったと知って、さらに3月の下旬ぐらいに、一番仲が良かった友人が死んだと聞かされて。自分が生きていて親友が死んで。自分が生きていても意味ないのになあとか。それが中学校2年生の前半ぐらいまで続きました。
わたしがこうして人の前に出てこられるようになったのは、仲のいい友人に話すことができたからというのが大きい。話していくうちに、自分の中でも整理ができてきて、いま生きているのは自分だから、前を向いて生きて行こうと思うようになれたんだと思います。


親友を亡くしてふさぎがちだったアカネさんの話を聞いて、励ましてくれたのが、ホノカさんだったそうです。

そして、東松島の高校生3人の震災体験を聞いたあとは、首都圏の高校生、大学生を交えてトークセッションが行われました。「東日本大震災の教訓からなにを学び、なにを伝えていかなければいけないのか。」みんなで自由に話し合いました。

◆自分の命は自分で守れ
(なにを一番伝えなきゃいけないかな?)
穂乃果さん「うちの家訓は、自分の命は自分で守れです。そのとき大人がいるとは限らないので。自分達は授業中だったけど、弟たちは帰宅中で歩いている最中だった。小学3年生だったが、本能的に学校に戻ってきたからよかったけど。」
朱音さん「大曲浜の保育所に通っている妹がいた子が、その妹を迎えにいって亡くなってしまいました。それがわたしの親友だったんですけど。家族みんなで迎えに行くとかはしちゃだめだと思う。」
穂乃果さん「そのときになると冷静な判断とかができなくなるよね。うちの母親も自宅に戻ってしまって。通帳を取りに行ったのに、持ってきたのは母子手帳で。そういうこともある」


セッションでは「自分の命は自分で守る」というキーワード以外にも、「命を守るために地域のことを調べること」「震災を語りつぐこと」などが出てきました。

明日も、「3.11を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう」の模様をお送りします。

2015年9月1日

9月1日 「3.11を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう」

今日は「防災の日」です。
そこで今日は、東北の震災を語り、そこから学ぶ取り組みをご紹介します。

昨日インタビューをお届けした、宮城県石巻市在住の佐藤敏郎さん。児童と教職員、84人が犠牲となった石巻市大川小学校で次女みずほさんを亡くした佐藤さんは、震災体験を語り継ぎ、防災に役立てる活動を続けています。その一つ、「キッズナウジャパン」が主催する講演会が、先日東京で行われました。
「3.11を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう」
 
宮城県東松島市出身の3人の高校生が震災の記憶を語り、首都圏の学生たちと「震災や防災」について一緒に考えるプログラムです。

まず、震災の経験を話してくれたのは、現在、石巻高校に通う高校1年生、雁部那由多(ガンベ・ナユタ)君。震災当時は小学校5年生。まさに九死に一生を得る経験でした。

◆当時学校で震災の話はタブーだった
僕たち3人が卒業した小学校は海から2キロ弱離れたところにあって、海抜マイナス2メートル。実は海面より低かった。当時の東松島市立大曲小学校では、津波被害を含む防災教育はあまり重要視されていなかったので、実際あの大きさの地震があっても、なにをどうしたらいいのかわからないまま、情報を得られないまま校庭で待機していた。そんな中で、僕は(地震から)15分ほどで親に引き渡されて、一旦帰宅して家の中の掃除を初めていた。当時防災無線もすべて電源が切れていて、一切の情報が入らない。どこにも電波がつながらず、携帯も使い物にならないという、そんな状況だった。父親が持っていた消防の無線で「女川に6メートルの津波が来た」という情報が入ったので、もう一度家族全員で学校に避難した。最初は体育館に避難していたが、そのときまだ上履きを履いていたので、外靴を取りに昇降口に行った。そこで津波の襲来に気が付いた。わたしの後ろに5人から6人の避難者がいたが、実は助かったのは自分だけだった。(彼らは)僕から30センチとか40センチも離れていないところで(津波に)のまれてしまった。僕も手を伸ばされたが、波に足を取られたらその時点で助かる確率がほとんどない、波は全部ヘドロで重油なので、ちょっとでも触れたら動けなくなってしまう。それで僕はなにもできず、(彼らが)波にのまれていくのをずっと見ていた。いま考えれば「仕方がなかった」で片づけられるかもしれないけれど、実際は「自分が殺してしまった」という感覚にずっと襲われていた。避難所生活ではみんな生きることに精いっぱいで、誰かに話すこともできず、自分の中で自問自答を繰り返しながら暮らしていた。
4月21日から授業が始まったが、(学校では)震災の話や津波を連想させるようなワードはすべてタブー視されていた。震災体験を誰にも話さず、自分の中で自己完結させて、フラッシュバックや震災関連の言葉を聞くと心臓がバクバクしたりという症状が起きたりしていた。先生にそのことを相談すると「震災の体験に関しては、いま学校で話すべきことではない」と言われ、そのまま小学校を卒業した。
(震災について語る)きっかけとなったのは石巻西高校で開催されたシンポジウム。パネリストのみなさんが言っていたのは自分の体験を人に話すことで、それが「価値のある情報になる」と言っていたこと。「自分の体験がほかの人の命を救うかもしれない」と言っていたことに心が動いた。そのシンポジウムをきっかけに、自分の気持ちと素直に向き合うことができるようになった。
結論として一番大切なことは「語り継いでいくこと」だと気付いた。実際その体験を誰にも言わなければ自分だけの情報として残るが、ほかの人に同じ体験をしてほしくないという思いから「語り継ぐ」ことにした。未災地(まだ災害が起きてない地域)の人を自分たちと同じ目に合わせてはいけない、そう思っていまこういう(語り継ぐ)活動をしている。


雁部那君の震災体験で話に出てきた「未災地(みさいち)」という言葉。
ガンベ君は「まだ大きな災害が起こっていない地域」を「未災地」と呼んで、被災地の経験を生かしてほしいと、震災を語り継ぐ活動を行っています。

同世代の言葉だけに、参加した首都圏の学生さんたちも心に響いた様子でした。
LOVE&HOPE、明日も同じイベントの模様からお届けします。
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パーソナリティ 鈴村健一

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